和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

大震災と安房の海の時代⑤

2024-04-05 | 安房
銚子からの救援団体に、陸揚救援をした漁業団体がありました。

「安房震災誌」の「郡外よりの救護団体」に
「当時郡役所に於て受付けた来援団体は・・」(p290)とあり、
その団体名一覧のなかに『・・本銚子漁業青年団』とあるのでした。

他のページの「負傷者の応急手当」の箇所にも、銚子が出てきます。

「 銚子の関谷医師外5名の来援は、4日の午後9時のことである。

  千葉県赤十字社救護班の一行6名と、医師小野田周齋氏等銚子医師団
  の一行の来援は5日のことであった。・・ 」 ( p244 )

銚子の活動については、「大正大震災の回顧と其の復興」下巻にありました。
最初に銚子から来た救護班があり、それに続いた箇所を引用してみます。

「 第一班の本銚子青年団救護班と引違に9月8日
  本銚子漁業青年団が出動した。団員21名を以て
  班を組織し主として北條に於て陸揚作業に従事したのである。

  当時各地より建築材料食料品等を積込んで
  入港した船が澤山あったが小舟はなし、
  あっても櫓の操れる者もゐない有様で
  陸揚には頗る困ってゐる所であった。

  班員は何れも船乗であるから海中作業は得意とする所、
  裸になって水中に飛込み之等の貨物を自由自在に運搬した。
  又此の間軍隊の上陸や避難民の上陸にも援助したので、
  当局からは大に喜ばれた。
  後に大橋郡長より鄭重なる感謝状を贈られたのである。
  班員は宮内寛之助外21名。   」 ( p1354 下巻 )


このあとの記述も、当ブログに引用しちゃいたくなりました。

「 救護班によって具さに悲惨の状況を目撃したので
  今度は罹災者に衣類を送りたいと考へた。
  
  仍て小学校の職員児童中心となり
  婦人会、處女会等の応援を得て募集に着手した處、
  忽ち熱誠なる賛成を得、其の数3477点に達した。

  之を26梱に荷造りし校長携帯木更津に至り
  之より県有の船舶に依頼して安房郡へ発送した。

  此の衣類には概ね寄付者が氏名を付すことにしたが、
  中には見舞の手紙を入れたのもあった。

  配給後は各方面から可憐な禮状が続々来たが避難の状況
  など書いたのもあって誠に涙を催すようなことが多かった。

  尚同校職員児童より醵出した金211圓及役場吏員よりの
  義捐14圓85銭は県教育会を通じて県下罹災の教員生徒児童に
  贈ることとした。当時同校へは東京方面より避難して来た
  児童が360余人一時に入学した。
  此の内約半数は其のまま小学校を卒業したのである。 」(p1355)




コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする