和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

大震災と牛乳の国・安房郡②

2024-04-07 | 安房
「大正大震災の回顧と其の復興」上巻から、
牛乳とある箇所を、適宜引用してゆきます。

石野正(安房農学校5年)の文を引用。

「我が瀧田村は、彼の大震災に当り、
 比較的被害少かりし為、青年団、消防団員の大部分は、
 被害甚大なりし北條、那古、船形方面に出動して、
 避難民救助、消防やら、糧食の配給等に寝食を忘れて盡力すること3日間に及んだ。

 特に火災の多かりし船形町には、村民有志より
 多大の米穀と、牛乳と筵類の寄付を募って、避難民を救済し、

 且つ村内数ヶ所に、避難民救養所を設けて、
 糧食( にぎり飯、牛乳、湯茶等 )及び
 宿を無料にて提供して盡力せし青年団、消防団員
 の行為は、感謝すべきものが少なくない。・・・  」(p932)

うん。安房農学校5年・生齋藤進の「その時の牛乳の味」(p800~802)も引用して
みたいのですが、ここでは、そのページにあることを確認して次にゆきます。

「大正大震災の回顧と其の復興」下巻には
瀧田村の記述がありました。そこから引用。

「 本村は震災の範囲其の局部に限られた故、
  罹災民が他に避難する必要なく各自が自己の屋敷内に
  応急の小屋を作りて、其の中に全部避難したので
  一定の場所に収容することはなかった。

  救護本部にては東京横浜地方より徒歩にて
  数日数夜を飢と暑さに疲れ果てた人々に対しては、
  第一に食を給し牛乳を与へ、或は一夜の寝に就かしめ
  歩行不十分のものは荷車で次の村まで送り届けなどした。

  青年団軍人分会其の他村有志より成る本村救護本部にては、
  比較的軽微の本村内の救助は随時之をなし、
  大部分は他町村に出動した。
  ( 北條、那古、船形、館山等 )。
  後に安房郡長より感謝状を贈られた・・・・

  特に筆太に記したきは東京菓子製造株式会社は
  無償にて自己所有の生乳を毎日本村救護本部に対し運送方を依属せられた。

  本部に於ては救護員四五名に荷を輓かしめて之を
  那古船形、北條等に輸送したこと約10日間である。
  酷暑と奮闘しつつ数里を運び行きし其の牛乳は
  罹災民に如何に涙と共に迎へられしか。  」( p210~211 下巻 )


こうして瀧田村は局部に限られた大震災だったのに対して
國府村の被害はどうだったのかも引用。

「全村を通じての総戸数は381にして、その被害は郡の調査表によりて
 その正数を案ずるに、実に百分の94に達してゐる。即ち
  
   全潰 300    半潰  61
   学校全潰 1    役場全潰 1         」( p214 下巻 )

「 本村主要の副業は、畜牛にして生乳の産額は郡内屈指の地である。
  震災の結果交通機関は全く杜絶し、煉乳作業又不能の陥り、
  日々搾取した生乳は、全く販路を失ひ、徒に抛棄するの
  止むなきに至りたること約一ヶ月。・・・     」( p215 下巻 )


北三原村の記述も最後に引用しておくことに

「 工場の被害は全くなし只買入れたる生乳は
  全く使用するを得ずして之を10日間廃棄したり。

  其の間生乳は震災の最も甚だしかりし
  南三原村、北條町の傷病者に3日間無料輸送をなしたるのみ、
  他は全く棄却す・・・    」  ( p289 下巻 )


ちなみに、

「 郡農会は当時郡長を会長とし、職員は大部分
  郡吏員兼務なりしを以て、萬事郡長の指揮により
  その対策に萬全を期したり。
  食糧の配給は専ら郡役所の食糧関係吏員郡農会関係職員にて行ひ、
  大震災翌日余震尚甚しき内に米穀徴発の方法を採り・・・ 」

「 尚傷病者救護の為めに安房郡畜牛畜産組合( 組合長は当時の郡長 )
  をして牛乳の施與を行はしめ其の援助にも当れり。 」( p409 下巻 )


とあったので、なるほど安房郡畜牛畜産組合の
組合長は安房郡長・大橋高四郎だったとわかり、
その指揮の下で行動していたことがわかります。


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