落語関連の本を読みたくなる。
さっそく思い浮かんだ本が2冊。
まだ、読んでいないので誰かの『ほめ言葉』を
まず、聞いてみることに。
そういえば書評っていうのは、
本への『ほめ言葉』ですよね。
『けなし言葉』なら読まない。
本をほめるから読みたくなる。
ということで落語本で気持ちよくほめられている2冊。
① 安藤鶴夫著「わが落語鑑賞」(ちくま文庫・1993年)
② 桂米朝著「落語と私」(文春文庫・1986年)
①には、福原麟太郎氏の4ページの文が付いている。
そこから引用。
「・・私は永の安藤ファンで、『落語鑑賞』の初版が出たとき、
それはいま奥付で見ると昭和27年11月15日らしいが、
実に感嘆して、たちまち全巻を読み上げ、ぼくが死んだら、
この本をお棺の中へ入れてくれと、家の者に言った。
それは家内も覚えているし、私も覚えている。・・・ 」(p483)
うん。私の興味も、やっと落語関連本に及びました。
それならばと、読みたい本が安藤鶴夫と桂米朝の2人。
②の巻末解説は矢野誠一。
あれ、ここにも安藤鶴夫が登場しておりました。
うん。その箇所を引用してみることに。
「・・おつきあいのできた桂米朝さんを東京に引っぱり出して、
紀伊國屋ホールで『桂米朝上方落語会』というのを催して・・
なにしろ、プレイガイドの女の子が、持ちこんだポスターを見て、
『ドカタ落語って、なんですか?』といったのだから、
上方落語も東京では未だしの時代だった・・・・
いまは亡き安藤鶴夫さんが、『地獄八景亡者の戯れ』をきいて、
『 大阪にも、素晴らしい落語家がいるね 』と、
感動のあまり声をふるわせていったのを思い出す。・・・・ 」(p220)
「 そんな活字による『桂米朝作品群』のなかにあって、
この『落語と私』は、ひときわすぐれた名著で、
桂米朝の著作ばかりか、こと落語について記された
多くの類書を圧する存在のものである。
10年前。『ポプラ・ブックス』の一巻としてポプラ社
から出たとき一読して、すぐそう思った僕は、
江國滋と三田純市に電話をかけたものである。
10年ぶりに再読して、あのときの新鮮な印象が
少しも失なわれていないことにおどろかされた。・・・ 」(p221)
うん。最後に、向井敏さんの『落語と私』の書評を引用しておきます。
「体裁はジュニア向きでも内容はきわめて高く、
眼の肥えた大人にこそ読んでほしい本がある。・・・・
桂米朝の『落語と私』。
中学生向けの啓蒙書として書かれ、
文体はやさしく語り口は具体的、
気軽に読めるように工夫されているが、
落語という話芸の本質をこれほど的確に把握し、
鮮明に説いた本はざらにあるものではない。
わけても注目されるのは、落語を単なる伝統芸能としてでなく、
生きた通俗社会学としてとらえたことである。
落語にはほんとうの悪人はめったに出てこない。
といって、世人の鑑となるほどの大人物も見当らない。
みんなそのあたりにいそうな人ばかり。
つまり、落語というのは
『 大きなことはのぞまない。泣いたり笑ったりしながら、
一日一日がぶじにすぎて、なんとか子や孫が育って
自分はとしよりになって、やがて死ぬ 』と観念した、
ごくふつうの世間を描く芸であることを桂米朝は強調する。 」
はい。向井敏さんの書評の半分を引用してしまいました。
さあ。この2冊。私にとってやっとこ読み頃を迎えました。