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和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

海辺育ちの母に。

2020-11-03 | 本棚並べ
女子大生ということで、本棚から
曽野綾子と須賀敦子の本を出してくる。ここでは、
曽野綾子自伝「この世に恋して」(WAC・2012年)をひらく。

「私は幼稚園のときからカトリックの修道院が経営する
聖心女子学院に入れられました。帰国子女が多いけれど
大財閥の娘は少ない。まだ有名でもない学校でした。」
(p35)

ちなみに、
大庭みな子さんは1930年生まれ。
曽野綾子さんは、1931年生まれ。

「その当時の聖心は幼稚園、小学校、高等女学校は
白金三光町にありました。・・・・
当時の聖心は2万坪あって、敷地の一部には畑を作って
牛も飼っていました。これが修道院のしきたりなんです。」

「三光町の修道院で牛を飼っていたのは、ミルクと肥料を取るためです。
当時の日本の農業では・・普通の農家では下肥(しもごえ)と呼ばれた
人間のし尿を使っていたんです。
しかし外国人はそれをしませんから、どうしても牛を飼って牛糞を
必要としたんでしょう。生活というものの一部には、畑を作り、牛を飼い、
毎日まめまめしく労働をして、その一部として教育がある・・・
そのような風景として、私の心に焼きついていたのです。」(p38)

「皇后様は聖心女子大学の三級下でした。」(p188)
と美智子皇后さまとの写真も載っております(p189)。

「通っていた聖心という大学の英文科はアメリカ式に厳しいところで、
毎週一冊英語の本を読んでブックレポートを出さなくてはならない。」
(p64)

はい。今回この本をひらいて印象に残ったのは『魚』でした。
ということで、そこを引用してみます。

「母は福井の回漕(かいそう)問屋に生まれました。
私はこの母から、日本の田舎町の『魚文化』を習ったような気がします。」
(p25)

「・・お魚は豊富でした。ほとんどおかずとしては魚だけ食べて
生きてきたようです。それも家でもお料理しないんですよ。
浜の通りに新鮮な鯖(さば)を焼き物にしている店があって、
それをご飯の前になると子どもが買いにやらされるんだそうです。

こういう素朴な環境で育った母は、私に魚の鮮度の見分け方と
アラでも何でも全部使っておいしいおかずを作る方法を子どもの
ときから教えてくれました。ですから私は今でもお客様にご馳走
をするというとお魚料理しかできないんです。・・」(p25~26)

「その日、大学の帰りに、いつも夕飯の魚を買っている駅で降りました。
私は当時から所帯臭い娘で毎日必ず夕飯のおかずを買って帰っていたんです。
母があまり丈夫ではなかったので、そういう生活が当然と思っていました。

美味しそうなたくあんがあるとそれも買いましたけど、
当時はビニールなんてなかったから、新聞紙にいきなり
たくあんを乗せてざっと包んでくれるんです。
その臭いおつゆが教科書にしみることもありましたが、
生活なんてそんなもんだろうと思っていました。
あとで友達に聞いてみると、ほとんどの人がそんな生活を
したことがないと聞いて驚いたんです。
・・・・・・
その頃は食料品を買うにしてもまだ闇市みたいな店が並んでいる
ところです。雨が降ると足元が泥でぬかるような店でお魚を買っ
たりしていると、よく『奥さん』と言われました。
あんまり嬉しい話じゃないですけど、何しろ私は海辺育ちの母に
しっかり仕込まれていますから、魚の名前も知っていますし、
新しいか古いか、安いか高いかも良くわかりますしね。
とてもハイティーンの娘には見えなかったんでしょう。・・・」
(p53~54)

はい。これから寒くなれば、魚は身がしまって、
脂がのって、刺身でもぐっとおいしくなります。





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