和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

どうぞ気楽に。

2020-11-04 | 本棚並べ
桂米朝著「落語と私」(ポプラ社・昭和50年)を
古本で購入500円。
うん。以前に文庫本で買ったのに、安心して、
読まないうちに、見えなくなりました。

単行本の表紙は、米朝さんが座布団で高座を
つとめている写真の全身像。右手に扇子をひらき、
右上をみながら、口をひらいて、語っている一瞬を
とらえています。うん。単行本ならでは。

まず、はじまりでお客さんをとらえるのですが、
この本の「はじめに」を最初から引用することに。

「日本人はむかしは、楽しみを持つことを罪悪のように考えていました。
それはその楽しさにひかれて、働いたり勉強したりすることを
怠けるようになるからでしょう。
しかし一方、
人間は楽しみがなかったら生きてゆけないものであることも、
むかしの人は知っていました。

その楽しみは、ある人には読書であり、ある人にはスポーツであり、
また旅をすることであったり、いろんな芸を鑑賞することであったり、
人によってさまざまです。

あるサラリーマンにとって魚つりは最高の楽しみであっても、
漁師にとってはそれは仕事で別に楽しみではありませんし、
休日にラジオを組み立てることを楽しみにしている人もいれば、
仕事として毎日、工場でラジオを組み立てている人もあります。

それが職業となると、楽しみもありますが、苦しみや悩みが伴います。」

うん。ここまで引用したら、
「はじめに」の全文を最後まで引用したくなりました。

「私は少年のころから落語が好きで、聞いて楽しみ、読んで楽しみ、
自分でしゃべりもしました。そしてこの芸からいろんなものを
吸収しました。この芸にとり組むことによって、他のさまざまな
芸の面白さも味わうことができるようになりました。

しかしこれを職業とするようになってから、苦しみや悩みが
生じてきて、ある時期、せっかくの好きな落語を楽しいものでなくして
しまったことにちょっと後悔を持ったこともありました。

ところが、その時期をすぎますと、今度は今まで気がつかなかった
おもしろさや、この芸の奥ふかさがわかるようになり、さらに
人生観というか、人間として生きてゆくうえの、心の持ち方、
人の気持ちへの思いやり、善悪その他の価値判断、そんなものまで、
私は落語を通じて考えさせられるようになってきたのです。

そして弟子や後輩に、やっと自信をもってなにかが言えるようになりました。
私はやっと50歳を迎えたところです。芸の世界ではこれから・・・
という年齢です。まだこれから私は変わってゆくかも知れませんが、
この時点で私はこの本を書かせてもらいました。

この本には私は少しもウソや誇張は書いていないつもりです。
みなさんに落語というものをわかっていただきたくて一生懸命に書きました。
別にかた苦しいことを書いているわけではありませんので、
どうぞ気楽によんでやってください。

  昭和50年11月     桂米朝  」





コメント
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