和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

老史学者が。

2012-11-12 | 短文紹介
磯田道史著「歴史の愉しみ方」(中公新書)に
古島敏雄先生に触れた箇所があり印象に残ります。

「歴史学者というのは、災害に弱い。作家もそうだと思うが、膨大な蔵書を家に抱えてしまう。・・・大学院生時代に、それを思い知った。老史学者が、夫人もろとも、たて続けに焼け死ぬ、いたましい事故がおきたのだ。
古島敏雄(ふるしまとしお)先生という農業経済史の碩学がおられ、お会いしたことはなかったが、このうえなく尊敬していた。この先生は、誠実な人で、空襲にあって家を焼け出されたとき、たしか東畑精一さんのところへ、であったと思うが、すすだらけの顔でやってきて、一冊の本をさしだし、こういわれた。『先生、わたしの家は丸焼けで、本は全部やられましたが、先生にお借りしたこの本だけは、とりだせました。お返しいたします』。その古島先生が16年ほど前、ご自宅の火事で、夫人とともに焼死された。空襲で焼け出されてから、こつこつと蔵書をためてこられたにちがいない。その本に、引火して、あっというまに燃えひろがり、ご夫婦の命を奪ったのだ。それだけではない。その翌年、鎌倉時代の武士団の研究で知られる安田元久先生が、これまた夫人とともに焼け死んでしまわれた。皇太子殿下の指導教授にして元学習院大学学長である。
このとき、学者が蔵書をもつのも、命がけだ、と思った。」(p116~117)

古島敏雄氏といえば、
一冊もっております。
古島敏雄著「田舎町の生活誌 子供たちの大正時代」(平凡社)。
その本のはじまりは「深夜の大火」という文からはじまっておりました。
ここでは、その「あとがき」を紹介してみます。

「私は1912年4月14日に生まれた。この年7月30日から年号は大正となる。従って4月は明治45年である。・・・本書中でも述べたように私は大正11年5月に生まれ育った家を焼いている。そこで自分の幼時に使った家具、その他の道具、読んだ本、さらに幼時の写真の全部を焼いている。さらに昭和22年に又故郷の家は大火災に会って、私の青少年期の読書の対象だった書籍、多少の日記その他の記録、その後の写真も焼いている。それに先だって昭和20年4月には東京の住居も戦災で失い、青年期の書籍、作業中の原稿・ノート、写真の類もすべて失っている。物にふれて昔を思い出し、僅かな記録によってその時日を確かめる術は、私自身については全くない。すべては心に残るものだけになっている。」

検索すると、「1995年8月29日焼死」とあります。
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