わだつみの華

あなたの心という大海原を
心地よい風が渡っていきますように

(記事はリンクフリー)

CWLP(宇宙子科学)について

2011-01-14 11:52:19 | 癒し
 (問)CWLPセミナーの資格についてですが、これは昌美先生の

ご指示だということでしたが、その中の一つに大学卒云々と

いうのがありましたが、あれはちょっとおかしいのではないか、

又、昌美先生のご命令に素直に従える人というのもどうかと

思います。昌美先生をとりまく人達の配慮が足らないのでは

ないかと思われますが・・・


 (答)あのね、例えば斉藤さんの霊験巡講記を読んでもね、

まだ私が生きている頃ですよ、昌美が宇宙子科学の人達のあの

メンバーの力を使って、白光真宏会の力を使って、世界を平和に

してゆきますというようなことを、エンジェラスカラーさんを

通して言わせた。そうすると、斉藤さんがすごく感激しちゃってね、

昌美先生の言葉は五井先生の言葉と同じだと、古い会員は皆そう

思っていると書いている。

 確かにそうなんですけど、斉藤さんがあの時点でああいう風に

言ったことと、今回のああいう風な出し方というのは、内容

というか本質が全然違うんですよね。


 大体、御命令というのは、あれは斉藤さんのあのしきりで言えば、

五井先生というのは何かというと、五井先生というのは場所でしょ。

 神様の場所ですよ。だから五井先生というのは空なんですよ。

 五井先生というのは、皆から質問が来て、自分で考えてどう

答えようかなあとは一度も思ったことはないんですよ。要するに、

天の気が流れてくるままに、そのまま答えてるんです。それが

五井昌久なんです。肉体の五井昌久と神体の五井昌久と

皆こうなっちゃうんですがね。講話集にも書いてあるけれどね、

生きてる間私は便所にも行ったし散髪も行ったしね、入れ物

なんだからちょっと磨かなきゃと思って行ったんだけれどね。

 要するにそうなんですよ。神様が必要な時に私に宿る。何でか

というと、五井先生になる前の五井昌久という人間は、神様の方に

生命を返しちゃって、そこで自分を捧げたから、世界人類が平和で

ありますようにという一念に生きさせて下さいということになった。

 自分自身が素直になった為に、あの様な現象になった訳です。


 だけど、それは誰もが出来ることなんですよ。本当の意味では、

生命を投げ出したら、人間というものは神様の子供ですから、

誰だって五井先生と同じになれるんですよね。そういう人が

増えてくれば私はすごく楽になる、昌美も楽になる訳ですけど、

本部がこの間言った昌美先生の御命令にというのは、私自身の解釈

で言えば、要するに、昌美を通して五井先生という人を通して

後にある神様に素直になれる人ということに結局なる訳です。

 ただ言葉が非常に不親切で不適切でね、昌美先生の御命令

というのは、肉体人間の西園寺昌美という個性のきつい人間

という風にとってしまうと、人間に対してどうしてということに

なりますからね。その辺が非常に言葉が足りないんですよまだ。


 勿論、親衛隊みたいに昌美をとりまいている人達がいるんですよ。

 それはいいとか悪いとかじゃなくて、それはその人たちの役目

なんですよ、守るということが。それはどういうことかというと、

肉体的にも精神的にも非常に不安定なんですよね。あの人は。

 今修行をやっていて、瀬木さんとか高橋君とかががっちり

守ってくれないと、本当にバラバラになっちゃうんです体が。

 疲労度もひどいんですよ。そういう意味で、守る立場の人も

いるんです。必要なんです。


 但し、それだけで固めちゃって、結局昌美先生は底辺に降りて

ゆかないということになれば、これはとんでもないことなんですよね。

 本当に、一人一人の嘆きや苦しみを自分のものにする為に、今

ああやって修行している訳ですから、そこのところを間違えたら

いけないのと、大学卒業というのは、どこの誰がどうやって

決めたのか、いつの間にかポコンと出てきたことですが。要するに

あれは、世界中に白光の教えが広がっていくから、どこの外国に

行っても大丈夫なようにというのが、そういう意味が大学卒に

なっちゃったんでしょうが、それにしてもね、じゃあ大学を何かの

事情で卒業できなかった人とか、途中で止めた人とかね、

行かなかった人とかね、それでいて優れている人。すごく音楽が上手

だとかね。そういう人はどうなるのかというのがあって、あれは

絶対書いてはいけない言葉なんですよね。あれは間違いなんです。

 但し、ああいう形で集まって来た資格の中に入って、尚かつ純心で

という人はいるかも知れませんよね。それで集められて鍛えられて

人間はやっぱり育ってゆくもんですから、そこでもうちょっと幅広く

活躍してもらう為に鍛えてゆこうと、こちら側ではそう思って

おります。ただ、ああいう言葉使いというものはするものじゃない。



 (問)本部が招集した御修行を必ず済まされる方というのは、

そうすると、職員の方位しか不可能で、地方の普通の職を持っている

人はほとんど参加できなくなるのでは。


 (答)それはおかしいですね。人間というのはものすごく幅の広い

ものですからね。肉体だけではないし、幽体も霊体も神体も

持ってるから、行こうと思えば何処にでも行けるんですよね。だから、

肉体的に聖ヶ丘に行かなくても富士に行かなくても、想いをそこに

飛ばせば、錬成会でも何でも皆全員出てるということは、霊的に

こっちから観ればそうなんですが。


 実際に自分で肉体を運んで足を引きずって、くたびれたけど良かった、

あの人に会えたとか、あの先生に会えるとか、ああいい話だったとか、

やっぱり自分の記憶にきっちり刻み込んで、感激したとか感動したとか

というのがあって初めて、人間というのはね、ああ自分のものに

なったなという気持ちになる訳でしてね。ですから、本質的には

皆そこへ行っているのと変わりはないんだけれども、ああいう枠を

はめてしまうと、第一寂しくなりますからね。あのやり方というのは、

何か宗教というものを取り違えてるのが書いたんだと思いますけれど。


 まあでも今、白光はそういう風にちょっと逸れて、逸れることで、

本当に愛するとか労わるとか優しくするということがどういう事かを、

これから学ぶんですよね。一回そういうことをガツンとやらないと、

生みの苦しみをやっておかないと、人間は本当にやさしく

なれないんですよ。やはり、あれだけの組織になっちゃうと

難しいところもあるんだけれども、それは集団であれ個人であれ、

個人が個人に対してだって、本当に優しさの極みまで愛してゆく

ということはとても難しいことで、極みまで愛せるのは神様しか

いないんですよ。神様しかいないんだけれど、人間の真実の姿

というのは、神様の姿を写した、神様の愛の光を受けて生まれて

来ているもんですからね、神様のお姿ですから、神のように

愛することは出来る筈なんです。


 その自覚をもって覚悟をもって、自分を赦し人を赦す、

自分を愛し人を愛すという、それが出来てゆくようになればですね、

本当の意味で出来てゆくようになれば、本部も地方も何もかも

無くなっちゃうんです。で、寂しいということから、皆が、自分達は

何が出来るか、自分達にもこれが出来る筈だという反発だとかね、

そういうものを下から突き上げていってくれて、その人達はその人達で、

本部に放ったらかされたから、もうあんな本部には尽くすまい

という形でね、自分と神様との関係がおかしくなってゆくと、

本末転倒になっちゃうんですよ。そうなっちゃあ困るんです。


 自分と神様との関係というのは、原稿にも書きましたけれども、

人間はね面白くないことがあったり、くだらない事があったりすると、

止めたということが出来るけれど、神様はいかに人間がくだらない

行為をしても、もう愛することを止めようかなというところまで

いっても、神様というのは、いつも赦して愛して、赦しっ放し

愛しっ放しの人なんですよ。神様の方から人間を放たれたということは

人間の誕生以来ないんですよね。だから、そういう愛情というものが

神様から注がれている人間で有るんだから、少々のことで

神様の愛から離れないようにしなくてはいけない。

 神様の愛から離れないようにするということはどういうことか

というと、そういう色々腹の立つことはあるだろうけれど、その中で、

じゃあ自分を大事にする、相手を大事にするという基本的なところは、

自分にとってどこなんだというところを、祈り心でもってやっていって

もらわないと、どうしようもないんですね。


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