うさとmother-pearl

目指せ道楽三昧高等遊民的日常

被り物の下

2005年12月04日 | ことばを巡る色色
小さいころから、被り物が好きだった。
小学校に上がる前から、友達の家で、毛布をまとって、王様ごっこをした。
中学校に入ってからは、お芝居をした。部活動やら、クラブ活動やら、サークルやら。
被り物が楽しいのは、脱ぐときがあるからではないだろうか。脱いで驚いてもらいたいからではないだろうか。被ってた時はああだったけど、本当の私はこうなんですよ、さあ、どうだ!ってのが楽しくって、被ってしまうんじゃないんだろうか。観客側も、この人はかぶってるんだけど、本当の顔は何でしょうってのを楽しむ。
しかし、脱いだ時、「えぇーー」と、落胆の声が聞こえると辛い。脱いだ時に大向こうをうならせたいがために、かぶっていない素の自分を磨くべく精進してしまうってのも、本末転倒だけれど、正直言って、ある。

ここで私は、「うさと」を被っている。
もちろん、読んでくださる中には、実@私を知ってる人もいるのだけれど、「忙しい旅館の女将」と思ってくださる人やら、「ノスタルジックな男」「色気のないおばさん」「熱い青年」「投げやりな妻」「講釈師な奴」、いろいろな受け取り方をなさってくださっているだろう。
まあ、その中で、平均的なのは、「パソコンサークルに入ったらブログをすることになってしまったnet初心者の石を投げたら当たりそうな主婦」なんてのだろうけど。それは面白い。私が会社とプールのある300坪の家と偏差69の学歴と某国家資格と50万部発行の著作とを持ち、宝くじで1億2千万当たり、ビルを3棟持ち、日本有数のルオーのコレクターであることを誰も知らない。それが私の正しい実像かどうかは別にして、面白いことだと思う。

「作ったもの」は、それだけで判断されるべきだ。「パソコンサークルに入ったらブログをすることになってしまったnet初心者の石を投げたら当たりそうな主婦」が書いた文章は、面白いものになっているでしょうか。ただ、ただ、それだけが私の求めるものだ。私が何者であっても、「作ったもの」が面白くなければ、私は、「何者でもない」
「書く」ということは、裸の私が問われるものだと思う。肩書きも過去も家族構成も、書いたものが面白くて、初めて問われるものだ。
それは美しい行為だなあ。削いで、削いで、「書いたもの」でつながっていられたら、美しいなあ。
コメント (12)
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