うさとmother-pearl

目指せ道楽三昧高等遊民的日常

おシャレなせいかつ

2023年04月30日 | ことばを巡る色色
矢野顕子とMISIAの対談を見ていて、急に突然むくむくおシャレなくらしをしたくなった。
ってことで、はてさておしゃれな生活ってなんでしょ、って考えるよね。ずっとずっと前、ちょっと私はおシャレなくらしをしていたな。その心はフレイバーティーだし、なにはともあれリーフで飲むお茶だな。アールグレイとかローズティーとかミントティーとか、食器を季節ごとに入れ替えるとかね。そして花を買う。茶器はもちろん玻璃の王様、HARIOだね。
高校や大学のころはお茶をちゃんと飲んでいた。紅茶喫茶みたいのに友達と行ったり、デパートの食料品売り場で紅茶缶や、量り売りの日本茶を買ってた。考えようによってはいやったらしいかんじだけど、茶葉やコーヒー豆をゆっくり蒸らして飲んでいた。ケイトグリーナウェイを見ていた頃だね。目についた気に入るものを周りに一つずつ積んでいた頃だね。秋になれば織部を出し、春になれば染付を出し、夏になればガラス器を出してね。
いつの間にか、そんなことはすっかり横にやり、私ってばカラカラっだったよね。カサカサだったよね。それはかわいそうなことではないんだけど、道にあるものをなぎ倒しながら、土煙をあげてどすどすったったか進んでいたよね。うちには買っただけで開けてもない紅茶の缶がいくつか残ってしまっている。
おシャレって、人それぞれのものだろうけど、私にとっては時候にあう好みのお茶碗でお茶を飲むってことってわけだ。一抱えほどの小さな世界が私のおシャレの世界であるのだ。私のおシャレの解が、このようなものであったことに笑えてしまうけど、ちっちゃなデージーとかが咲いてる草むらみたいなとこで、ぬくぬくで、かわいいこったな。経済とか表計算とかポイントとかクーポンとか空の方に蹴飛ばして、かわいらしいおシャレなくらしをするのよ、さあ、みんな。
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誕生日の夜に

2023年04月26日 | ことばを巡る色色
唐突な危険に、私は走っていた。周りの崖からは大粒の石や土がばらばらと降りかかり、土煙の中で景色がかすんだり見えたりしていた。左下には急流が流れ、周りの人は大声で何か叫びながら、とにかく逃げていた。まだ、地面は揺れを繰り返していた。石を飛ばす崖も、眼下の急流もおさまらぬ揺れが造り出したものであるのかもしれない。見も知らぬ人々が、とにかくここから逃げろと叫んでいる。でも、土埃でかすんで、いったいどこが安全な場所なのか、わからない。人が走る方へ、少しでも地面に近い所へ走り下りていこうとするが、よろけてまっすぐ進めない。隣の人が私の手を握り、かすんだ大気から引っ張り出すようにしてくれた。その人は知っている人のようでもあり、私を助けてくれる理由もない人のようでもある。日が暮れたのかあたりは暗くなってきた。やっと平らな場所に立っていた。多くの人ががやがやと草の上に座り込んで何かを話しているが、聞き取れない。手を引いてくれた人と手をつないだまま暗くなった空を見ると、宇宙ステーションが灯りをつけて空にとどまっていた。昔、こんなアメリカ映画を観たな、と思った。夜気はしっとりと冷たく、明るく空に浮かぶものから逃げるべきであろうが、見上げたまま見入ってしまい、しばし足が動かない。逃げねば、もっと遠くへ逃げねば。どこまで逃げねばならないのか、何から逃げねばならないのかわからないまま、とにかく私は違う場所に行かねばならないとおもっていた。服は土埃をかぶり、かさぶたのように乾いて固く体を覆っていた。どこともわからぬ夜の草原にいたことは覚えているが、そこから先は思い出せない。
ぼんやり目を覚ますと、白い布団の中にいた。さっきまでの重い上着でなく、柔らかく白い部屋着を着て布団をまとっているようだ。「うちにいるの?」「うちにいるの」って言葉がこんなにいい響きの言葉だったことにじんとしてしまった。「うちにいるの?」声に出してみると、隣には人がいて、ゆっくりと強く私を抱きしめた。うちにいるのかもしれない。わたしはうちにいるのかもしれない。隣の人はまた、柔らかく私を抱きしめた。甘美な抱擁だった。あまりにもすべてを投げ出せるような抱擁だったので、私は思わず隣の人を押しのけてしまった。こんな時も私は抱きしめる人をはねのけるのだなと思いながら。
そんな、エロティックな夢を誕生日の夜に見た。
隣の人を押しのけたところで目が覚めたけれど、しばらくどきどきして呆然として動けなかった。もう長いこと生きてきてそんなことはもう信じなくなっていたのに、何にも信じていないのに、昼になっても甘い思いが押し寄せる。
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upper

2023年04月23日 | ことばを巡る色色
魔改造の夜を見ながら、考える。
そもそも日本は何を間違えたのか。これまで日出る国は落日を経験しては来なかった。日の出前というのはあったにしろ、日没する時を知らない。
そもそも日本は間違えているのか。何十年か前、アジア諸国の物価を知り、あの国ではヌードル一杯100円以下なんだな、発展途上の国だしね
と思ったのと真逆のことが今、この国で起こっている。円のように企業も国も負け負けだし、これはもう、国として終わってるってことじゃないのって思っちゃう。快適で安い食事のできる国って、国内民にとってほんとにいいことなんだろうか。技術立国のお掃除ロボットもコードレス掃除機も高機能ドライヤーも羽根無し扇風機もスマートフォンも外国製だし。頭脳も技術もこの国を捨てて流出しているし。
まだ子どもだった時、世の中のいろいろがわからなかったとき、とにかく、とにかくもっと「いいもの」になりたかった。曖昧ではあるがアッパークラスに行きたかった。それも今考えるとオールドファッションではあるのだが。
アッパーって、インテリジェンス。クラシック音楽も伝統芸能も理解。多方面のリテラシー。サイエンスでアートでインテリジェンス。幼い私にはそんなイメージだった。そして今、そういうイメージもオールドファッションではある。しかし、インテリジェンスも落日であるのか。
既得権益を守る人々は社会を淀んだものにしてしまったけれど、政財官は既得権益まみれで、特別枠で一流私大に入り一流企業に就職した良家が一流の顔をし、それが落日の国にしている理由であるけれど、既得権益の人々よ、インテリジェンスをなめるな。
魔改造はばかばかしいのだけれど、そんなことを楽しんでできれば、よい。
インテリジェンスよ、なめられてはいけない。たとえオールドファッションと謗られようと、インテリジェンスよ、まけてはいけない。
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観音悔過

2023年04月19日 | ことばを巡る色色
一年に一度の、十一面観音の御開帳に行く。観世音の口は慈悲の息を吐こうとし、足は衆生を救おうと踏み出している。
闘いまみれの修羅道を救う十一面観音。闘いまみれの私は、跪いてこうべを垂れて、叱られに、救われに、拝む。仏像は相対するものではなく、見上げるお方である。そうしてこの一年の悔過とこれからの一年の正しい行いを祈る。
今年の御開帳は誰とも話さず、ただ悔過をし、拝んで、帰ろうと決めていた。蘊蓄やら講釈やらを考えず、ただ祈って帰るべきだと、今年は決めていた。わたしってば、こんなにいろんな観音様を巡ってきたのよ、だのなんだの言いたくなるんだから、それはもう、やめよう、と思った。
十一面観音の前には多くの拝観者が、あずまの言葉で像の造作装飾をほめたたえ、聖林寺と似ているなどと時に歓声を上げてペンライトの灯りを当てている。なんとつまらぬことであろう。
十一面観音は、水の、瀧の、龍の、そう、春の母なるお方。瀧を流れ、水は地を潤し草木は芽生え花は咲き、この国の春は観音とともにやってくる。観音の扉が開かれ、よろずのものが生まれ流れ、そこにある。
どうぞ、静かに膝を折り観音を仰ぎ見なさい。まずは、様式だとか制作年代だとかは床において、あの方を仰ぎ見なさい。仏を信じようと信じまいと、長い長い間、このお方の慈悲を祈った幾万の人々を感じてみなさい。その人々が観音を思ってきたということを敬いなさい。そうすれば、観音を感じることができるかもしれない。

来年は辰の年。六波羅蜜寺の扉が開くね。また、お会いしたいな。
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