うさとmother-pearl

目指せ道楽三昧高等遊民的日常

ここだ愛しき

2005年12月10日 | ことばを巡る色色
前回の記事において、私は私の感動を、私はうまく表現できたのだろうかと反省いたしております。
番組(NHKスペシャル「脳梗塞からの“再生”~免疫学者・多田富雄の闘い~」http://www.nhk.or.jp/special/libraly/05/l0012/l1204.html)に関して言えば、「障害を持っているけどがんばってるよ」というような次元を超えたものだと私は感じました。抽象的な言葉で言えば、「尊厳」とか「アイデンティティ」とかいうものへの感動です。人は自分の一部を損なうことが往々にしてある。それは体の一部だったり、目に見えないところのの一部だったりするのだけれど、その時、その人の、その人であるという「尊厳」「アイデンティティ」はいかに持ち続けられるのかということに関してです。「自分の望まない自分」にならざるを得なかったとき、いかに「自分」であり続けることができるのか。自分が心のどこかで忌む姿に自分がなった時、どのように「自分」であり続けようとするのか、ということです。
不能」「無能」「不自由」を自分は差別しないと思いながら、心のどこかでそれを忌避しようとしている。だから、自分がそうなったとき、落ち込んだり、混乱したりする。いくら心の広い、思慮の深い人でも、そういう「差別」は、他のみでなく、自に向かっても持っている。でも、状況がいかに自分の望まぬほうに進んでも、人は生きていかなければならない。その時、本当の「その人」が問われるのではないかと思います。
彼が、「自分の望まぬ自分の姿」に苦しみ、あがき、受け入れ、自らのなすべきことを、「自分」であり続ける中でし続けたことは、美しかった。冴えた、一線の科学者としての頭脳の中で、受け入れがたい不自由な自分を受け入れ、その中で己のなすべきことを考え続けたその精神。
「自分がもはや、弱者の立場になったことを受け入れてかつ、あきらめない」「できぬ自分をできた記憶を持つ自分が冷静に見て、その上で生きる」「できぬ自分として、この世に送られた意味を考える」というところに感動したのです。
もうひとつあります。それは、タイヤ屋さんの話です。「尊厳」「アイデンティティ」のあり方は一様ではないということです。多田さんの仕事は、輝くばかりの世の中で評価されえているものです。しかし、わたしは、タイヤ屋さんにも感動した。だから「尊厳」のあり方はさまざまで、世のつける上下なんて、本当に「瑣事」だと思ったのです。生きていく中で大切なのは、何なのか。ささやかに、しかし、けして絶望することなく、自らの「できなさ」から目をそらさず、その上で「よりよく」生きていくことなのだということです。「できない」自分や、「できないことは負であると思ってしまう」自分を自覚するのはつらい。しかし、そこからしか始まらない。そうわたしは思っています。
以前ちらりとブログにも書きましたが、私自身が、「自分の負の部分」(性格が暗いとかそういうのではなく、社会的なマイノリティーの要素です。いわば、「差別さをうける」要素です。)を持っています。わたしはそれから逃れられないけれど、同じ境遇にある人を、どこか「差別」する自分もいます。そういう自分は弱いと思います。自分が、「恥ずべき要素」と思ってしまうのは、とりもなおさず、その要素への「差別」を私が持っているからです。なんと、だめなやつでしょう。なんと、悲しいことでしょう。でも、それがわたしです。その私がどのように生きるのか。どのように、それらのすべてを抱き、絶望せず生きるのか。「差別される側」でありながら、「差別する意識を消せない側」である自分をどう生きるのかは、わたしの大げさに言えば、人生の課題です。だから、わたしにとっては、「ありがちな感動」などでは済まされないのです。わたしの、「死活問題」なのかもしれません。
コメント (8)
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