うさとmother-pearl

目指せ道楽三昧高等遊民的日常

上がりの色

2007年07月12日 | ことばを巡る色色
NHKの朝の連続ドラマを見ている。「どんど晴れ」である。もう、圧倒的なのは、大女将 草笛光子の美しさだ。完璧に美しい。髪形も眉も口紅の色も「降臨」である。
ずいぶん昔、玉三郎様(一時熱中したことあり)に「吉永小百合さんのような、上がった女性の美しさがいい」というのが有った。とてもとても若かった私は、その意味がよくわからなかったけれど、こういうことかなと今は思う。
黒柳徹子さんの着物姿も好きだ。肩の辺りがちんまりとよじれている。タオルで体型補正とか、衿芯とかの野暮なことはせず、持ち歩いた手土産の豆餅のような格好がいい。北林谷栄の銀鼠の紋付なども、ぞくぞくする。「刀自」は、蔵の奥の文書のお話も、おくどさんに棲む神様の名も、町の勘定場の番頭の口癖も、持ち山のきのこの場所も、花の名の付けられた井戸の由来も、みんな知っているのだろうな。聞いてはいけないことをたくさん知っている刀自は、何か諦めているようで、でも何も見捨ててはいないようで、その秘密の分だけ、艶っぽい。あな、おそろしや。
テレビに出てくるオネーサンたちは、トップシーズンのように扱われているけれど、昨日今日、高校を出た子達だもんね。
刀自たちは「対象」ではないところが、美しい所以だな。
こんな風に思うわたしもずいぶん「対象」を外れてしまったんだろう。玉三郎はもともと対象外の人であるから、刀自に惹かれていたのだろう。そして、今のわたしも同様。
持たないことは全てを持っていることであり、外れていることは中心にいるということであろう。以って色即是空、空即是色。
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湿った風乾いた風

2007年07月01日 | ことばを巡る色色
昨日今日、梅雨はしばしお休みで、爽やかな風が吹いている。この時期の風は格別だ。吹いてくる風の中の粒子一つ一つに青葉の葉緑素が詰まっている。これからいっそう濃く繁っていこうとするわくわくするような意思が風の中に散りばめられている。爽やかであるのに、渇ききってはいない。過日降った雨の水分をたっぷりと含み、命が満ちている。
だから、わたしも歩き始めよう。

雨が降り、土を潤し、内も外も、湿気の中で菌類は糸を伸ばし、晴れた日には乾き、粉となって散っていき、そんなイメージの全てが、命に満ちている。

ここも、蛍の季節には多くのアクセスを頂いていた(見知らぬ訪問者の方、ありがとうございました)それも、落ち着き、そうして、初夏の風が吹いている。

ああ、知は積み重ねられていくものだ、と思う。「知識」のみでなく「知」も、突然塔を立てるのでなく、低層から順々と重ねられていくのだ。それをイメージしてみる。そして、そのイメージの中で豊かな命に溢れた初夏の風に立ってみる。

週末は西から来客があり、家の中に積もった湿った物渇いた物を、掃き出し拭いた。草を刈り、水を撒き、無事に客を送り出し、体の節々が筋肉痛になっていることに気づいた。随分緊張してお迎えしたのだと気づく。幾分きれいになった我が家で、私は私として生きるのだと、今更ながら思う。
白洲氏茂木氏千氏の日曜朝の対談を見、私が考えてきたこともあながち間違ってはいなかったと思っていいのかな、と思った。掃除から戻りふと我が家の屋根を見上げて、その中に家紋入りの瓦があるのを見つける。もう長いことこのうちに住んで、そんなことに気づかなかったなんてと、笑えてしまう。

やはり私は、美しい、ということについて考え続けていこうと、おもった。

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