うさとmother-pearl

目指せ道楽三昧高等遊民的日常

ゴスロりの巫女

2008年05月06日 | 語る!
祭日は各々の意味を持つ。5月3日は憲法記念日。9条を守る会の催しがあり、私も出かけた。しかし、私にそのイデオロギーが在るわけでなく、門外の徒である。脳はたまにかき混ぜてやらぬとならぬ。日常でないものを見たり聴いたりしないと、固まってしまう。なんて、理由付けもできなくはないのだけれど、本当は、雨宮処凛という人の話を聴いてみたかったのだ。白黒のゴスロリでやってきたその人は、しごく至極、真っ当な考えを持つ人だと私には思えた。彼女はゴスロリを「戦闘」服のようなものだと表現したけれど、それで身を固めることにより、彼女は、インディーズ系デモの巫女となるのだろう。「時給を上げろ」「マック難民を追い出すな」「マックに住まわせろ」というアジテーションは、祝祭の巫女のようだと、思えた。人には祝祭が必要で、祝祭には巫女が不可欠ということだ。巫女が居ることにより、依代がそこに立つ。絶対の神ではないかもしれないけれど、どこかに宿る誰かの神が、彼女を柱とするのだ。彼女がイデオロギーを持っているか、それが絶対に正しいかどうかは、むしろ問題ではない。そのような神が必要とされ、人がその言葉を聞きたがっていることが問題なのだ。その祝祭に参加したいと思っていることが問題なのだ。祭のための祭である。プレカリアート、フリーター、非正規雇用、なんと名づけてもよい。閉塞の冬を啓くのは、岩戸前の祭であり、それが猥雑であろうとなんであろうと、まずは踊ってみなければならぬのであろう。グローバルな経済社会で働き生きていくという現実の中にいるのだから。日本人の10分の1の収入の国の人々が競合他社である世の中で、閉塞にうなだれるだけでは駄目なのだ。
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殿様の牡丹と屏風がおいでと言う

2008年05月02日 | お出かけ
世の中はゴールデンウィーク。仕事柄、中途半端な休みしか取れないのだけれど、晩春とも、初夏とも思えるご陽気はお出かけを促す。日曜は、仕事がらみで名古屋に行かねばならず、どうせなら何かを見てきましょうと、徳川美術館に行くこととした。徳川美術館、たいていの場合ハズレはないし、牡丹の季節だし。開催中の企画展は、江戸絵画だし、焼け残った旧本館のエントランスは蒔絵調で近代建築っぽいし。そんな軽い気持ちで行った「桃山・江戸絵画の美」展。
初めて入った徳川園は、ちょいと整備されすぎている感はあるけれど、広大なすがすがしいお庭で、牡丹の咲き乱れる。
          

さて、「桃山・江戸絵画の美」
とにかく、疲れた。目やら脳やらの奥に濃密に質の高い絵画が積み重なって行き、いっぺんに見るにはもったいないほどだ。
切手になった「本多平八郎姿絵屏風」を初めとして、「相応寺屏風」「豊国祭礼図屏風」などなど、しかも、すべてとてもよく保存されている。
屏風の中では、恋文を渡したり、祭の列に踊り遊んだり、市で物色をしたり、笑ったり、囁いたり、怒鳴ったり。みんな色とりどりの、手の込んだ柄の衣装をつけ、さんざめく。
徳川美術館の特別展というと、初音の調度の時期と源氏物語絵巻の時期以外は、刀やら茶道具やらのような、いわゆる茶色な物が多かったように思う。隠し持っていらしたわけではなかろうが、絵の特別展は少なかった。それ故に、さして期待もせず、ふらりと立ち寄った中での見るしあわせは金粉を浴びるような気持ちだ。これだけの優品が、惜しげもなくたっぷりと展示されている。大きく宣伝されることもなく。本多平八郎のゆったりとした立ち姿のように、最高の御洒落。
ここで見た絵はどれもどれも、楽しかった。屏風の中のどの人も楽しくて、屏風を書く人も楽しく、楽しく書いていたのだろうと思える。
           

美のための美は、五月蝿い。自らの美を追い求める気持ちが重ったらしい。己の美への利己心が見え隠れしてしまう。どうだどうだ という気持ちが透けて見える。自分の美に平伏させようという心が、どうしてもそこに出てきてしまう。美はひれ伏すものだ。美のために作られたわけではないものに、美がある。

ゴールデンウィークのお出かけ、徳川美術館特別展「桃山・江戸絵画の美」、必見です。渾身のおすすめです。
わたし?も一回、尾張の殿様のもとへ参りますぞ。
コメント (2)
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