うさとmother-pearl

目指せ道楽三昧高等遊民的日常

平均律上のバッハ(再捧)

2022年09月16日 | ことばを巡る色色
テレビでバッハをやっていた。昔書いたバッハのことと、私はやはり同じ気持ちだ。
心挫けるとき、バッハが私の上にあることは幸運だ。



私は、ただただ音楽を聴くだけの人でピアノお稽古もしたことはないし、初めてのクラシック体験は百科事典の付録のソノシートで聞いたシューベルトの「野ばら」だった。だから、バッハのこともよく知らない。
バッハという人はエピソードを語られない人だ。モーツアルトもベートーベンもシューベルトも大音楽家といわれる人を描いた映画は数あるが、バッハの人生を映画にしたというのを聞いたことがない。彼がどんな暮らしをし、どんな恋をし、どんな名誉を得、どんな失望を味わったかを、私は知らない。
しかし、時々バッハという人について考える。私にとってバッハとはそういう人だ。

わたしの想像の中でモーツァルトは口から音符を吹いている。ボッティチェリの絵に描かれた口から花を吹く春の女神のように、念仏とともに阿弥陀仏を吹く空也上人のように、モーツアルトは呼吸をするように音を紡ぐ。わたしたちは天才を愛する。モーツァルトは掛け値なしにその一人であり、人からも天上からも愛された才能だっただろう。それに比べ、バッハはどうだろうか。無口で付き合いにくい人だったかもしれない。部屋にこもりブツブツ呟きながら鍵盤に向かっているちょっと偏屈な人ではなかったかなっと考えたりする。創作中に近寄る子には、気難しく叱る人だったろうし、弟子や生徒には、音楽とは関係ない、生活の中の不良行為を指摘するような、いやな大人だったかもしれない。だからといって、モーツアルトがより神に近いと私は思わない。それはわたしがモーツァルトのように神に近い才能を持っていないからかもしれないが。

バッハは生きた時代もあり、彼の音楽の多くは宗教曲である。その意味で彼は『音楽の捧げ物』をしていたわけなのだが、彼は何に音楽を捧げていたのだろうか。バッハは音の数式を懸命に解いていたのではないか。口ずさみながら、書き込みながら。モーツァルトが「降りてくる音」ならば、バッハは「苦悶の中で解く音」である。人の技として音楽を律儀に不器用に解き続けたバッハを、わたしは素敵だと思う。数学者は数字の中に広大な宇宙を見るという。バッハを聴くと、彼が憧れ続けたものもそんな音の宇宙なのではなかったのかと思える。天上の音を、人である自分を自覚しながら追い求めていたのではないかと思う。万能、天才でないわが身を嘆きながらも少しでもあの場所に近づきたいというバッハの悲しみや喜びが聴こえる気がする。
もしかすると、バッハは教会の説く神など、ちっとも信じてなかったかもしれない。彼が信じた神は音楽という名の神で、探し求め、苦悩し、躓き、失望し、時に永遠の音と思えるものが遠くに垣間見える。モーツアルトは「神の歌」であり、バッハは「神を追い求める魂の歌」である。多くの著名な演奏家がバッハを好んで演奏する理由がそこにあるのではないか。バッハを聴くと、人が奏でうる最も高みの音の楽園が聴こえる。たとえ凡庸と思われる人だって、求め続けるとある日突然、天上は、その姿を見せてくれることもあるのだとバッハは思わせてくれる。
コメント
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