うさとmother-pearl

目指せ道楽三昧高等遊民的日常

唐がからからと

2005年12月01日 | ことばを巡る色色
内職に追われ、投稿強化月間を勝手に終了させていただいておりました。よそのブログにもお邪魔できない日々が続いておりました。何とか、締め切りを守ることもでき、復活です。なんだか、妙に慣れない変な気分です。.2.3日前から妙な気分が続いております。そうして、ちょっとコミュニケーションということについて考えてみたり。

昨日、内職の締め切りに追われながら、休憩に見ていたテレビに唐十郎氏が出ていました。彼は大学教授もしているんだけど、その授業中に学生が携帯でメールしてるらしい。メールなら出てしなさい、と彼は思ってるんだけど、その中で、「僕はコミュニケーションをしたくない。携帯はコミュニケーションでしょ。コミュニケーションじゃないものがやりたいから、芝居をしているんだ」というようなことを言っていた。コミュニケーションって言うのは、日本語で「意思伝達」と訳されるんだけど、確かに「com」とつけられているように、「相互」という意味を持つもの。つまり、「やり取り」ということなんだろう。気がつくと、コミュニケーションってとても大切で、大事にすべきものだという意識を当然のように持ってしまっている。世の中では、「コミュニケーション能力」ってものが、現代に生きるには欠くべからざるもののように言われている。「つながっている」ことがとても重要なもの、価値のあるもののようにされており、私も何の疑問も持たず、そう感じていた。しかし、「コミュニケーション」というものは、その一面で、「閉じた」性格を持っている。誰かとつながっているということは、その誰か以外には、つながっていない、閉じているということなのではないか。唐はそういうことを言いたかったのではないか。「親密」は、「全体」に向かって叫ばないことでもある。私も知らぬ間に、コミュニケーション至上幻想を持ってしまっていたのかもしれない。
私は、いったい誰に向かって「書いて」いるんだろう。コミュニケーションをとりたくって書いていたんだろうか。あえて、コミュニケーションのためでない「物書き」もいいのではないかと思っている。逆説的ではあるかもしれないが、「放つ」ためにだけ、書いてみるのもいいのではないかと思っている。気が合うとかそうでないとか、話が通じるとかそうでないとか。好かれているとかそうでないとか。そういうところを離れてみるのもいいかもしれない。って解釈でいいのかな、唐氏よ。

久しぶりで、ちょっと堅いお話になってしまいました。
昔、唐の「状況劇場」を見に行ったことがあります。昨日のテレビでは、「状況」の懐かしいビデオが少しだけ出てきて、またまた妙な気分になりました。こそばゆく、恥ずかしいけれど、「ロマンティック」とか、「センチメンタル」とか、「叙情」とか、絶滅危惧すべきだと思いました。なんでもわかってるような顔をして、世の中は、こういうものを捨ててしまったんだね。私も、捨ててしまっていたんだね。「乙女系」とかいうように、「~系」と名づけてしまうことで、それをかぶっている風に装うんだけど、それによって、「~」であることを、客観的に被虐的に語ってしまう。
敢えて私は、「ロマンティック系」でも「センチメンタル系」でもなく、「ロマンティック」で「センチメンタル」だと、叫んでみよう。
コメント (10)
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