うさとmother-pearl

目指せ道楽三昧高等遊民的日常

歌姫

2022年12月16日 | ことばを巡る色色
仕事はあるし
納税もしているし
家族もいるし
車も運転するし
町内会費も払っているし
ワクチンも打ってるし
マイナポイントももらったし
持ち家もあるし
三食食べているし
何十年も生きてきたし
履歴書は隙なくきれいに書けるし
西国は三十三ヶ所まわったし
外国にも行ったことあるし
ブラインドタッチもフリック入力もできるけど
あたしはとってもひとりぼっちなので
ひとりぼっちでうたをきくのさ
ねえ、うたってよ、ディーバ

まず、「傀儡唄」
そして、やさぐれGLIM SPANKY「闇に目を凝らせば」

あいみょん「裸の心」
AI「アルデバラン」
島津亜矢「望郷じょんがら」とながして
椎名林檎「子守唄」
宇多田ヒカル「automatic」もいれとこう

そしてやっぱり、EGO-WRAPPIN「老いぼれ犬の口笛」



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希望の星

2022年12月15日 | ことばを巡る色色
井上尚弥のドキュメンタリーを見た。これまで、たぶんデビュー戦から彼の試合をずっと見てきた。ここにも彼のファイトについて何度か書いてきた。初めて試合を見た時、パンチを出す彼は笑みを浮かべていた。今は思う。それは仕留めるてやるぜ、とかいうのではなく、きっと一瞬を見極めたことへの笑みであったのだろうと。井上尚弥の罪は、他のボクシングの試合がつまらなくて見られなくさせてしまうことだろう。
強くて美しい。
強くても美しくないもの、美しくても強くないものは、結局つまらない。強くて美しいものは、新しい世界がまだまだそこら中にあるのだと教えてくれる。
同じような思いを平野歩夢を見る時に感じる。もっと上のものを見続ける。負ける日があったとしても戦い続ける。戦いは勝つためだけれど、相手の誰かと戦うというより、その刹那と戦っている彼ら。
summer snowの、三成の、義時の小栗旬。リハウスの、青春牡丹灯籠の、淀君の宮沢りえ、automaticの、travelingの、pink bloodの宇多田。そうそう、ラフマニノフの真央ちゃん、ニジンスキーのプルシェンコもね。キラキラしていて変わらず戦い続けて脆くて強くて美しい、男の子、女の子が好きだ。
妬むとか羨むとかのさもしい卑しい戦いでなくとも、いやいやそんなちっちぇことを内包しつつも、何かに挑み続けることは美しくて強いと思えるから、そんな男の子女の子はキラキラ輝く希望の星だ。私も美しく強くありたいと思う。明日はまた、新しい強く美しいものが生まれるのだと思うことができるから、希望の星だ。
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切ない匣

2022年12月12日 | ことばを巡る色色
心に、体に、寂しさがあって切なさがあって、
心の中に、体の中に、寂しい場所があって、切ない場所があって、
時々、寂しい切ないお話でそこを埋めたくなる。
切ない寂しいものを感じることでしか、そこを満たすことができない。
うまいお話で上手に騙されて、寂しい切ない思いを塞ぎたくなる匣
いっぱいになるまで、ぴったりとくっつくまで。
乾いているのか、湿っているのか。
しっかり塞いでも、またしばらくすると、そこが埋めてくれとうずきだす。

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薄汚れた処も

2022年12月11日 | ことばを巡る色色
幼い頃、母は自転車で30分ばかりの、母が「在所」と呼ぶ母の実家に事あるごとに私を連れて通った。母と私二人の実家からの帰りはいつも暗くなってからだった。その堤防道路の途中には神社があり、怖くて怖くて母の背中で目をつぶってしがみついた。子どもの頃はよく怖い夢を見た。派手な隈取りをした歌舞伎役者が粗末な舞台から私を睨み、見る見るうちに口が真っ赤に裂けていく。街は薄汚れていた。未舗装路の真っ黒な水溜り。用水路に立ち込める薬剤混じりの湯気。奥まった小屋の映画館。銭湯で見た刺青の背中。畦道の神に供えられた編み藁の上の赤飯の握飯。
薄汚くて怖くてよくわからない匂いがしている、
今の子が大人になって子どもの時を思い出した時、こんな清潔そうな街をどう思い出すのだろうか。街の思い出など、残っているのだろうか。
ああ、そうか。この国はクリーンになって、危険で薄汚くて不快なところにいられない高齢富裕インバウンドの好む場所となってしまったのだな。それはいいことなのか?
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貴の美 俗の美

2022年12月05日 | ことばを巡る色色
美を見る目のほとんどを決めるのは出自であり、成育歴である。それは不都合ながら、差別ではなく真実であろう。お育ちのよくない方の美はお育ちのよくない美である。残念ながら、いろいろを見るたびにそう思う。伊東忠太が築地本願寺を設計することとなったのも、貴族的お育ちの、あの大谷探検隊の方であったし、武相荘もやはり野に有って貴族的である。せめて親の代からのお大尽でなければ養われぬ、判ずる目がある。聞こえぬ音がある、見えぬ色がある。強靭な精神力を持ってせねば、育ちに養われた感覚の+-の軸を動かすことは難しい。世襲を悪しき旧習とする人もいるが、子のうち曝されねば手にできぬものはあるのだ。それは血のつながりということではない。この国の今までを見ても、血のつながらぬものに跡を継がせるということは今の私たちが思うほど避けられてきたわけではない。ただ、場で育つことは重要であろう。
身体は伝えねばならぬものの器となり、それは環境の中で濃縮され、継承される。生き物は揺れながら伝えるべきものを容れて、よきものを残そうとする器であるのだ。
美とは、人が持つ「これが美であろう」というイメージであり、その人はその人の「これが美である」というイメージの中で美に囚われる。貴族は貴族の、武士は武士の、芸能民は芸能民の、商人は商人の、己の美のイメージの中で美を見るのだ。だから、「これは美しいね」と言ったが最後、裸の自分の美を人前で露呈する恥ずかしい行いをしてしまっているのだ。その曝されたものに上下優劣は勿論ないのだけれど、ああ、あなたはそういう人なのねとわからせてしまうのだ。
しかし、それが己の独りよがりの美であっても、人は美なくして生きていけない。自分を露にしながら己の美を守り、イメージし、喰らいながらしか生きていけない、って、恥ずかしくって悲しくって美しいことだな。
そして、私は挫けないから美しいものが好きだ。
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トーキョー名建築巡り 美あるいは俗

2022年12月04日 | ことばを巡る色色
諸用あり、お江戸に参り、建築巡礼。
目黒、朝香宮邸東京都庭園美術館。アールデコの館。


ラリックやら


宮のために公がお造り申し上げた幻のように端正なおうち。

同じく目黒、雅叙園百段階段。笑けてくるほどの過剰な、どこか廓の楼閣の迷宮のお茶屋めいた宴室の色々。



最上階の鏑木清方で息をつく


初代当主は商いで得た金でこれを造り、また成功を収めた。商売人の建てた楼。

そして、伊東忠太の築地本願寺。どなたが彼に信心の器を注文したのか。






築地場外の喧騒は見えるが聞こえず、異国伝来の南無阿弥陀仏を異国様な生き物が静かに、あるいはさざめきながら守っている。伊東忠太の本堂が手を広げて帝都を守っている。

再び目黒雅叙園、渡風亭


創業当時を移築したという、絢爛な酒席。
今宵は酉の市。大鳥神社も市がたつ。





雅叙園と酉の市、似ているんだね。

岩崎弥太郎の明治生命館を背にして


皇居、幕府の江戸城。





東京ステーション、明治政府は都の入り口を辰野金吾に発注。




建物は容れ物でしかないけれど、造った当初はそれがいつまで残るかとか分かりもしないけれど、発注者の審美の選択は時を超えて、時が過ぎるからこそ、審美をあからさまにする。建物は、商の、公の、教の、国の、威光を示すものだけれど、美を見る力がいかほどのものであったかを露わにするのだな。芸術などを目指すものでない故に、美と俗は建物の中で交錯している。そんなこと素知らぬ顔で建物は立ち続ける。
お江戸の建物は、だからオモシロイ。











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