うさとmother-pearl

目指せ道楽三昧高等遊民的日常

若冲熱

2007年05月30日 | お出かけ
先週初め、加入している生保の契約者サービスシステムからメールが来た。期間限定のホテル予約のお知らせだったのだけれど、その中に以前食事で立ち寄ったことのある、大津プリンスが入っており、余りの低料金に思わず、日曜の予約を取ってしまった。大津に行くなら、京都はすぐでしょ、京都ならもう一度若冲、と頭の中でまっすぐにつながってしまった。
という訳で、日曜は車で大津に向かう。一般道でゆるゆると向かうが、早朝で混雑はない。とにかく京都で若冲を見ることだけが今日の目的なので、急ぐ旅ではない。看板につられて、近江商人の町並というところに寄ってみる。車内から見るだけでもわかる立派なお屋敷。欄間には龍がいる。今度はしっかり時間をとって歩いてみよう。大津プリンスについたのは10時。ホテルのシャトルバスでJR大津駅に送っていただき、今回も京都駅の人ごみを避けるため山科で降りる。地下鉄一日パスで、まずは京都市役所前に向かう。昼食は、三条川原町でと思っていたからだ。
京都にしては比較的年齢層の低いこの通りの狭い路地を入っったところにお店がある。確かに、敷居の高そうな、一見さんお断りそうな、お値段の恐ろしそうなお店ではあるが、えいやっっとはいってみる。お店は、焼肉やさん「彦左衛門」。かつて旅館だったところである。掘りごたつ風のテーブルのあるお座敷に通していただける。内庭には5月の風が吹いていて、木の葉がさわさわ揺れている。日曜のランチは1500円からいただける(平日はランチメニューも、もっと充実し低料金からあるようだ)。うまうまのお肉が5切れと、私の読みが正しいなら釜炊きのごはん、スープ、キムチ、サラダ、コーヒーのセット。テーブルで焼きながら頂く。京都の古い旅館の日本間は遠い国に来た様に静かで、なんもかんも忘れることができる。庭の木を見ながら、ボーっと食後のコーヒーを頂く。いいなあ、京都の古いおうちの、世の中から捨てられたような気持ちで頂くお昼ごはん。若冲展はきっと、すごい行列だろうと、ここで英気を養う。
さて、ぽちぽちと歩いて烏丸御池から、相国寺に向かうため地下鉄に乗る。図らずも二週連続の今出川だ。
とりあえず相国寺まで行くと、120分待ち。それを聞いて引き返す人も多い。今日は閉館時間までいるつもりなので、3:30まで時間をつぶそう。先日週刊誌に載っていたお漬物やさんに向かう。お店は、寺町通り今出川上がる「野呂本店」さん。京都はこういう観光地に出店していないお店に、おいしいところが多くて楽しい。「青てっぽう」「葵大根」をいただく。お店も中庭が見える素敵なところだ。汲み上げの井戸水を頂く。さすが御所の水系は冷やりと癖のない甘露。ホントに楽しいおみやげは、賞味期限の短い物だ。京都のお漬物も、私の中では「おみやげ」から「観光土産」のレベルに下がってしまっていたので、最近購入しなかった。しかし、ここのお漬物はいい。賞味期限も長くないしね。
もう少し時間をつぶすため、同志社に入ってみる。ファルコンのマネキンが静かに首をかしげる。
さて、若冲展は90分待ちになっている。今回は第2展示場に絞って予定通り閉館までいた。閉館のアナウンスがあっても、去りがたい人が多い。しかし、頭越しでなく33幅を見渡すことができた。「荘厳(しょうごん)」 釈迦三尊像を30の動植が荘厳している。若冲さんはこんな風に老若男女が、自分の絵を見るために集っていることを想像したろうか。「若冲って変なやつやったろうな、友達になりにくそうやな」って思えてしまうんだけれど、何百年も、市井の人々をこの寺に集め続ける。江戸時代の人も、明治時代の人も、子どものように、おおっと声を上げながら、楽しそうに見たんだろうな。思想とか自己表現とか、そんなややこしいことはひょおい、と越えてさ。そうだ、自己表現ってやつの「われが、われが」なんて、所詮は底の浅い物で、「捧げもの」としての気持ちが存在しなければ、いいものはできない。それは自らの小ささ、罪、頼りなさを自覚するということなのだろうと思う。
実は我が家は相国寺派の門徒であり、墓所が京都の相国寺派の寺にある。先週、お豆腐を買った帰りに知らぬ小路を歩いていて、墓所のある寺に偶然行き着いてしまってびっくりした。きっと先祖も出来上がったばかりの動植栽絵を見たことだろう。不思議といえば不思議な縁かもしれない。そういえば、私は3週続けて休日に京都にいる。3週前から断続的に頭痛に悩まされている。風邪を引いたときくらいしか頭痛のない私にとっては稀なことだ。頭のどこかと若冲の絵が七色の紐で結ばれていて、時々、つんつんと引っ張られているせいかもしれない。
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春をあるく 若冲展

2007年05月21日 | ことばを巡る色色
もう夜中なんだ。NHKがヒーリングビデオみたいにモーツァルトを流すほどの真夜中。でも、眠れない。
君は若冲を見たか? YES! YES! 私は、見た。 於:相国寺承天閣美術館
そう、副題をつけよう。「見ずには死ねない」その言葉がぐるぐる回った。見なきゃ駄目だよ。絶対だ。

日曜の朝7:30発の在来に飛び乗り、まずは山科で降りて地下鉄で東山に向かう。カップリングとして用意しておいた岡崎公園横、細見美術館の「オールドノリタケ展」 細見美術館は前回の江戸琳派を入れ2回目の観覧。階段を登ったりの下ったりの落ち着いた美術館です。今回の展覧会は、日本オールドノリタケコレクターのオーソリティーとも言うべき大賀さんと若林さんのコレクション。ここはやはり押さえておかねばならぬ展覧会。コレクター本でも見たことのないようなものが多くあり、さすがのコレクションでした。気に入ったのは、蛙の盛り上げのあるvase。どこか鳥獣戯画のようで、若草地に白のもの。若いカップルが幾組か見に来ていて、ほお、このような層もおいでになるのだと感心しました。
さて東山から、烏丸御池で乗り換え今出川へ。地下鉄(今回の京都は地下鉄一日乗車券を購入のため、移動手段は地下鉄です)の今出川は御所と同志社(相国寺の後、ちょっと見学。レンガ造りの近代建築学舎は、とても静かでどこからか花のいい匂いがして鳥が鳴いていた)と冷泉家と相国寺に囲まれている。が、まずはわき目も振らず相国寺へ。チケットは購入済なんだけれど、11:30にして入場制限、待ち時間45分とのアナウンス。第一展示場に入れていただけるまで、45分かかっちゃいました。ここは、金閣寺の襖絵など水墨画が中心。前も思ったのだけれど、3Dの絵を見ているような錯覚に陥る。墨の線が木の洞に見えたり、また線に戻ったり。だのに、そうだよね、実物の木ってこうだ、葡萄ってこうだ、蔓ってこうだって思えてしまう。突き放したように襖の真ん中に描かれた鳥が「その世界」に存在している。鶴が松に問うている・・・凄すぎる・・・
次の第二展示場に入るのも、しばらく並んで待つ。
釈迦三尊像と動植綵絵 三十の動物植物の絵は、今は宮内庁の物となっている。開基足利義満600年忌に、120年振りに相国寺に戻ってきている。そうして、それを見られるのはたったの3週間のうちだけだ。
列は進まない。誰もが三十三枚の一つ一つの前に貼りついている。執拗な写実と、簡潔な抽象。相反する物が一枚一枚の中に詰まっている。己の全てを絵を描くということの前に投げ出している。「かわいい」と楽しげにおしゃべりする女の子がいたり、「あっ」と声にならぬ叫びを漏らす人がいたり。出てきたのは4時少し前、計4時間(待ち時間も長かったけどね)立ったままだった。書きたいことはたくさんあるけれど、とにかく誰にも、「見なけりゃ死ねないよ」といいたくなる。「行っとかなきゃ駄目よ」と勧めたくなる。唯一無比の空前絶後の史上最高の絵師。若冲さん、私はあなたに私の一等賞を捧げる。
会期は6/3まで、諸人よ、いざ古都に急げや、急げ。

連絡 私の後ろで見ていて、ロビーで京都国立博物館「道長展」の招待券を下さった大阪のお姉さま。もしも、これを見るようなことがあれば、ご連絡ください。私はハンドタオルで曇ったガラスを拭きながら見ていた者です。お話したいです。 

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春をあるく 行脚報告

2007年05月17日 | ことばを巡る色色
先週末は、京都行。
「丸紅コレクション 淀君の小袖と美しきシモネッタ」 於 京都文化博物館
旧京都日本銀行のこの博物館。天井は高い。飾り漆喰、飴色の柱、真鍮のシャンデリア。 たくさんのたくさんの小袖、着物、そうしてボッティチェリ。
高台寺 ねね様の蒔絵の廟。天井には天女。お庭は小堀遠州。
山門前でお昼を頂く。「阿わた 玄撫庵 満る市」
実は高台寺は勢いでネットオークションで手に入れた拝観券。「阿わた」さんも、たまたま割引券が手に入ったので訪れた。高台寺を目当てにしていたわけではないのに、偶然入手した。高台寺の拝観券と高台寺前のお昼ごはんの割引券、なんの符牒か、もう、高台寺に行くしかない、逃れられないという感じになっている。そんなに期待してはいなかったのに、後から後からお料理が出てきて、食べるのに疲れてしまうほどのご馳走だった。悪いことは言わない。おすすめですよ。「阿わた」さんは、高台寺のお宿に併設されている10席余りの割烹。しかし、料理旅館の立派なお昼がいただける。私が頂いたのは3800円の昼懐石(ただし割引券を使わせていただきましたので、私の散財はほんの少しで申し訳ないほどでした。いやいや3800円でも申し訳ないほどのお料理でした。デザートの胡麻ムースまで本当においしくいただきました。お昼は1500円くらいからあるそうなので、次回も行けそうです。)
その晩に、これも偶然読んだ「へうげもの4」では、ねね様が小袖を派手すぎると織部の妻に与える場面あり。お昼に見た淀君の小袖の柄とそっくりだった。どうも今回は、ねね様に呼ばれた京都旅だったようで。

週もかわり、仕事のついでに名古屋で見たのは、
「名古屋城障壁画展」
これも頂いた招待券だったのだけれど、最近日本画づいている。少し前の私だったら、こんなに楽しく見ることはできなかったろうけれど、「開眼」体験後なので、どれもこれも面白く見た。平日の正午近くにお城の襖絵を見るのは名古屋のおばば様たち。「もったいなかったねえ、みんな燃えてまったねえ、あれも5月の今頃やった」と、名古屋空襲のことを口々に語っておられる。つい数年前だったようにね。空襲で全焼した本丸御殿はたくさんの写真に残っている。戦前には市民にも公開されていたらしい。その頃は、名古屋に住む人たちのものであった本丸御殿。おばば様、本当に本当にもったいないことやったよね。京都や姫路城だけが、日本のお宝ではなかったよ、アメリカさんは余裕の戦争の中できっちり残すべき物を選定していたろうけれど、江戸初期狩野派の詰まったこのお屋敷も残して欲しかったよね、とわたしも思うよ。
虎、雉、桜、梅、中国の王様。そして、狩野探幽は天才なり。

さあ、次は、ついに若冲。一生に一度の、二度と会えぬ若冲だ。
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春をあるく 美術展篇

2007年05月07日 | ことばを巡る色色
若冲を見た!
ああ、わたしは若冲を見た!
「若冲と江戸絵画」プライスコレクション展 於:愛知県立美術館
昨秋、勢いで入手した京都の「ルーブル展」、ホントに見たかったのは向かいの京都国立近代美術館でやってたこの若冲だった。名古屋に来るなら、それまで待とう。そうして、ゆっくり見よう、と思い、あれから半年。ほとんど遠距離の恋人を待つような気分だった。いや、もっともっと前から心の中に若冲は用意されていた。2年前のバークコレクション展はその準備だったのかもしれない。そうして、見た!ゴールデンウィーク狭間の水曜。少しは人出も少なかろうと思い。
人生ベストテンに入る展覧会だった。
見えているのに見えなかった世界を、見た。そんな気分になった。
それまで日本画といえば、ああいうの、って意識で見ていたのだと、はっきりわかった。床の間にある掛け軸、富士山とか、高砂っ唐獅子牡丹てステレオタイプの眼でしか見ていなかったんだ、わたし。その世界を見てるのに、何も見えていなかった。
「紫陽花双鶏図」    
わたしが見えていなかった鶏がそこにいた。わたしは世界が見えていたわけじゃなかったんだ。若冲が見た鶏がわたしには見えていなかったんだ。若冲の絵の中には本物の「ある本物」の鶏がいたのに、今までのわたしがステレオタイプの眼でしか見ていなかったためにそれが見えていなかったことに気付いた。そうして、「日本画」とか「掛け軸」とか「屏風」って「眼」でしか見えていなかったことに気付いた。今までの私の眼はフリーズしてたんだ。なんて不自由なヤツだったんだろう、わたしって。そうして、もう一つの本物が、急にやってきた。執拗な写実と超越の抽象。写生とデザインの混沌たる融合じゃん。あまりに細部を描くことで、現実を越えてしまう浮遊感。この頃の絵師には必ず買い手がいる。絵師はその注文に応じて描く。売る為に描く。それが、現代絵画がなくしてしまった「面白さ」を残している所以かもしれない。自己表現などというヤツは所詮閉じた物かもしれない。「何かの為」が、逆に人を己の枠から解放する。芦雪も蕭白も、なんて面白くって、本物なんだ、ってやってきた。今まで見ていたのとは違う世界にわたしはいて、新兵器「もう一つの眼」を手に入れた気分だ。ワープできた気分だ。
その中でも、やはり若冲は突出している。若冲の絵の前で、わたしも若冲の目になる。若冲の見ている、その厳密詳細な現実と彼岸の意匠の世界を見る。
「鳥獣花木図屏風」    
じわじわと、ゆっくりと総毛立ってゆくということを私は初めて経験した。

お出かけ済み
「アール・デコ・ジュエリーの世界 シャルル・ジャコー」京都国立近代美術館
「麗らかなる錦絵」明治村
「シャガール版画展」メナード美術館
「若冲と江戸絵画 プライスコレクション」愛知県立美術館
「食卓の華」愛知県陶磁資料館

お出かけ予定
「名古屋城障壁画」名古屋市博物館
「ダリ展」名古屋市美術館
「丸紅コレクション 絵画と衣装 美しきシモネッタ」京都文化博物館
「富本憲吉展」岐阜県現代陶芸美術館
「大賀・若林コレクション オールドノリタケ展」細見美術館
「若冲展」相国寺承天閣美術館
「金毘羅宮 書院の美」三重県立美術館(来春だけどね)

ちょっと無理かも、でも見たい
「大正シック」東京都庭園美術館
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春をあるく 山登り篇

2007年05月05日 | お出かけ
ゴールデンウィーク。世の中は西へ東へお出かけ中か。私はといえば、ぎふてぃの心優しきおにーさん3人(註:年齢不問)と、その姫と、わが友のオネーサン(引き続き年齢不問)と、お山に登りました。天下布武の金華山よりちょいと高いお山。天下の上を行く思いですよ。皆様、ペースあわせてくださり、ホントにありがとう。向かい酒というのがあるのだから、筋肉痛にも向かい労働とばかり、今日は屋根を越えてしまいそうな我が家の泰山木の枝払いをいたしました。仕方ないよね。どこまでも繁らせておくわけにはいかないんだもん。我が家は田園のドンツキにある。庭木は田の陰となってしまうし、雑草は、田に種を撒き散らせてしまうんだ。人の作った物を食べ、里や町に住むということは、庭の枝を払い、雑草を抜くということなのだね。
すぐに大きくなってしまうこの木は幹も密ではなく、わたしでもシャクシャクと簡単に伐れてしまう。ノコギリをふるうと、いい香りが漂ってくる。脚立の上で、遠くを見渡しながら、私は泰山木をかぐ。そう、お山もいい匂いがした。春の木はかぐわしい。少し甘く、少し清い好い匂いだ。遠くに見える山も街も霞んでいる。私の国の春は朧で、かぐわしい。
ゴールデンウィークの各地のニュースを見、また、春の祭りのことを考えている。春の祭りは、浄め、再生の祭りだ。もう芽吹かぬ枯れた枝を焼き、湿潤な地に棲む虫を燻し、焼き、駆除し、新しき水を捧げ、全てを新しくして、早乙女は舞う。若き男子は馬に乗り、魔除けでもある弓を鳴らして流鏑馬をする。冬の間に澱んだ空気の粒の一つ一つを、火で水で煙で清めるのだ。「死」を、「魔」を追い払う。生まれ変わるのだ。新しくなるのだ。やわらかいさみどりのかぐわしい春をむかえる。全てを新しくするのだ。いい匂いの春の粒がそこいら中でいくつもいくつも、ばちんばちんと、はじけて薫る。そんなイメージが大気の中から、そうしてわたしの中から湧き立って来る。
春をこんな風に感じるようになったのは、数年前からだ。
見たり聞いたり読んだり学んだりしたことは、ある時から一つのイメージとして現れる。頭の中にあった知識や経験が渦を巻き螺旋になり、起点は終点となり、原因は結果となり、カチャリと符合し、脳から、言葉から解放される。見る為に知り、知る為に見る。わたしはただイメージの器としてあるのだ。何かのためという囚われから離れ。「知ること」を越えるために、「知ること」はあるのだと、思える。だからこそ、「知ること」は大切だと思える。学ばぬ人は不幸だ。知識の果てでしか、知識を越える物に出会えぬ、とわたしは思うよ。

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春をあるく 近代建築篇

2007年05月03日 | ことばを巡る色色
この春を私はあるいている。
JRは会社設立何十周年だったらしく、今春の青春18きっぷは、なんと一枚あたり1600円だった。1600円で在来線には限るが一日乗りホーダイなのだ。買っちゃいましたよ。初めて。行っちゃいましたよ、そこいら中。
その1
我が家→京都 構内でモーニングを食べる。→奈良線に乗り所用を済まし、京都からさらに西に向かう。→芦屋 訪れたのは、フランク・ロイド・ライトのヨドコウ迎賓館。
JR芦屋口で降り、桜の咲く川沿いの道を10分強歩く。ライト坂と呼ばれる幾分急傾斜の坂をヨッチラショと上っていくと、旧帝国ホテルと見まごうようなヨドコウ迎賓館が木陰にちらりと見える。
おっと、デジカメの調子が悪い。
ヨドコウ迎賓館は雛人形の特別展示中。この館を建てさせた灘の酒元がその名も雛子ちゃんというお嬢ちゃんのために京の人形師に作らせた物だ。明治天皇を模したお内裏様と女官達。ぷっくりとしたよいお顔だ。
ヨドコウ迎賓館。一時はヨドコウの社員寮になっていたらしい。こんな寮ならば、それだけを目的に就職したくなってしまうというものだ。
近代建築に惹かれる理由はなんだろう。
きっと、ちょっと嘘っぽいのが好きなのだろう。江戸までの日本建築と突然入ってきた洋風建築。その見知らぬ技に憧れながら、しかしその中には、培ってきた江戸の職人技を用いている。
本物は少し怖い。私はいつもそうだ。オールドノリタケが好きな理由もそこに在るかもしれない。血筋正しい本物の持つ傲慢さ。吾以外は全て排除しようとする冷酷さが、辛い。そこには「憧れ」という、かわいらしい、あたたかい感情がない。由緒正しさを、一分のぶれもなく伝えていこうという非情さのようなものがある。
直線を、方形をいくつも重ねたライトの家。美しゅうございました。

さて、芦屋の駅まで戻り、西に一駅の六甲道へと向かう。駅でホテルのバスに乗り、六甲山をぐんぐん登る。ここは「六甲山ホテル」旧館は70有余年より建つクラシックホテルだ。新館への部屋がえを勧められるが、こちらの目的はクラシックなところ。旧館の広い部屋に通してもらおう。ロビーはステンドグラスの嵌められた重厚な場所だ。今回お泊りのコースは、有馬温泉つき。ホテルのバスで、今度は六甲を下り、天下の名泉有馬温泉へと向かう。八重桜が満開だ。
在来線の旅2日目は、思い立って姫路城。
笑えてしまうほどの巨大さ。何を思ってこんな大きいのを作っちゃったんでしょ。攻めて来る敵兵を見張り、蹴落とすための物なのに、凝りにこった化粧をしてしまう。城の壁や屋根には様々な花と蝶と鳥が施されている。
ここは、鏡花「天守物語」の富姫様の天守。ずっとずっと前に読んだあなたのお話の舞台はここですね、富姫様。と感慨深い。
ちょっとだけ姫路によって神戸の南京街に行こうと思ったのに、結局は夕方近くまで見てて回ることになる。だって、だって、本と大きいんだもん、姫路城。
さあて、復路。ここははずせないので、ただただ豚まんを買うだけに神戸により、十数分並んでまた、JRに乗る。京都駅で降り、伊勢丹のデパ地下で、うどん購入。いつもの豆腐を探してみたけど置いておらず、いつものロールケーキも見つからなかった。残念。

今回のお土産
姫路のはんぺん
神戸南京町 老祥記の豚まん 20個
京都 冨美家 カレーうどん しっぽくうどん

そうだ、次は奈良に行こう。奈良のお話は、また今度
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もたない

2007年05月01日 | ことばを巡る色色
物を集めるということはハンティングである。狙いを定め、品を定め、相手を損ねぬように、こちらのリスクは最小に仕留める。多分私はコレクター気質。幼い頃から多くの物を集めて来た。しかし、本当は、仕留めることがうれしかったのかもしれない。戦利品を眺めての悦びはそれに比べれば少ない。それを丸ごと知り、手に入れないときがすまないのだ。いや、それは過去の話だ。
私は今、ハンティングをし、コレクトすることをやめている。
「集める」こと、「持つ」こと、が、ナマナマだなあと思っているからだ。
もしかすると、私は少しそこから自由になれたのかもしれない。

「持つ」ことと、「わかって欲しい」と思う気持ちは似ている。どちらも生々しく、血なまぐさい。鉄分の金臭いにおいがする。
持たずにはいられない気持ち、執着、こだわる心。それがなくとも、いいじゃないかと、今の私は思っている。持っていなくとも、私が「それ」を愛し、美しいと思う気持ちは否定されない。持っていなくとも、私は「それ」を好きな私でいられる。「持つ」ことはある意味で、依存であるかもしれないと思うのだ。買うためでなく、「見る」ためだけに私は出かけ、それを愛する。他人の持ち物だあろうと、それが美しく私を魅了することにかわりはない。他人の物である「それ」は、所有者でない私にも、美しく微笑みかける。
何故私はあんなにも、「持つ」こと「集める」ことに執着していたのだろう。
自分の気持ちを「わかって欲しい」という一点で、周りの者を振り回す人がいる。
本当にわかってもらわなければならなのだろうか。救われないのだろうか。報われないのだろうか。語らなくとも伝わる人には伝わっているし、万語を尽くしても、時でなければ何も伝わらない。「わかって欲しい」という気持ちの生々しさは、かえって相手を疲れさせるだけではないか。わかってもらっていなくても、私はあなたを大事に思っているし、私はあなたを、そう、愛している。持たなくとも、わかってもらおうとしていなくとも、それで、いい。
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