うさとmother-pearl

目指せ道楽三昧高等遊民的日常

荒野な末路

2021年08月13日 | ことばを巡る色色
最近のwebニュースの記事を読んでいると、(悲惨なおひとりさまの末路)(田舎暮らしの末路)(家を売った人の末路)というようなものが結構ある。そんな末路を迎えないためにあーしましょう、こーしましょう、ってことなんだろうが、webニュースの書き手たちにはどうしてこういうイメージを持ってしまっているのだろうか。そもそもこういうものを書いてる人々はどんな人だろう。
書き手は、(末路)の年齢に近くはない、若年壮年の人と推測する。その人たちにとって晩年は地雷だらけの、危険をくぐり抜けねば安全地帯にたどり着けぬ、至る所、荒野・戦地であるのだろうか。殺伐とした人生の砂漠を、リスクを避けつつ戦い抜かねばならぬというイメージなのだろうか。

おひとりさま、田舎暮らし、家を売る、などなどを決めた人は早計だったかもしれぬが、それまでとは違う、人が良しとするのとは違う道を選ぶことを楽しんだはずだ。甘い考えだったかもしれぬが、覚悟が足りなかったかもしれぬが、それはそんなに悲惨で責められるべきことなのか。決まりきった道を危険を避けて生きることがそんなに責任感のある賢明な、人としてあるべき生き方なのか。「ほら、みたことか」「人生そんなに甘くないんだよ」 と言いたい方が貧しい心ではないのか。
確かにあの世代の人たちは浅慮でおっちょこちょいなとこがある。若い人たちが「そもそも我々には売る家もないし」「田舎暮らしを支える年金もあてにできんし」という気持ちを持って彼らを見、羨望が翻って憎悪となるのは、不幸な分断である。
もう一つ思うこと。最近のネットニュース。請負とか、ニュース記事を売るっていう形態が多くなっている。そしてそれらは、多様な状況の人への想像に欠けているものが多い。キャッチーなニュースが消費され、読み捨てられていく。それに慣れることは知らぬ間に心を損なうことであると思う。
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亡国の

2021年08月11日 | ことばを巡る色色
慶応義塾大学は在京の有名私大である。法学部、商学部の偏差値は72.5。一流私大と呼ばれ、歴史と実績を有している。
多くの政治家、経済人、マスコミ、広告代理店と、我が国の中心となる人材の出身大学である。
私は最近、この大学に対する今までの自分の認識は正しかったのかと思い始めた。

一般入試科目は以下の通りである。
法学部、商学部  
2教科(400点満点)
【地歴】世B・日Bから1(100)
【外国語】コミュ英I・コミュ英II・コミュ英III・英語表現I・英語表現II(独・仏選択可)(200)
【小論文】(100)
商学部には下記の方式もある
3教科(400点満点)
【地歴】世B・日B・地理Bから1(100)
【数学】数I・数A(場合の数と確率・図形の性質・整数の性質)・数II・数B(数列・ベクトル)(100)
【外国語】コミュ英I・コミュ英II・コミュ英III・英語表現I・英語表現II(200)

慶応義塾大学の偏差値は高いが受験科目は他私大と比べても少ない2科目であり、小論文が課されている。少ない教科であれ、これだけの入試に勝ち抜くのは立派ではある。この大学の小論文問題の難度は高い。ただ、小論文の評価は主観的にならざるを得ないものであり、数値化されているとはいえ、いわば密室の評価にならざるを得ないものである。合否に他のファクターが入りやすいシステムである。2教科と小論文で合格できたことにより、「有名在京私大卒」というバッジをつけることができるということ。そして、その人々が社会を動かしているということ。この危うさが最近のこの国の失敗を作っているのではないか。

社長の出身大学ランキング
第2位は「慶應義塾大学」。上場企業の社長の出身大学では第1位となったほか、企業の年商規模別のランキングでは、年商50億~100億円未満、100億~500億円未満、500億円以上の3部門で第1位にランクイン。また創業100年以上の企業の社長数と、40歳未満の若い社長数のランキングでも第1位となりました。

大学出身者に社長になる人が多いということで、優秀な大学と思われるだろうが、そもそも大学出身者という母集団に社長の令息が多ければ、大学が優秀だから、多くの社長を出すことができたとは言えない。
「いいおうちの子」が、何はともあれ入学できてしまい、ちょちょいと有名企業なり、父の会社なりに入る。「広告代理店やマスコミは有能な新卒幾人かより、大企業の子息一人の方が売り上げにつながる」というのが業界の考えである。お仲間やらお友達や知人の子やら取引先の社長の息子やら。
そんなことをいつまでやっているのだろう。人は今昔、コネクションからは離れられないけれど、それが物事を円滑にすることもあるけど、最近はネットで些細なことまであからさまになる時代であるにも関わらず、リスクを避け、利権を狭い枠に囲い込むためコネクションで決められることが増えていると思う。

全然、面白いことが始まらない。美しいものを真剣に見せてくれる人が排除されている。退屈でつまらない日々を過ごさねばならぬことが亡国の民には強いられる。

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一言だけ言うよ

2021年08月09日 | ことばを巡る色色
でんつー、退屈
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それとこれとは

2021年08月07日 | ことばを巡る色色
区別すべきではないかと思うものがいくつかある。一緒くたにしていいのか、それとこれとは話は別でしょ、むしろ、論点のすり替えとなってしまうよ、それとも揚げ足取りをしたいの? と思うもの。

このオリンピック、本当にやれるのだろうかと思った。世の中にもそう思った人はたくさんいた。「安全安心」とやらを担保しながら、外国から選手なり、観客なり、関係者なりを受け入れることなんてできるのか、と思ったから、多くの人は開催に好意的ではなかった。反対であったともいえる。でも、それはオリンピックをやりたくないからでも、日本に来てほしくないからでも、この期に及んでスポーツやるなんておかしいと思っているわけでもないはずだ。穏やかな気持ちで、手放しで応援しながら開催したいという気持であったのだ。
結局、ご存知のようにオリンピックは開催されることになり、「あれだけ反対してたのに、結局楽しんでみてるじゃないか」という意見がある。
それとこれとは別ですよ。やるとなってしまったからには、その途中で反対したって意味はないでしょ。やってるものは当然観るし、楽しんで観たからと言って、安全性なりに危惧がなくなったわけではない。やったらやったで掌返し、でもない。決定を受け入れたに過ぎない。
(世界の何十億人に対して『日本の力を試せる場を残そう』『日本人の忍耐力を示してもらおう』)という意見に賛同したわけではないし、(五輪に対してIOCが取ったアプローチが正しかった)と思ったわけでもない。それとこれとは話は別である。

この流行病の中、様々な制限がかけられる中、スポーツやイベント等が開催されると、「子どもは運動会も修学旅行も我慢しているのに」という意見をいくつか見る。確かに、子どもの貴重な体験の場が中止されることは辛いことだ。だが、すべての人が制限を受ける中でも、できることは対策をしながら少しずつしていかねばならない。何も子どもだけが制限されているわけではなく、子どもを盾に、自分の意見を言う、それとこれとは話が別じゃないの、と思う。

いろいろな制約の中、はじめのうちは「風邪のようなもの」「経済活動は少しずつでもしなければ」という意見の人が、その後にワクチン接種をすると、安易な転向者のように非難する人が多い。未知のウィルスの前には皆、手探りであり、その時々で得られる情報の中で、日々判断するしかない。それは裏切りでも転向でも日和見でもない。それぞれの判断はそれぞれの思惑の下にされているのだから、批判は揚げ足取りだと思う。

「ワクチンを打て」だの、「打つな」だのの呼びかけ。少なくとも自由意思に任されていることについて他者に呼び掛けることに意味はあるのだろうか。各々が判断して決めればいいことだ。行政はその判断のために詳細で最新の情報を提供し続ける責務はある。ワクチンについて、情報提供を国に呼び掛ける人はほとんどいないのに、感情的に接種の賛成/反対を呼び掛けている人々。それは、また別の問題でしょ?
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