うさとmother-pearl

目指せ道楽三昧高等遊民的日常

いぢわる

2005年12月22日 | ことばを巡る色色
ブログなんてものを書いていると、ついつい自分をいい人に見せたくなってしまう。「愛にあふれた人」に見せたくなってしまう。だから、だからこそ、書いてみる、私の’いぢわる’
私は、いぢわるだ。生まれつきのいぢわるだ。 I was born to be an IJIWARU.
母は、いつも私のことを「本当にあんたはコンジョワルな子やわ」と言っていた。
コンジョワル=根性悪      
これは我が地方では、最高級の叱責言葉である。「おまえは根性がひん曲がっているのだ!」という意味さ。ふふーん、だ。
なぜ?なぜだったんだろう。どこが?どこだったんだろう。  オモイダセナイ。
が、しかし、とにもかくにも、なにはともあれ、私は母もおののく「コンジョワル」な子だったわけで、誰がなんと言おうと「コンジョワル」な人生を歩くことになったわけである。
うむ、ちょっと思い出してみた。多分幼い私にとって、「コンジョワル」は顔に目があるように当然のことだったので、ムリ無理でないと思い出せないほどの日常だったのだが、ムリムリ思い出してみてみた。うっすらと、男子をぬれ雑巾でひっぱたいた覚えがある。「あんたなんか私より馬鹿な癖して」といった覚えが、うーーっすらとある。小2の時は、学級委員バッチを水戸黄門の印籠のように振りかざし、「私は学級委員よ、あんたなんか私より馬鹿なくせして(こればっか)、控えおろお」といった覚えがかすかにある。その時、格さんのように私の横にいたのは教師の娘だった。ここぞとばかりに「この子のお父さんは中学の先生やし、あんたが中学に入っても、きっとこの子のお父さんに叱って貰うし、私より馬鹿なくせして(またですね)。ばかばか」といって、諸国漫遊の旅をしていたことを思い出した。
小学生の時、通信簿の所見欄には、いっつも、「ともだちにはやさしくしましょう」と書かれていた。「ち、またかよ、これさえなければ、あたしは蟻も通さぬほど完璧な人間なのに、てやんでぇ」と思ったものだった。
3つ下のいとこは完全に手なづけていた。七並べ(私はこのゲームが苦手だ。それゆえ何度もいとこに相手をさせた)で負けそうになると、あーだこーだと文句をつけては、みかんを持ってこさせたりしながら、私の勝ち、もしくはいとこが泣いて終了を懇願するまで続けた。
嫌いな、ヤなやつは、とりあえず、じろりぶさりと睨んでいた。文句を言うももったいないわ、と思っていた。思うに、いぢわると傲慢とわがままとぐうたらが、鍋の中でぐつぐつ煮立っている状態だったのである。ま、いわば、いぢわるの帝王学を体得しながら、その王道を歩いてきたのだ。
その何者も恐れぬいぢわる王者の風格ゆえか、小6の時には、床屋のおっさんに、「お嬢さんは高校生?」「え、違うの大学生かあ」「じゃあ、中学生?大人びた子やね」といわれ、説明するも面倒であった。
いぢわる王様は、負けず嫌いでもあったので、ありとあらゆるお誕生会に招待されなければ気がすまなかった。嫌いなやつの誕生日でも、とにかく呼ばれなければ「私も斜陽ね」なんてさびしい気持ちになってしまうのである。誕生会の噂がちらりとでも耳に入ると、「まさか私を呼ばないなんて、とんでもないことを考えてはいないでしょうね」とじろりぶさりと睨んだものである。これで大抵の子は「落ちる」のであった。
中学の頃、「どうもいぢわるとは世の中では日陰者である」と気づいた私は、とりあえず目を伏せ、従順なやつの振りを、時々は装えるようになった。だが、言っちゃいましたよ、新採の教師が「うさとさん、最近ちゃんと僕の話聞いてくれないね、僕はどんな授業をやったら君に聞いてもらえるんだろう、僕はどうすればいいんだろう」なんて泣き言を吐くんで、「教師やめるしかないんじゃないですか」ってね。センセイもその後立派に強い人になり、立派な校長になられたそうで、お慶び申し上げます。
特に男子のうじうじしたやつはいぢめたくなってしまう。偉そうに「とお」って教室でプロレスごっこをやって弱い子を叩いてるやつには、相変わらず、「私より馬鹿なくせして(定番です)、強ぶってんじゃねえよ、うりうり、何か言ってみぃ」と、後ろ手をひねりあげていたし(この技はいとこ相手にたくさん練習し、必殺技になっていた)そんなやつにやられてるヨワッチイ男子には、「しっかりせんかい、前を向いて、ずばっと言い返したれ」と、背中をばんばん叩いてやったものだ、ハハ。

この後私のいぢわるは、思春期を迎え螺旋状の展望を遂げるのであった・・・ つづく
コメント (12)
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