うさとmother-pearl

目指せ道楽三昧高等遊民的日常

花束を彼女に

2021年05月27日 | ことばを巡る色色
宇多田のPink Bloodを聴く。
自分を癒せるのは自分 自分の選んだ道じゃなきゃダメ
宇多田はずっと気になる歌い手だ。作られた歌だけを感じることが本来なのだろうけど、宇多田のこれまでと歌が一緒くたになってしまう。彼女の親と育ちと才能と。いつも宇多田を思うときヒリヒリしたピリピリとした感じをこめかみの後ろあたりで感じてしまう。創作者は創作物で評価されるべきだというのは重々承知しているのだけれど、その一曲一曲に彼女の生きてきた中の様々なものへの思いが交錯する。それは宮沢りえを考える時も同じだ。きっと彼女たちはそんなことを歓迎はしていないだろうが。才能の輝きにあふれた人が親と自分の人生と優しさと誠実さと才能との対峙との綱渡りをする時、それは痛ましく美しく強く脆い。自分の遭遇するものすべてを思い真摯に向き合うことは傷だらけのわざだ。輝く彼女たちが「幸せ」を求め結婚し子を産み育て別れるその日々はいかばかりか。平安が訪れんことをひそかに願う。
誰ぞと共に過ごしたいと思い、「自分を癒せるのは自分」とやはり思い、でも誰かとともに居たいと思い、「自分の選んだ道じゃなきゃダメ」と思い、そんな風に自分も生きている。与えてくれると思っていた人に与え続けなければならない、天与の才の彼女もそうであるのか。
One Last KissのPVの見る。彼女が楽しそうで、よかった。
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貴族と五輪

2021年05月24日 | ことばを巡る色色
幸福な日本の私は、オリンピックをスポーツの祭典と思っていた。世界の人が国境を越えてスポーツの下、交流するのだという、幸福なイメージ

昨春、パンデミックの中で、そんな幸せな衣は取り払われた。裸のオリンピックは、IOCが開催する大会に都市が立候補し「やらせていただくもの」であるという姿をあらわにした。都市とそれを抱える国は「開催地」でしかなく、主導権、イニシアティブはあくまでIOCのものだ。だから、「開催地」は本来、開催についての権利をわずかにしか持っていない。いやなら辞退すればいいが、その損失は払ってもらうぞというのがIOCの考えだ。もちろん開催地も、立候補したにはそれにメリットがあると考えたからだ。give-and-take、winwin。そのgiveもtakeもwinも消え去って、残っているのは裸のIOCと日本と新型ウィルス。商売をしようとしていた国際組織委員会も開催国も想定外のことが起こった。どこにも商機のない祭典。
パンデミックの初期から、国際組織委員会の考えは「やらせてやっている」ってものだから、推してはかるべきものだ。だって経済活動なんだから。開催地国民が何と言おうとね。それを忘れてはいけない。
私は幸福な日本の民だから、世界の人がボーダレスにスポーツを競い合うことを歓迎している。オリンピックのチケットも枠いっぱい申し込んだ。我が国での世紀の祭典を楽しみにしていた。チケットは全部落選した。何人かの都心の有名人が当選していると聞いた時、ひょっとして当落に恣意的な選別がなされているのではないかと思った。地方の高収入でない者は当選しないのか?とね。そう思えてしまったことにがっかりした。私にとって我が国の世紀の祭典は幾分色あせたものになった。そうだった。これは日本のものでなく、国際組織委員会と、経済のものであった。幸福な夢は長くは続かない。そして思いもかけぬパンデミックがやってきた。
そもそも、IOCとかFIFAとかの国際組織委員会とは、オリンピックとは、スポーツとは、何か、誰のためのものか。
そこに貴族的な啓蒙思想を私は感じる。「シビリアン」そして大衆の健全な体力向上のために、貴族的な人が「与える」もの。そう考えれば、IOCと開催国の地位関係も、今回の対応も妙に納得できてしまう。欧米の貴族的な諸々。バロンたちの殿様商い。私たちはスポーツの世界でまだまだ、中世、近世の発想とそのシステムの中にいるのかもしれない。バロンは広告代理店と商売をし、私たちはそれに熱狂する幸せな大衆。それを詳らかにしたのは、新型ウィルスの数少ない功かもしれない。私たち自らの意思に反して「啓蒙」されることを拒否する権利を持っているはずだ。「与えられる」ものはいらない、私が選んだものを私は手に入れるべきだ。侮られ、哀れまれ、与えられる大衆というイメージに「否」と言わねばならない。民族、能力、出自に優劣をつけることにも「否」と言わねばならない。
不都合な真実が見え隠れしている今、スポーツを、オリンピックを、与えられるもの、させてもらうもの、教え導かれるものから、私たちのものとせねばならない。
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色即 とは云うなれど

2021年05月21日 | ことばを巡る色色
色(しき)が空であっても、色がいとしい。
若葉も枯葉も。朝陽も夕陽も。蕾も崩れる花弁も。
何はともあれ自分は一日一日老いていき。あとどれだけ今生にいられるのかなと思うにつけ、なんとお名残惜しいことかと思う。
彩雲。紫苑の宵。黄土の砂。青丹の実。萌葱の若菜。青鈍の野分。紅の牡丹。浅葱の空。 
世界は色に溢れていて、色の歓びに息苦しくなる。
そんなものと別れねばならぬのが、死ということ。そんなものを、また見られるというのが生きているということ。生きていることは色に満ちている。色に心動かし、色の充満に身を委ねる
生きていることも色も、そこにあるというだけで輝いて尊くて美しく屹立している。
よいのだ。色を讃えよう。それが空であっても、空が色であっても。私は毎日を色に慰められているのだから。色に寄り添われて歩いていけるのだから。
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日本芝居オヤジ図鑑

2021年05月09日 | ことばを巡る色色
NHK「今ここにある危機と僕の好感度について」2話まで視聴。
贅沢にオジサンがいっぱい。こんなにたくさんの芝居オジサンの出ているドラマがいまだかつてあっただろうか!他のドラマで渋い脇役のオジサンをこれでもかこれでもかと投入してる。なんと贅沢なことでしょう。
特に理事会と教授会。あるよね、こういうオジサンたちの会議。理事会は重厚なオジサンたちがとにかく事勿れと密議。とにかく責任の所在を霧の中に入れる。あるよね、こんな教授会。レフト気味学生運動臭のするオジサンたち。こういうとこにおばさんは不在。発言した女性教授は外国人だったしね。やっぱりね。
池田成志っていう役者さんはよく知らなかったけど、度を越した変人ぶりが、教授やってる人の一部にありがちでリアルだった。いるのだ、ああいう教授、学者。妙に派手なお召し物、破滅的な飲酒はしゃぎ具合。キャスティングに拍手だね。
ずっと役者をやってきて、バイトやらなんやらもやってきて、あのお年までそれを貫いてたどり着いたオジサンたちが、束になって出てるなんて、嬉しいやら恐ろしいやらゾワゾワする。このドラマの見どころでもある。
それにしても、実社会でもニュースやらに出てくる著名人はほんとオジサンばっかし。コロナやらオリンピックやらがニュースの多くを占める今日、種々様々なおじさんが見解を語り、毎日毎日オジサンばかりを見なければならない報道番組。こちらは私の住む社会の残念な事実。日本はおばさんの意見なんて聞かないのさ。そういう国なのさ。
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