うさとmother-pearl

目指せ道楽三昧高等遊民的日常

sacred places as asyle

2010年12月21日 | お出かけ
ここしばらくは、寺社を巡っている。
もとはと言えば、茶碗→oldnoritake→洋館→街道・歴史的建造物→ って流れである。
流れ自体、不純 である。不純ついでに朱印帖持参である。
巡っているのはほとんどが文化財指定、これまた不敬である。
忘れもしない、あの秋の日。国道41号の上に走る高速道路の向こうに山間の村を跨いで大きな大きな虹を見た。あんなに大きく鮮やかな虹を何年も見てなかった。
目的地は白山長滝神社だったのだけれど、観光案内で奥に白山中居神社というのがあるというのを読み、小雨の中を向かった。阿弥陀ヶ滝に寄って、上へ車を走らせ、林間の注連縄の結界をくぐり着いたのは、聖なる場所の杉と橋と潔斎の川と磐境とお社だった。
偶然の気まぐれで来たのだとは、とても思えなかった。私は不純な不敬な人ではあるが、これはもう必然の場所だと思えてしまったのだ。
その秋は不思議なことに、寺社に出かけるたびに、虹やら彩雲やら龍雲やらを見た。
私は必然に従って、古聖地巡礼をしている。
不信心の私が何を信じ拝しているのか、自分でもよくわからないが、これはこれで、私の信仰であるのかもしれない。人は、特に大人になってしまった人は、自らの必然に逆らわず、身を任せるのが正しい道のりであるように私は思う。

世の中ではpower spotが人気とのこと。当然ながら、私もそんな人たちに最近はよくご一緒となる。戸隠奥社は、初詣のような凄い行列で、そこかしこから「パワー」って言葉が聞こえるし、可愛いお嬢ちゃんたちがいっぱいだし。人出のあまり奥社まで辿りつけなかったり。鞍馬寺では、小学生の会話から三角の石のとこで拝むのがパワースポットって知ったり、貴船神社は手をつなぐカップルだらけだったりするんだけど。
何かに取り上げられているから行ってみるって、もったいない方法だと思う。そんなマニュアルに従わなくっても、聖なる場所は、そこに立てば、聖なる場所である。「行く」ものでなく「体感する」ものなんじゃないかなって思う。
なんだか、アブナイ人みたいだけど、確かにずいぶん、アブナイ人になってるかもしれないけど、知己の人々には引かれそうだけど、そう思う。
休みになると、車を走らせて行きたくなる。山と石と湧き水と川と滝と森と地と風と雲とが、ここは聖なる場所であると教えてくれる。森羅万象と古代からの思いを「神」と呼んでいる場所は、ざぶざぶと細胞のアクを洗い清めてくれる。邪念の徒である私には、それが必要の必然、なんだろう。

岐阜、滋賀、京都、福井、富山、長野、奈良、和歌山を中心に巡った。いい場所に住んでいるものだと思っている。出雲の方が遠いのは残念だけど。ココからはアブナイ人がちょいと独り言を発しますよ。
強く体感したのは、大斎原。入った途端に総毛立ってしまった。凄いところだ。さすがに上皇がのめり込んだ熊野。小栗判官が甦生した場所だ。
貴船神社奥社。なぜか左半分にピリピリした感じがしちゃった。本殿から冷たい空気が出ているかのように、その通り道だけ息が白くなって流れる。由緒書き通りの龍穴なんだろうな。
上賀茂神社 雷の名の通りピリピリする三角錐の二つ山。
石上神宮 ものすごく気持ちの良いところだ。神器を振る布留。物部の聖地だから岐阜の民には気持ちよく感じるのかなあ。
御上神社 ここも心地よい。さわやかで優しく心地よいところだった。
白山中居神社 やっぱり特別な場所なんだろうなって思う。
忘れがたいところはまだまだある。
丹生都比売神社(姫は山間の小さな郷にあまりに美しい御身を秘していらっしゃる)
戸隠神社奥社(あまりの混雑に遥拝しましたが、お山とお山の岩や雲が凄かった、九頭龍で。)
平泉寺白山神社(苔も美しいけど、中世都市も目もくらみそうだけど、やはり御手洗池)
室生寺(奥の院への参道の木立が)石山寺(奥の池あたりが本来の場所かな)

なぜ私は、それを必要とし、必然としているか。
最小限の暮らしをしている。最小限の物を買い、最小限の人と会い、最小限の仕事をし、最小限のものを欲す。
最小限のことを望む。であるから。

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for ten years

2010年12月18日 | ことばを巡る色色
失われた10年というフレーズがあるが、私にとってゼロ年代は空白の10年かもしれない。
本を読まなかった。唄を聴かなかった。映画を見なかった。テレビもほとんど公共放送だった。そして、人にも会わなかった。
この間に読んだ本は、年に3,4冊くらいのものだったろう。
ミレニアムな年の前後に好きだったものを、私は10年の間、直視することができなかった。

ふと動画サイトを見ていたら、GRAYのWINTER AGAINをお勧めされてしまった。
GRAYの中では唯一、この唄と厳寒の中で唄うこの曲のPVが好きだった。
そして、恐る恐るTHE YELLOW MONKEYを聴く。
毎日聴いていたときがあった。不器用な熱情だ。ぎりぎりの、落ちてしまうことが予定されたタイトロープだ。その時、私は人生最後の長い鬱の時間だったので、この人たちを聴いていることだけが薬だった。彼らはその後、結局バンドとして戻ってくることはなかった。それは当然の結末だったろう。あんな時を、誰だって続けることは苦しくって無理だ。
そして、私は、彼らの唄をラックにしまい込んだ。もう、苦しくってとても聴けなくなってしまった。バンドとしての彼らがいなくなってしまったということか、辛い時期に聴いていたということか、時代が変わったということか、理由を決めることに意味はない。予期せず聴いてしまったときの胸の痛感が理由だからだ。
あの頃の、EGO-WRAPPIN'「くちばしにチェリー」 椎名林檎「ギブス」 hide with Spread Beaver「ピンクスパイダー」  窪塚洋介「少年H-オトコ姉ちゃん」「SOS」 小栗旬「SUMMER SNOW」 宮沢りえ豊川悦司「青春牡丹灯籠」

夕方になり、鳥は寒空を飛んでおうちに帰る。あすの朝やってくるときには、もうあすの鳥になっている。あすの朝にはもう戻ってこられない鳥もいる。私の好きなやつもほとんどが行ったきり、だ。あんまり素敵過ぎるやつは素敵過ぎる自分に耐えられないんだろう。自分に誠実であればある程、苦しくて耐えられなくて変わらなければならないことと変わってはいけないことに辛くなってしまう。そんなことは長くは続けられない。そして、残された絵だけはそのままに色褪せずにある。変わることと変わらぬことの両方を求められながらに。

そんな刹那な輝きとは別の意味ではあるが、極めて私的に辛かった私は、あの頃、唄を聴き続け、ドラマを見続け、苦し紛れにイタリアに行ったりシンガポールに行ったりした。
だらだらした失望が絶望になっていて、漂白剤でざぶざぶあらわれているみたいな、崖の先で風に吹かれ続けているみたいな気持になっていた。そして、どうしようもなくなって、カンジナイコトにした。
辛いとか苦しいとか悲しいとか感じないでるといつの間にか自分のまわりは凪いだけれど、私のどこかが死んでいるんだなあ、と思った。
自分のどこかが死んだまま、茶碗を集めoldnoritakeを買い漁り洋館に彷徨い街道を辿り寺を巡り社を拝した。
自分を裏切って緊急避難していた、自分のどこかが死んでいるとわかっているのに。だから、本も歌も映画もドラマも人も全部ダメで、ちょっとの風も怖くて籠っていた。
やっと あの頃のが 見られるようになったことの意味は何だろうと 今の私は考えている。







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