うさとmother-pearl

目指せ道楽三昧高等遊民的日常

漢語萌

2007年06月28日 | ことばを巡る色色
ニュースを見ていて、ゾクゾクすることがある。こんな言葉の響きにね。
業務停止命令
敵対的買収
拘束条件付取引
人事院勧告
暫定的措置
なんだか訳がよくわからないんだけれど、エラソーで、権威的で、絶対服従しろよーで、「使ってみたい!」って思っちゃう。
この感じはなんだろう。こんな風に思っちゃうのは私だけなんだろうか。
四字以上の漢字が並べ立てられていると、それだけでもう、威風堂々。そこどけそこどけ、漢語が通る。意味なんてどうでもいいからさ、とにかく、正しくって、立派なんだよ、って思えちゃう。これはもう、由緒正しきアジテートではないだろうか。怪しげな取引も、権力の陰謀も、ほら、日の下を歩いても恥ずかしくない感じになるでしょ。金蒔絵の印籠みたいになっちゃうでしょ。わかっているのに「控えおろー」を見たら、気持ちよくなっちゃうでしょ。
漢語は日本人にとって、そもそも外国語。読みだって中国語なんだぜ。そして、昔々は偉いお坊さんとかしかわからない言葉だったんだよ。本来は、人を導く正しい心根を持つ公正な人が使っている言葉だったんだよ。だから、ついつい、立派な内容を持っていると思ってしまう。本当の意味なんかわからなくても、「ははーぁ」と首を垂れて承ればいいような気分にさせる。そうしてちょっと酔えてしまう。
でも、待てよ。一億総玉砕。自己責任。これらも連なる漢語なのだ。
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注文の多い料理屋

2007年06月20日 | ことばを巡る色色
先日は親族に連れられて、とある店に夕食を摂りに行った。お料理はおいしいのだが、なんだか居心地が悪い。張り紙なのだ。張り紙ベタベタなのだ。いわく、「携帯電話をかけるな」これは最近の店ではおなじみなので、文句はない。いわく、「子供を靴のまま椅子やらテーブルやらに立たせるな」これも社会人としては当然、自分の子に注意しなければならぬことであり、納得のご注文である。いわく、「期限切れのポイントカードを不正に使うお客がいるので、眞に残念ながらポイント制度は廃止します」・・・なるほど、悪い客がいたもんだ。だが、これらの張り紙を、客は右にも左にも、入店時にも精算時にも読まねばならぬのだ。勘弁してくれよ、である。偶然、張り紙の主であるマスターは不在で接客は丁寧だったのだけれどね。
そういえば、昔よく行っていた店でも、別の意味で居心地が悪くて、足が遠のいてしまった。その店では、親族やらバイトやらを使ってやっているのだが、マスターの「叱り方」が尋常ではないのだ。ピリピリなのだ。勢い客はバイトやらに同情しながらも、顔を上げられずに食事をすることとなる。
たいていそういう店のマスターは完璧主義者で、全ての調理を自分でしたがる。客が増え、注文が多くなると、さばききれずに、そのストレスを当り散らすということとなる。そうして、「王様」となってしまう。「これは俺の店なんやから、妻も親も子もバイトも、もちろん客も、俺の言うこと聞けよー」「嫌なら喰うな」的オーラを撒き散らしながら、フライパンを振るっている。
確かに、「嫌なら来るな!」という客は、いる。「お前のためにやっとるんじゃねえぞ」って客はいるけれど、接客の基本は、「出て行け」とは言わないことのはずだ。
なんて話をしているのは、実は今週「いやなら出てけ!」という思いを、客に対して、わたしがしたからだ。数日経ったが、気分の悪さが続いている。確かに、塩まいておしまい、にしてしまえば、気分も晴れよう。ここで争っても「勝ち」にはならない。
ゴウジョウッパリのわたしは「にんげんだもの」なんて、寛容にもなれず、ひらがなの名前の人が説くような悟りもないわたしは、悶々としております。うん。



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無為の人

2007年06月17日 | ことばを巡る色色
大学時代からの友達のMBちゃんが、また、難しそうな資格試験に合格した。ちょいと検索したら、合格率なんて一桁で、会社からは奨励金なんて出てしまうやつだ。彼女と長いインターバルの後再会し、それからずっと彼女は、わたしにとっては、「居てもらわなくては困る」友達だ。いっつも会ってるわけではないし、メールだって、気の向いたときに交わしているだけだ。でも、彼女のはわたしにとって欠くことのできないものだ。彼女がこの世に存在しているというだけで、私はずいぶん生きているのが楽なのだ。その逆を考えると、無闇に泣きたくなってしまうほど、私は辛いのだ。
振り返ると、わたしは長いこと、緊張しながら生きてきた。なんだかわからないまま「負けてはならぬ」と思ってきた。リアルな「敵」がいる訳ではない。負けてはならぬことは、「負かす」ことではなかった。気を抜いて甘えると途端に崩れていきそうだったということだ。周到にリスクを事前に排除するということに細心してきた。甘えてはならぬ、安心してはならぬ、気を抜いてはならぬと思ってきた。人は悪意を思っていなくとも、不幸な事態を起こしてしまう生き物で、その悪意のない、散漫で不用意な愛が不幸な事態を引き起こしてしまうことを避けるために、わたしは毎日緊張してきた。だからわたしは、ちょっとやそっとでは動じない、かわいげのない子であり、しっかり者だけれど、面白みのない子であった。傷つけられることを恐れていたのだろう。相手はわたしを傷つけようとしているわけではないのだ。ただ、わたしより己の利のほうを重く考えているだけなのだ。それを感じてしまうことが厭で、わたしは毎日をピリピリと過ごし、場を仕切り、いつの間にか「決める人」の役になっていた。「あなたに任せれば、何もかもが間違いなく進んでいく」という役回りを甘受してきた。わたしは、失望することが怖かったのだろう。悪意なく裏切られるのが悲しかったのだろう。
今の私は、そんな緊張も過去のものとなったのだけれど、安心して、全てを投げ出して人と添っていくことが苦手だ。そんな「欠けている」わたしにとってMBちゃんは数少ない、安心して一緒にいることのできる人だ。彼女の段取りは、細やかなの注意がされているのに、相手にそれを感じさせない。「わからぬ人」の場合、こともなげに彼女がこなしたと思っているだろうし、彼女の配慮に無関心で、そんなものに彼女が傷ついたことも少なくはないだろう。
彼女と再会してから、わたしでは覚えきれぬほどの資格を彼女は取っている。それと比してわたしはその間を、無為に過ごした。確かに彼女は理系で、わたしは文系で、あるという違いはあるけれど、多くの学生を擁するわたしの出身大学は、彼女のような「玉」とわたしのような「石」が混交してしまうわけだけれど、それにしても、なんとわたしの無為であることだろう。
日本の昔々のお話は、無為であることに非常に寛容である。むしろ無為を奨励し、賞賛するようなきらいさえある。「三年寝太郎」などはそのよい例であろう。無為は有為を産むと考えるのは、萌芽までの時期にうんともすんとも言わぬ土を待つからであろう。しかし、大人の無為はいただけない。寝太郎は「寝る子」であるから育つのであり、「寝る大人」ではお話にならぬ。
それでも、無為のわたしは今更のように、何をなすべきか探しあぐねている、なんてね。
世の中を見渡すと、地面の一点を執拗にほじっている人、空に向かって虚しく拳を上げる人、攻撃を恐れ体を丸める人、上機嫌で文句を言う人たちの群れ。どの人たちを見ても、自分の居場所がない様に思えてしまう。自分が上等な人間だからというわけではなく、ただただ、どこも居心地が悪い。自分の無為は棚に上げてだけれど、わたしは充足できない。無為のわたしは無為の体を携えて、どうしたら満足できるんかな、と今日も考えよう。
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へんな絵

2007年06月11日 | ことばを巡る色色
昨日日曜は、名古屋市美術館にダリ展を見に行った。えらい人気だよ、というのは知っていたのだけれど、これほどまでとは。名古屋にこんなにダリファンがいるとは。お昼ちょいと前に行ったのだけれど、絵の前は長蛇の列。3重4重にもなっており、頂き物のチケットで入ったわたしは気おされて、ザーッと見てふーーん、と思っておりました。日本画を見る眼を手にしたということで、わたしは何かを失ったのかな、と思うほど、、通り過ぎてしまった。わたしが小さいころ、ダリお爺さんは生きていた。変な髭をはやして、いっつも変なことをしていたなあ。ダリの絵は、におう。肉食の人の匂い。パヒュームの匂い、金物の匂い、歪んだ金属の匂い。曲線の匂い。湿った革の匂い。そういうものに、名古屋の老若男女(並んでる中にはとてもたくさんの子供づれの方あり。さあさ、面白いおじさんの絵を見に行こうとでもいって子を連れてくるのにぴったりか、ダリは?)ぬるぬるした触感は横尾忠則も似てるけど、あたしゃ、横尾のほうが好きだなあ。物語を描いたダリのその物語がわたしには肌触りの違う物だったのか。農耕民族の遺伝子には、湿った鞭の匂いは濃厚すぎるのか(駄洒落じゃないよ)
常設展のお下げのモジリアニ。光る瞳のキスリングよりも、モジリアニに惹かれる所以は何なのか。五七五で育ったからなのかな。

家に帰れば、赤い唇の折口さんの過剰な露出。ちょっと後退している額とどうやって寝るとそうなるのっていう多髪とポロポロと流れる涙とのアンバランスな人だなあ。他の全部は胡散臭いジュリアナ・ヴェルファーレなのに、唇だけが介護ビジネス。突然の業務停止命令って、この人、政界工作してなかったんだね。ホリエモンしかりで、この人たちって、そりゃ、後先考えずビジネスになればって、利潤追求に走る乱暴な人たちだけれど、老獪な誰かと違って、バッチをつけたオジサンたちとはつながってないから、こんなことになっちゃってるんかしら、と考えた。
最も危険なことは、語られていないこと。何かが表面に出ることで、語られなかったことは何かを見なければ。そう、何が語られたかではなく、何が語られないことになったかが、大切だ。君はそれがわかっている?例えば、コムスンの市場を狙っている誰かが巧妙に工作したなんてこともありうるしね。彼と彼の会社の罪は罪だけれど、多分一番悪い人は、多分、何かを表に出すことで隠れることに成功した人なんだろう。何かが表に出、批判されることで免れたものは何か、人が声高になっているときは、それこそを注意深く見ることが、大切だ。大声の罵り合いはいつか去っていく。その時ほくそえんでいるのは誰なのか。尻馬に乗るのは容易だけれど、君よ、それを、ぺろりとはがしてごらん。
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美徳の美

2007年06月06日 | ことばを巡る色色
いつだか、あなたのブログはよくある、「うまいもんとか行ったとこ」とかではないのでいいよ、とお褒めいただいたことがあった。最近のわたしのは、「うまいもんとか行ったとこ」とかになってしまっており、心密かに反省したり、恥じ入ったりしている。そんなことは、更新の少ない理由にするのも恥ずかしいことなのだけれどね。
という訳で、先の日曜の「行ったとこ」は、明治村。春からわたしは明治村の村民(年間パスポートなのだ。わたしは明治村的には『5丁目67番地帝国ホテル』に住んでいる)なので、ちょっと時間があると明治村を訪れている。明治村は今、トリエンナーレという、アマチュアの方のパフォーマンスを見る催しがある。日曜は、聖ザビエル天主堂で、男声コーラスを聞いた。高い高い丸天井に響く男声は心を慰撫する。男声コーラスはやっぱ、教会で聞くべきだなって思う。これも一種の「荘厳」なのだろう。歌うといのはとても原初的な行為だ。声は、言葉というコミュニケーションツールを乗せる役割から離れ、体は神を荘厳する楽器となる。教会建築はそのために蝙蝠の屋根を持つ。
次は森鴎外と夏目漱石の住んだ家。薩摩琵琶をやっておられた。そこで、平家敦盛の段を聴く。唄は、声明となり、言葉になり、を繰り返しながら唱えられる。いたわしや、敦盛は二十に満たぬ若きみそらで首をかかれり。
言葉とは、デジタルなものである。情報伝達の器であり、記号である。しかし、言葉を発することは、アナログな行為となる時がある。音を出すためだけの行為となる。伝えられるのは、記号でなく、音の塊となる。人が人であるのは、自らが手にした言葉という記号を、記号のままにはしておけぬ点であろう。それは祈りであり、ゲイジツであろう。
そのために、ゲイジツは過剰を目指す。過剰はトランスを呼ぶからだ。トランスは捧げることから発する。言葉という記号を越え、過剰に唱えることは、神やらなんやらに身を捧げることであり、捧げ尽くせば、混沌でありながら真空の佳境となる。記号のみで語ることの浅薄さを知る。
制御された記号の中で生きる現代の人たちではあるが、身体のどこかにそれからの解放を望んでいる部分がある。
捧げぬことを知らぬゲージツは傲慢だろう。わたしが西洋の少なからぬ物を、傲慢でつまんない、って思うのは、その故だ。正しく写し取ろうとすること、正しくあらわそうということのなんと、傲慢なことよ。
明治村にあるのは、偽西洋建築ってやつだ。それらはかわいらしい。そこには「憧れ」というかわいらしい感情があるからだ。記号で割り切り、描こうとする物にはないものだ。若冲の持つトランス感も、仏を含む万物への「憧れ」と描くという行為に身を捧げつくしたかわいらしさがある。森羅万象に比ぶれば、己のなんとちっぽけなことよ、という気持ちのよさがある。それは、美しい国の美徳であったろう。
早い話が、西洋ゲージツ、すかしてんじゃねーよ、って思うのだ、私は。
狩野派がどんどん詰まんなくなっちゃったのは、西洋ゲージツが詰まんないのと似てる。生まれながらに征服者である者のために、ゲイジツの征服者が作った物のなんて、欠伸物なのだ。
そう、最近の「かわいい」にまつわる美徳の話を。
世の中には、「王子」に浮かれる老男女。皆さん、「かわいい」とおっしゃる。あまり美しくない姿だな、ってわたしは思う。ゆうちゃんも、りょうくんも、まおちゃんも、みきてぃも、みんなみんな、「かわいい」と言ってる皆さんより、過酷な練習をし、目には見えぬものと戦い、厳しい毎日を送っている。それを、格下で庇護してやらねばならぬ者を見るように、「かわいい」と言うのはおかしくなかろうか。言ってる方々よりは、きっと数段スーパーな人で、戦いの毎日を過ごしているのだと思う。そこに思いをはせるべきではなかろうか。謙虚に彼らを讃えるのが、美しい国の美徳であろうと思うよ。
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