今回のお出かけ、まずは過日に下見をした、中村遊郭の跡。JR名古屋駅太閤通り側、ビックカメラをまっすぐ西に行くと、中村日赤ちょっと手前に、スーパー・ユニーがあり、住宅と商店とソープランドが混在し、その北奥は遊郭跡だ。もうもう朽ちかけてしまった格子、いくつか落ちてしまったタイル張りの壁。美人のガラス絵。歩いてみた。「大門」というアーチをくぐって。その昔遊郭の入り口は「大門-おおもん」と呼ばれた。そしてこのあたりは大門商店街という。記憶を消そうとしているのか懐に抱こうとしているのか。不思議だ。これほどおもしろい建物に溢れているのに、街は、普通の日曜日の少しだけ退屈なぼんやりとした顔をしている。日本中の公園や古い町並みに観光客は溢れているのに、この街を見に来る人はいない。たとえいても、それを隠して通りすがりのように歩かねばならない気に、この街はさせる。名残の建物はデイハウスや民家になっていて、こんなにも建物は往時のままであるのに、ね。ただ一つ料亭として使われている「稲本」さんで昼食をとった。中華趣味の紅殻の塀の中に入ると手すりのついた2階の窓の歪んだガラス、静かな中庭。「稲本」さんは中村遊郭の中でも大門から最も遠い位置にある。中村遊郭の中でも、特に格式の高い場所だったのだろう。通されたところは新しく改築してあり、月替わりの昼膳を頂いた。季節柄、土瓶蒸しも付いて2310円(消費税って半端で、値段にも風情がないですね)。ここでいただいているという気持ちを考えると決してお高くはないお昼でしたよ。
ここはほんの何十年か前は、なまなま、な場所だった。空気はじとりと甘く、発酵して、もしくは饐えて、重く漂っていたことだろう。なのに、今はこんなにもすべてが、乾いている。甘く饐えていて沈んでいた物も、時の流れの中で乾き、さらさらと、かすかな風にも宙を舞う。
生きているということは、なまなまなことだ。触るとべたりと指に纏わりつき、鼻の奥についた匂いはなかなか溶けない。湿った蛋白質は大気に充満し、むぎゅむぎゅと押し寄せてくる。しかし、時を経たものはみんな乾いて、そっとそこに所在無げに佇み、かわいらしい。色恋とか人情とか羨望とか嫉妬とか売名とかのすべての湿った欲望をなくして立っている。こう思う私は、本当は、もう、もう、そういうものが厭になってしまっているのかもしれない。恋も名前も意地も人生も、もうもう、いらないと思ってしまっている。乾いた風の中でさらさらになった物を見ていたいんだ。
ばばあのようでジジイのようでコラーゲンなんてゼロで、そういうのがいいよって、ね。だから、建物を見に行く。美術館に行く。ずっと物を集めることに夢中になった。しかし、集めたものは、「私の物」と名づけられたところから、なまなまな物になってしまう。「欲しい」と思った気持ちが物にべたりと張り付いてしまうからね。
建物は手に入らないところがいい。自分のものにならない物。それは清潔で美しい。私の欲望をはねつける物だから美しい。物を手に入れ、それを片付け、満足していることにも飽きちゃたんかもしれないけれど。
中村遊郭を後にし、小牧のメナード美術館へと行く。
メナードは今、名作展をやっている。ミレーを主題にしたゴッホ。桃色の頬の松園。そうして舟越。
舟越桂はここ何年来の好きな彫刻家だ。メナードを見に行くことには決めていたが、メナードのHPで、舟越の木彫を持っていて今回公開されていることを知り、少しわくわくしていた。舟越桂の木彫は名古屋市美術館、愛知県美術館にもあり、過去にそちらで見たことはある。ここの舟越は、バイオリンを弾いている。そのまま止まっている。音は凍っている。
木彫は木を念入りに乾かし作られる乾いた美である。油絵がぬめぬめしているのとは反対にね。乾いた楠、大理石の瞳。
ふと、ここは美の棺なのだと思った。そこに眠っている。「誰のもの」という柵を解かれ静かに横たわっている美よ。私は手を合わせ、あなたに帰依するためにやってきたのだ。「南無」と唱えるためにまた出かけていくのだ。
※近江2日目はまた機会があれば書きたいと思っております。画像は私の持ち物である舟越の版画「読み終わらない本」
ここはほんの何十年か前は、なまなま、な場所だった。空気はじとりと甘く、発酵して、もしくは饐えて、重く漂っていたことだろう。なのに、今はこんなにもすべてが、乾いている。甘く饐えていて沈んでいた物も、時の流れの中で乾き、さらさらと、かすかな風にも宙を舞う。
生きているということは、なまなまなことだ。触るとべたりと指に纏わりつき、鼻の奥についた匂いはなかなか溶けない。湿った蛋白質は大気に充満し、むぎゅむぎゅと押し寄せてくる。しかし、時を経たものはみんな乾いて、そっとそこに所在無げに佇み、かわいらしい。色恋とか人情とか羨望とか嫉妬とか売名とかのすべての湿った欲望をなくして立っている。こう思う私は、本当は、もう、もう、そういうものが厭になってしまっているのかもしれない。恋も名前も意地も人生も、もうもう、いらないと思ってしまっている。乾いた風の中でさらさらになった物を見ていたいんだ。
ばばあのようでジジイのようでコラーゲンなんてゼロで、そういうのがいいよって、ね。だから、建物を見に行く。美術館に行く。ずっと物を集めることに夢中になった。しかし、集めたものは、「私の物」と名づけられたところから、なまなまな物になってしまう。「欲しい」と思った気持ちが物にべたりと張り付いてしまうからね。
建物は手に入らないところがいい。自分のものにならない物。それは清潔で美しい。私の欲望をはねつける物だから美しい。物を手に入れ、それを片付け、満足していることにも飽きちゃたんかもしれないけれど。
中村遊郭を後にし、小牧のメナード美術館へと行く。
メナードは今、名作展をやっている。ミレーを主題にしたゴッホ。桃色の頬の松園。そうして舟越。
舟越桂はここ何年来の好きな彫刻家だ。メナードを見に行くことには決めていたが、メナードのHPで、舟越の木彫を持っていて今回公開されていることを知り、少しわくわくしていた。舟越桂の木彫は名古屋市美術館、愛知県美術館にもあり、過去にそちらで見たことはある。ここの舟越は、バイオリンを弾いている。そのまま止まっている。音は凍っている。
木彫は木を念入りに乾かし作られる乾いた美である。油絵がぬめぬめしているのとは反対にね。乾いた楠、大理石の瞳。
ふと、ここは美の棺なのだと思った。そこに眠っている。「誰のもの」という柵を解かれ静かに横たわっている美よ。私は手を合わせ、あなたに帰依するためにやってきたのだ。「南無」と唱えるためにまた出かけていくのだ。
※近江2日目はまた機会があれば書きたいと思っております。画像は私の持ち物である舟越の版画「読み終わらない本」