古に西行という人がいた。卑しからぬ家に生まれ、北面の武士、家督を継ぐものとしてその将来を嘱望されていた。言い伝えでは、裾に取りすがる家人を足蹴にして出家したとされている。出自も肩書きも経済も家族も捨てて、放浪ともいえる日々を選んだわけである。その点では仏陀の人生をたどっているとも言えよう。今の世でいえば、上場会社のオーナー一族の長男に生まれ、広大な土地と株の相続権を持ち、東大を出てキャリア官僚になり、女優と結婚し、やんごとなき人々とも交流のある人が、出奔してしまったというあたりであろう。
彼が追ったものは、仏陀だったかもしれないし、和歌だったかもしれないし、桜だったかもしれないが、そのどれが彼の心眼に映っていたのかを知るすべはない。
寺社の桜、公園の桜、堤の桜、名木の桜。名を持つ桜。その枝下に人は集い、ざわめきながらつかの間の春の夢のような桜をめでる。
しかし、桜見るなら、山桜。
一人あてもなく分け入って、歩いて、歩いて、登り、一息ついて切り株に腰を下ろし、また登り、湧き水を飲み、じんわりとにじんだ胸元の汗をぬぐい、登る理由も忘れ、ここがどこか、われが誰か、なにを生業としてきたか、どこから来たか、どのようなほめ言葉を得たか、どのような罵倒を受けたか、すべてすべて忘れ去ったその先の、山の奥の林の奥の、深い木立を抜けたところで、誰に知られるでもなく、語られるでもなく咲いている爛漫の桜。うつけのように見上げ、そうして跪いて、贖罪を乞う。
願はくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ
吉野に行きたい。吉野に行きたい。ただ一人、その千本を越え、あの千本を越え、また千本を越え。
それは恋にも巡礼にも似ているなあ。
彼が追ったものは、仏陀だったかもしれないし、和歌だったかもしれないし、桜だったかもしれないが、そのどれが彼の心眼に映っていたのかを知るすべはない。
寺社の桜、公園の桜、堤の桜、名木の桜。名を持つ桜。その枝下に人は集い、ざわめきながらつかの間の春の夢のような桜をめでる。
しかし、桜見るなら、山桜。
一人あてもなく分け入って、歩いて、歩いて、登り、一息ついて切り株に腰を下ろし、また登り、湧き水を飲み、じんわりとにじんだ胸元の汗をぬぐい、登る理由も忘れ、ここがどこか、われが誰か、なにを生業としてきたか、どこから来たか、どのようなほめ言葉を得たか、どのような罵倒を受けたか、すべてすべて忘れ去ったその先の、山の奥の林の奥の、深い木立を抜けたところで、誰に知られるでもなく、語られるでもなく咲いている爛漫の桜。うつけのように見上げ、そうして跪いて、贖罪を乞う。
願はくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ
吉野に行きたい。吉野に行きたい。ただ一人、その千本を越え、あの千本を越え、また千本を越え。
それは恋にも巡礼にも似ているなあ。
愛することも
愛されることも
知らないで
咲いている
誰に知られるでもなく咲いている山桜
そう思うのは人間だけのエゴなのか
ふと思ふ
じんわりとにじんだ胸元の汗
こんな言葉に反応する私
故に知られるも知られぬも
花にはあずかり知らぬこと
煩悩反応 渇!
先生!質問。
「あずかり知れぬ」と「あずかり知らぬ」の違いを説明してください。
能動と受動?
「あずかり知らぬ」が正しいんじゃないんかしら。
私は知りませんよ、って意味ですもんね。
またまた、しらべてみますね。
菅笠かぶって、熊野詣というのもよろしいかと。
同行二人で
年齢一桁のくせにどこか死に憧れを抱いていたわたしは、こころにそのうたをしっかりとだきとめました。
西行は
あたしのことなど
知らぬけど
さくらの下で
メメントモリ
お母様は、なんとまあお教えのまっすぐなこと。
さすが大島弓子ファンでいらっしゃる。
返歌はしたいのだけれど、春風邪のためご容赦を。
東京/アークヒルズの通りの桜は八分咲きっちゅーところですた。
山桜~~良いですね。
花びらが小ぶりで可憐です。
東京の街中にあるソメイヨシノの花びらがやたら白っぽい気がしるのは私だけ?
さて、私事ですが、桜の季節が到来すると・・・
桜=友人の死=命日=墓参りという図式がここ十年出来上がってます。
普段、滅多に乗ることのない西武線のある街に友人のお墓があるのですが、
車窓に流れる桜を見ていると、つい涙がこぼれそうになってしまうので、
我慢するのが、これまた至難です。
ちなみに去年は駅前で唐揚げを買い、缶ビールを飲みながらの独り墓前報告。
どんなに期待しても、亡霊も幻聴も現れないのですが、
生前の彼より年上になって以来、
「もう少しだけ頑張ってみるね」と言えるようになりました。
出来る限り人ごみを避けるよう行動したいです。
白っぽい桜に厭きたら、枝垂桜なんてどうですか。東京はどちらが有名でしょう?