日々のつれづれ

日々うららかでありますようにと願ったけれど、平穏な日々は続かない。
穏やかな老後は訪れるか。

2005年1月21日から22日

2007-03-21 | 実家に関すること
昨夜から父の動きが多くなったと思っていましたら、今度は幻覚が出てきました。「火事だ」と叫んでみたり、部屋に誰かがいると怯えたり。
そして午後には暴力的になりました。顔つきも変わり大声で怒鳴る。誰かがいると怯えたのは嘘のようでした。

この夜、義妹は20時ころに来て24時まで父に付いてくれました。
「皆で付いていることは無いから適当に帰って」と言っても(24時までいよう)と決めてきたらしく24時になると帰ったのですが、ひっきりなしに父に話しかける声が耳について寝むことが出来ません。
いつもは8時過ぎに1、2時間寝ることが出来るのにこの日はそれも出来ませんでした。
私は本音で「帰っていいから」と言ったのですけれど、義妹にすれば私が泊まっているのに何にもしないでいる訳にはいかなかったのでしょう。

22日の朝、診察に行く手筈はケアマネさんが整えてくれました。
もう自家用車で行くことは無理でしたから福祉タクシーの手配もしてくれました。

朝早くにケアマネさんが来て父の着替えや整容をしてくれました。
父はいままで寝ないでいたのに、この日は起きようとしません。
昼夜逆転に入ったのかな、とケアマネさんは言いました。

タクシーの運転手さんとケアマネさんとで父を車椅子移譲させ、タクシーに乗せて病院へ。

父の変化はメモにとっておきましたので、診察の時には経過を追って話すことができました。
医師もあまりにも急激な変化に驚いたようでした。
そのまま入院と言うことになり、取り敢えず母も私も一息つくことが出来たのです。

とても長い5日間でしたが、ケアマネさん、ヘルパーさんに助けられて乗り切ることができました。本当に感謝です
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2005年1月20日

2007-03-20 | 実家に関すること
それまで便の出が悪くいつも困っていた父でした。
食が細いしそんなに動かないし、筋力も無いので排泄がうまくいかないのは当たり前と言えば当たり前なのです。
それがこの状態になってから多量の便が出るようになりました。
この夜もちょうど弟が来ていた時にびっくりするほどの量の便が出ました。シーツの上にタオルを敷いていたので良かったのですが始末するのは大変でした

その夜も父は相変わらずブツブツと何か話していました。聞き取れることもあれば何を言っているのか分からないこともありましたが、「いやー、旨いなぁ」と言ったのは忘れられません。
元来食が細く食べることに執着の無い父です。よほど美味しいものを食べる夢でも見ていたのでしょうか。
もう一度、父の好きなものを食べさせたいと強く思いました。

夜中になって父が大声で叫ぶので母がベッドの脇から父を叱りました。
すると父が母の襟首をつかみ、普段では想像できない強い力で引っ張りました。
母に予想外の力がかかると身体に思いがけないダメージを与える危険があります。
慌てて割って入りましたが、引き離すのも容易ではありませんでした。

今まで不自由な体で、排便のコントロールができない父のために大変な思いをしてきた母ですが、その事で愚痴をこぼしたことはありませんでした。が、この夜「父さんを殺して母さんも死にたい」と言って母は泣きました


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2005年1月19日

2007-03-19 | 実家に関すること
昨夜の話し合いについて母に伝えずにいることは出来ませんでした。
母も弟との同居は出来ないと思っていたのでしょうが、弟がはっきりとそう言ったという事はやはりショックだったと思います

父の状況はますます悪くなり、再度診察を受けることにしましたが折悪しく主治医が出張でいません。
他の医師に診て頂きましたが所見は認知症。身体に悪いところは見受けられないので入院はさせてもらえませんでした。

この日とうとう父をトイレまで連れて行くことも出来なくなり、ケアマネさんがポータブルトイレを準備してくれました。
ヘルパーさんから父の様子を聞いて、ケアマネさんも度々家に来てくれたのは心強い事でした。

夕食時父はスプーンを口まで運ぶことが出来なくなりました。
口の近くまでは持っていくのですが口の中に入れることが出来ず溢してしまうのです。
父の様子に私が思わず涙をこぼすのを見て、父も泣くのです
やはり認知症の状態だと思いましたが、こんなに急速に進むものかと思いました。

夕方義妹が来ました。
父はポータブルトイレに座ることも出来なくなっていましたから、留守を頼み父のために必要な紙オムツを買いに行こうと思いました。が、義妹が行ってくれると言うのでお願いしました。

父のお尻が汚れたのでキレイにしてあげたいと思うのですが、慣れていない事もあるし父が足を動かしたりするので一人でするのは大変です
母も不自由な身体で手助けはしてくれますが、義妹が助けてくれたほうが皆が楽ですから買い物から戻るのを待つことにしました。
が、40分が経ち、1時間が経っても戻ってきません。
父を汚れたままにしておく事も出来ず結局母と二人で取り替えたのです。
義妹が戻ってきたのは1時間半も後のことでした。
自宅に寄って食事を済ませてきたそうです

毎日、午後からヘルパーさんに来て頂くようにしていましたが本当に大変なのは夜になってからでした。
この夜からベッドの中でひっきりなしにブツブツと何かを呟くように喋り続けるようになり、時々大きな声で叫んだりもします。
夜は寝ることが出来ない状態になりました。
更に動きも活発になり、ベッドについている手すり(父のベッドは福祉用なので手すりがついている)を握って動かそうとしたり、普段では出来そうも無いことをやろうとしたりします。

土曜日に主治医が戻ればきっと入院させてもらえる、という思いが支えでした。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

18日夜

2007-03-16 | 実家に関すること
父が介助なしで歩けなくなったと義妹から聞いた弟が、仕事を終えた後実家に顔を出したのはその夜のこと。
父の状態には吃驚したようです。
夫も仕事帰りに寄ってくれたので、弟夫婦と私たち夫婦、4人が揃いました。
予てから両親の今後を話し合いたいと弟に申し入れしていたのに何の連絡も無かったので、この機会にと思い急遽弟の家で話し合いをすることにしました。

以前からその事で話がしたいと言ってあったので、弟夫婦の間での話し合いは出来ていたのでしょう。
開口一番「うちは同居は出来ない」と。
じゃあ、どうしたら良いと思うの
(ちょっとの間)あんたはどう考えてるの

カチンときました
同居できないと言うのだから、その後の事を何も考えていない筈が無い。
こちらに言わせて自分の責任を軽くしようとしているのか

そして義妹が言わなくても良いことを言ったのです。
「お義母さんと同居したら私がストレスでノイローゼになりそう」
冗談じゃない
何年か前に義妹に言われた言葉で母がどれだけ傷ついたか。
まだ専業主婦で子供のPTA活動で楽しく過ごしていた義妹は、時々お菜など持ってきてくれていたけれど足が間遠になった或る日、母が義妹に「最近来てくれないね」と言った時のこと。
「私もお茶のみしたり本を読んだり、自分の時間がほしい。お義母さんも少し外に出てお友達を作ったら?」

この件については以前にも少し触れましたが(11月7日の記事、他の方のようにリンクを貼ることが出来ません
自分の時間が持てないほど私の両親に時間を割いていたとはとても思えない。
大体、そんなことを言わなくても子供のことで忙しいとか他に言いようがあるでしょうに。

考えもせず言いたいことを言う義妹がストレスでノイローゼ
いつも気を遣って言いたいことも言わないでいる母のほうがおかしくなるわ
大体、弟が「同居できない」って言っているのに何故義妹が駄目押ししなきゃいけないの

夫が言いました。「うちで同居しようかと思っている」
まさか私たちが同居すると言うとは思っていなかったようです。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2005年1月18日

2007-03-15 | 実家に関すること
その朝、両親と一緒に病院へ行きました。さまざまな検査の結果、特別な異常は見られないとの事。
釈然としないものの検査の結果がそうであれば納得せざるを得ません。
父の状態から入院させてもらえるものと母は思っていたようです。
二人で過ごさせるのは心配だったのでその夜、私は泊まることにしました

夕食時「U君(私の夫のこと)はどうしたんだ? ああ、酒が好きだから家に取りに行ったのか」と父が言ったのです。
夫は確かにお酒が大好き でも実家の向かいに酒屋さんがあるのでいつもそこで買います。

言うことが少し変だけれど、足はふらついてトイレまで連れて行くのも大変になってきたけれど、まだ深刻な事態ではありませんでした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2005年1月17日

2007-03-14 | 実家に関すること
この日は月曜日で父はデイサービスに行きました
父を一人で家に残しておけない事から母の通院日は父のデイサービスに合わせて決めていたので、父を送り出してすぐ病院へ出掛けました

帰宅するとデイサービスの方から電話がありました
何度か携帯に電話を下さったようなのですが、病院内では電源は切っていますから繋がらなかったのでしょう

「(父の)様子がどうもおかしい。足がもつれて転んだし、口も回らないようだ」と。

病院に連れて行こう、と言ったのですが「主治医の診察日が翌日なので明日まで様子を見る」と母が言うので、その日は帰宅しました

でも父はその夜、介助なしでは室内も歩けない状態になりました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2005年1月16日

2007-03-13 | 実家に関すること
父は40代で事故に遭い、その後遺症で手足の痺れがひどく身障者1級の認定を受けています。
数年前からは加齢により戸外を歩くのは無理な状態になっていました。
屋内では杖を使って何とか歩けるものの、屋外では車椅子を使用します。

1月15日は父の80歳の誕生日でした。
翌日の夜、父は足がもつれて転びました

両親は共に床に座った状態から自力で立ち上がることは出来ません。転んでしまったら誰かに助けてもらわなければ立つ事は出来ないのです。

夜であった事から母は子供に助けを求めませんでした。
大変な思いをして、それでも何とか助け起こしたようですが母も脇腹を痛めてしまいました。

父の転倒は初めてではありません。
筋力が無いのでフラ~っという感じで転ぶのです。
それまでは床に転んでしまうと言うことはありませんでした。椅子に倒れこんだり、傍にある物につかまることが出来たりしたので、立つことにそんなに大変な思いをせずに来ました。
なので今回も大きな心配はしていませんでした。
ただ(やっぱり両親が二人で暮らすのはもう限界なのだろうな)とは思いました。

けれども、これが事の始まりでした。










コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

月命日

2007-03-11 | 実家に関すること
まだお参りには行かない積りでした。
来月になれば道路の状態も心配なくなるだろうから、そうしたら又行こうと思っていました。
でも夫が「行こう」と言ってくれたので午前中に行ってきました

夫の先祖のお墓もその霊園にあります。なのでそちらの分もお花を買おうと思いましたら「気持ちだけでいいよ」と言うのです。
でもせっかく行くのにそんな訳にはいかないと6束買いました。
母の遺骨は納骨堂に納めて頂いていて、そちらの花挿しは大きいので4束でも足りないくらいなのです。

母のお参りを済ませて夫家のお墓へ。しかし お墓はまだ雪の中せめてお花を供えたかったのですが傍まで行くことが出来ません。
スコップでも積んでいればよかったのですがそれもありません
仕方が無いのでお墓に向かって手を合わせるだけで帰宅しました。

来月まで行けないと思っていたのに思いがけずお参りが出来ました。本当に有難いことです
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

父の状態

2007-03-10 | 実家に関すること
昨日はとても疲れている気がしました
午前中はそうでもなかったのです。
息子の出勤が遅く、家を出て行ったのが9時半ころ。朝の仕事もそこそこに出掛けました
スーパーに寄ってから実家に行き、お昼は実家で食べる事にして

その後、父のところへ行きましたが何だか疲れが出てきたような気が

父の様子は変わりませんし、週に2回は行くので話も無いんですよね。間が持たない
常備してある父の好きなお菓子がもう無くなりそうなので1階の売店まで一緒に行き買ってきました。1階ではデイサービスが行われています。
父がデイサービスに通っていたころの知り合いが居て手を振ってくれたりするのですが その方のことが分かっているのか心許ない。近くに行って話をしようともしないのです

「誰だか分かるの?」と聞きますと「分かってる」とは言います。
父には、分からないことでも分かっているような感じで受け答えするところがあるのです。
認知症の方にはそういう事は珍しくは無いと思いますが、父の場合もそうなのでしょうか。

軽い認知症とは思っています。
曜日や日にちは分からないようです。
「何歳になった?」と聞きますと「80か?」と言って私を見ます。
「82だよ」と言いますと、決まって「こんなに長く生きるとは思わなかったなぁ」と言います。

お昼が済んですぐの時間に父のところに行くことも多いのですが、何を食べたか覚えていません。
そして、もう自分で何かしようという気持ちは無くなってしまったように思います。

一昨年の1月に父がとても不穏な状態になり、それは認知症としか考えられないものでした

この次はその時の父の状態を振り返ってみたいと思います。















コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

読書の愉しみ

2007-03-07 | 趣味の時間
図書館に取り寄せてもらった東野圭吾の「赤い指」
良い本に巡り合えたという満足感で読了しました。

母のためにも本を借りるようになったのは何時からだったでしょうか。
一人で出歩けない母の僅かな楽しみになればと思い、私が借りる時に母の分も借りるようにしたのです。
母のお気に入りは山崎豊子と横山秀夫。この二人の本は殆ど読んだと思います。
時々「こんな本が読みたかったんだ」と言ってくれたこともありました

亡くなる年の6月に、荻原浩の「明日の記憶」を私が読み、返却日まで間があるので母にも読ませたいと思い「良い本だから読んでみない?」と言ったのですが、いま思えばそんな気力はもう無かったのでしょう。
「今はいい」と言う母に(また借りてやればいいか)と思ったのですが、読むことも無く旅立っていきました。

読んだあと満足感の残る本は滅多にありませんが、たまにそんな本に当たると母にも読ませたかったなぁと思うのです。

 



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする