侯爵家のとある姫君の傍仕えとなったマリスは、上の姉二人を差し置いてどうして自分が選ばれたのか、不思議に思っていた。
侯爵家の姫君、アステが、王立の寄宿学校へ入学するのを機に傍仕えが必要になったからだが。
「あなたが可愛らしかったからだわ」
とアステは言った。
アステの傍に仕え、一緒に寄宿学校へと入学する。宿舎の部屋も一緒、授業も一緒、朝から晩まで生活を共にする。
私より一つ下なのね、父上様や母上様と離れるのは寂しいでしょうけれど、私がついているから心配しなくていいわ、と言われ。
それでは立場が逆だわ、と思ったけれど、入学までの1週間、アステは本当にマリスを可愛がってくれた。
私のお気に入りなの、と言って見せてくれた人形を大切そうに撫で、ねえあなたに似てるでしょう?と笑う。
兄からの誕生日の贈り物で、とても大切にしているのだというそれは、確かに愛らしい。
その人形を学校へ持っていくことはできないから、あなたを選んだのよ、と言われることも嫌ではなかった。
正直、マリスは、自分とその人形が似ているとはあまり思わなかったが、アステがそう思ってるならそれでいい。
それで自分が選ばれたのだから、それでいいのだ。
そうしてアステと共に入学し、そこで学ぶ日々はあっという間に過ぎた。
学校の教師や世話係の大人たち以外は子供ばかりの世界で、家にいるよりずっと自由だわ、とマリスは学校生活を気に入っていたが。
アステは、周囲の学友と仲良くすることを嫌がっている様だった。
レネーゼ侯爵家の、というと誰もが必ず、アステの兄の話を持ち掛けてきた。
教師たちはアステの兄が如何に成績優秀であったか、世話係たちは彼がいかに品行方正であったかを、自慢げに語る。
学友たちは、自分の兄や姉から聞いた様々な話をして、アステにそれは本当かどうかを訊ねてくる。
その度にアステは窮屈な思いをしているように見えたのだ。
大人たちには「兄上様が優秀なのは当然ですわ」と言い、学友たちには「そんな噂話なんかより兄上様は素晴らしいですわ」と言う。
そう誇らしそうにしていながらも、アステから兄上様の話をすることはなかった。
共に生活をしていればマリスにも解ってくる。アステは、兄と過ごした事は、ほとんどないのではないか。
学友たちに自慢げに語れるような出来事も、教師たちに卒業後の様子を知らせられるような関わりも、持っていないのだ。
だがアステはそれを認めない。
そのうち、アステは気位が高い、と周囲からはやや距離を置かれるようになったけれど、マリスにはどうすることもできない。
学友と仲を取り持とうとしても、「マリスがいるから良いわ」と言う。
そんな学校生活を送る中で、この事件は起きたのだ。
侯爵家で開かれる夜会で兄がお披露目をする、という噂を学友から漏らされたアステが、強引に休学届を出して家に戻った。
そのことでマリスは、「なぜ止めなかったのか」と奥女中頭の婆や様に叱られている。
なぜと言いつつ、なぜなのかは聞いてくれないようだ。
「姫様の事を思うのであれば、まずお前が真っ先に止めなくてはなりませんでした」
「でも、えっと、ばあや様」
「私の事はエディエラと呼びなさい」
「はい、エディエラ様、でも、姫様はとてもお辛かったのだと思うんです」
「お辛いお気持ちを優先するのではなく、まず慰め、それからお諫めすることがお前の役目ですよ」
姫様が一時の感情で家に戻り、現在、母上様に厳しくお叱りを受けている事の方がお辛いと考えなくては、と言われて、そうかしら、と思う。
姫様は母上様に叱られる事よりも、兄上様に会えたことの方が嬉しいのではないだろうか。
「そもそも夜会はこれ一度きりというわけではありませんでした」
これから先も幾度と開かれ、その度若様もこちらへ戻られる。これが生涯ただ一度というものではない。それも解っているマリスだが。
「それなのに一時の感情で、早まり、駆け付けた事で、生涯を台無しにするような事件が姫様に降りかかっていたらどうするつもりだったのです」
「でもばあや様」
「エディエラです」
「はい、そうでした。エディエラ様、事件は起きなかったのだから、兄上様に会えたことの方が大事だと思います」
「わたくしは結果を論じたいのではありませんよ、マリス」
「でも、ば、エディエラ様、私は結果を見た方がいいと思うんです」
「ああ、マリス…」
「あ、あのぅ、ばあや様?」
「エディエラです!」
「い、いえ、マリスではなく、…あの若様がいらしておりまして…、マリスを借りたいということなのですが」
「なんですって?」
二人の間に割り込んできた女中の言葉に、マリスとエディエラは同時にそちらを見た。
女中の背後、部屋の入り口ではアステの兄、ミカヅキが立っている。全員の視線を受けて、美しい一礼を見せた。
エディエラは立ち上がり、そちらへと近づいていく。
「お話し中、申し訳ありません。エディエラ様の大切なお説教であることは承知しているのですが」
失礼は承知だが、マリスに大事な用がある、外で仲間を待たせている関係上ここは自分に譲ってもらえないだろうか、
と言うようなことを話しているようだ。
「坊ちゃまのお言葉ならようございます。私はここで控えておりますので、どうぞ中へ」
「有難うございますエディエラ様」
「婆やでようございます、坊ちゃま」
「ありがとう婆や様」
「このような所まで自ら足を運ばずとも誰ぞにご命令なさいまし」
「解りました、次から気を付けます。…誰か、婆やに椅子を」
「はい」
慌ただしく人が動くのを気にもせず、ミカヅキがマリスの傍まで歩いてくる。
わーすごい、やっぱりアステの兄上様ってすっごく偉い人なんだわー。婆や様も兄上様には逆らえないんだわー。
マリスはそんな呑気なことを思いながら、その場に立ったままミカヅキの動きを目で追う。
ペンと紙を、と部屋係に言いつけ、小机に着く。用意されたそれを受け取り、椅子に掛ける。
何という事もない動作だけれど、すごく綺麗だなと思う。教師の誰もが褒めたたえる彼の所作は、こういう事かと思い、
それを自慢するアステの心を思う。
姫様は兄上様のお姿を見て、でも見るだけで、それで終わってしまうんだわ。
だから、兄上差はお美しくて素晴らしくて素敵ですのよ、と言う以外の言葉をもたないのだ。
その膝に座ったり、一緒に字の練習をしたり、そういった誰もが知らないが故に聞きたがる「アステの兄様」の話ができないのだ。
「ばあや様のお説教を中断させてしまって、すまないがマリス」
お前にこれを渡しておこうと思って、と言ったミカヅキが、マリスを見ている。
どういえばこの気持ちを解って貰えるだろう。学校にいるアステの気持ちを、ばあや様にも兄上様にも、解って欲しいだけなのに。
「マリス?聞いているか」
「あ、はいっ、聞いてます」
「こちらへ来い」
見れば、ミカヅキがたった今字を書いた用紙をマリスに差し出している。
慌ててマリスはミカヅキの傍まで近寄り、それを受け取った。
「えっと、これ」
「俺は屋敷を空けていることが多い」
そこにかかれていたのは、とある住所と、宿の名前。
「そこを連絡手段の一つにしている。それを、お前に教えておこう」
「私に?」
「いいか、もう二度と、こんなことをするな」
ああ、またお説教をされるのか。
やっていけない事は解った。誰もがあんなに怒るんだから、アステもマリスも、相当な失敗をしてしまったのだろう。
だけど、やってしまった事だ。済んだことなんだから、どうしてそれをしてしまったのか、解って欲しい。
そうでないとアステが可哀想だ。
「あの」
「これからは休学届を出す前に、まずは俺に手紙で知らせろ」
そう言われて、マリスは驚く。これがお説教ではない事、何より、あの兄上様がマリスに指示をくれているという事。
「手紙、を、…私が姫様の兄上様に手紙を書いていいんですか?読んでくれるんですか?」
「当然だ。これはお前の役目として任せるんだ。傍についているお前が、アステは冷静じゃないと思ったら」
まずお前が手紙で知らせてこい、と言った。
それを両手に預かって、ミカヅキを見る。
「手紙で済むことなら、俺から返事を出す。済まないようなら、会いに行く」
「えっ」
「だからって、気軽に呼び出すなよ。俺も忙しい。いつも国にいるわけじゃないから、即座に対応はできないかもしれないが」
そうする事でアステが落ち着くだろう、と言われて、マリスは言葉に詰まる。
マリスが、アステを止められなかった事を解ってくれているような気がした。
だから言った。
「あの、お願いきいてもらえませんか」
マリス!と、女中の誰かが窘める声。若様のお時間を取らせてはいけません、というそちらの方へ目をやって、大丈夫だ、と言ったミカヅキが
「なんだ、言ってみろ」と、マリスの言葉を促す。言葉を、勇気を、促されてマリスは一息に告げた。
「姫様にお手紙を書いてあげて欲しいんです!」
その声に、部屋は一瞬、静まり返った。
目の前のミカヅキも、意外そうに戸惑い、それから口を開く。
「手紙?アステにか?何のために?」
「ええっと、次は夜会でこんな事をする、とか、今はどんな所を旅してるか、とか、そういうお手紙です」
ミカヅキは、マリスの言う事を「子供のわがままだ」と退けずに、ちゃんと聞いてくれているのが解ったから、その後に続く言葉は止まらなかった。
「姫様は、ずっと我慢していらっしゃるけど、ご学友の方々の方が兄上様の事に詳しいんです!アステ様の知らない兄上様の話を、ご学友の方がするんですよ」
そんなのオカシイ。そんなのヒドイ。そんなの。
「姫様は、お辛いだろう、って思って私」
「アステがそう言ったか?」
「言わないです、でも!」
「そうか」
いつの間にか背後にいた女性が逸るマリスの言葉を抑えるように、そっと肩に手を置く。ミカヅキが少し、考えるような間があった。
「俺が手紙で状況を知らせてやれば、その問題は解消されるんだな?」
「あ、はい!」
「解った。 ではそうしよう」
「いいんですか?」
「それでお前たちが学業に専念できるならな」
すごい。すごいすごい。姫様の為に言った事を、こんなに簡単にかなえてもらえるなんて。
アステとの事があったから、ミカヅキは自分たちの事など一切気に掛けない人なのだと思っていたけれど、考えていた人と全然違う。
じゃあもう一ついいですか、と言う声に、再び周囲からマリスを窘める声があったが、構わなかった。
「これ、姫様に渡してあげていいですか?」
これ、と、ミカヅキに手渡された用紙を見せる。
「それは、俺がお前に役目として預けたものだが?」
「はい、解ります。だからお聞きしました。住所も宿の名前もちゃんと書き写して控えます。お役目も果たします」
ただこれは兄上様が書いてくれたものだから姫様に渡したいのだ、と言うと、解った、と言ったミカヅキが机に向かう。
同じようにアステにも書いておくから渡してやってくれ、と言われる。
ペンをとり、綺麗な模様の入った用紙に、さらさらと音を立てて書かれる字を見ながら、感動する。
わーすごいなんでも言ってみるものだわ、と思っていると、字を書きながら、ミカヅキが笑った。
「しかし、お前はなかなか度胸があるな」
「え?」
「この俺に説教する奴はそういないぞ」
「ええ?」
説教?自分が?姫様の兄上様に説教をしたつもりなんて、どこにもないけれど。
どうしてだろう?どこがだろう?
「婆や様の諭しにあれだけ抵抗するところも中々の見ものだったしな」
「ええっと、あれは」
「わ、若様…」
周囲の女性が慌てて傍により、後で言って聞かせますので、と言う事に、ミカヅキは顔を上げた。
「いや、マリスにはマリスの義があるんだろう。俺はそれを好ましいと思っている」
義?と思っていると、だがな、とミカヅキはペンを置いてマリスへと向き直る。
「婆や様に話を聞いてもらいたい時は、でも、じゃなく、では、だ」
「では?」
「では、私はこのように考えていたのですがいかがでしょうか、と教えを乞う事だな」
「教えを」
「納得できるまで話がしたいなら、それを示せば良い。婆やなら必ず応えて下さる」
母上や俺を育てて下さった方だ、お前たちにも必ず良くして下さる、とミカヅキが言う事に、部屋の向こうに控えているエディエラを見る。
エディエラはマリスの視線を感じていないように、あらぬ方向を見ていたが。
これで良いか、と言われて向き直ったマリスはミカヅキが差し出している用紙を受け取った。
「有難うございます!」
兄上様が書いてくれたものだ。姫様はきっと喜ぶ。そう思っただけで嬉しくなるマリスに、ミカヅキがほほ笑んだ。
「礼を言うのは、俺の方だな」
「え?」
「お前が言ってくれた事で、初めてアステにしてやらないといけない事があると解る」
ミカヅキの言うその意味が良く解らなかったが、「これからも妹を頼む」と言われて、勿論だ、と思った。
「はい!」
ミカヅキが立ち上がる。それを目で追っていると、ミカヅキの手がマリスの肩に置かれた。
「お前の役目は厳しいものだ。主の人生と、自分の人生、二つの責を背負っているようなものだろう」
「え?」
「まだ幼いお前には厳しいだろうが、時にはアステの心情を裏切ってでも正しい選択を迫られる、それは不条理な事もあるだろう」
だがそれこそがマリスが選ばれた証だ、とミカヅキは言った。
私が、選ばれた理由。
あなたが可愛らしいかったから、と言ったアステの顔が浮かぶ。
「今日、お前と話してみて解った。アステの為に尽くしてくれようとするそれは、十分だ」
アステの為になるように動いてくれるマリスだからこそ、それを取りあげたくはない。
マリスの行動一つが、侯爵家にとって害悪になると判断されれば、大人はそれを排除しなくてはならなくなる。
「俺はそれを大人の手で行われる事に納得が出来なかったから、自ら従者を排除した」
いつの間にか部屋が静まり返っている。
「アステも同じように考えるかどうかは解らない。だがお前の失態一つで、お前はアステの従者でいられなくなる事があるという事を」
覚えておくように、と言われて、マリスも言葉を失った。
そんなことを考えたことはなかった。
アステの侍女候補として選ばれた以上、ずっと先の未来まで、アステと一緒にいるものだと思っていた自分に気が付く。
「私のせいで?」
「うん、だが俺はアステにはマリスが必要だと思った。だから俺が出来る限り力になる」
「兄上様」
「お前がまだ幼く力が及ばない部分は俺に頼って良い」
お前たちを守ってやると約束しよう、と言ったミカヅキは、厳しい言葉を全て払拭するように優しい笑顔を見せた。
「それが、お前がマリスに尽くしてくれていることへの礼だ」
どんな時もそれを忘れるな、と言ったミカヅキに頷いた。
「もうお願い事はないか?ないなら行くぞ」
と言われて、マリスは慌ててかしこまった。
「はい、ないです。有難うございました、兄上様」
「おい俺はお前の兄上様じゃないからな」
「あ、はい、ごめ…、じゃなくて、スミマセン」
「申し訳ございません若様、だな」
「申し訳ございません、若様」
「うん、励めよ」
その言葉を最後に、ミカヅキがマリスから離れていく。
それを見送る視界の中で、女中たちに何か指示をし、立ち上がってミカヅキを見送るエディエラに挨拶をして。
ミカヅキは、部屋から出ていった。
なんだか信じられない。
守ってくれると言ったのだ。頼れと、言い、励めよと言われる事の意味。
手の中にある二枚の用紙、それは両手で持てるほどの重さではないものを含んでいる。
「若様のお言葉は、解りましたか」
と、エディエラがマリスの傍まで戻ってきて言う。
「はい、解りました」
「そうですか。では、お前も姫様の所へお戻りなさい」
「え?ばあや、…エディエラ様のお話はまだ」
「若様のお言葉以上に私から言う事はありません」
その代わり若様のお心をしっかりと胸に刻みなさい、と言われて、そうかこの二枚の紙は兄上様のお心なんだわ、と思う。
「はい、あの、姫様をお止めできなくて申し訳ございませんでした」
だからこれからも姫様のおそばにいさせてください、と頭を下げて、部屋を下がるマリスに、エディエラが声をかける。
「私の事は、ばあやで結構です」
「ええ?」
「お前はどうもまだ公私をうまく切り替えられないようなので、ここにいる間は私がしつけます。良いですね」
母上と俺を育ってくださった方だ、と言ったミカヅキの言葉。
そしてアステから聞かされていた「ばあや」の話。
そして目の前にいるエディエラの、老いてなお美しい佇まい。
「はい、どうかよろしくお願いいたします、ばあや様」
マリスはできるだけ学校で習った美しい最敬礼になるように、丁寧に頭を下げた。
宜しい、というエディエラの言葉に、体を起こす。
「早く姫様にそれをお渡しして差し上げなさい」
「はい!」
言われて、もう何も考えずに回れ右、ドアに向かって一直線に走る。
「これ!駆けるとは何事ですマリス!ああ、もう…」
ドアを開けて、廊下に飛び出した背にばあやの声は届かず。
マリスは、アステの待つ部屋を目指す。
ミカヅキの心を届けるために。