先から降り続いていた長雨が、やっと上がった。
天上から洗われたように空気は澄み切っていて美しい。
午前中の退屈な講義をようやくの思いで終え、レグルスは、学び舎を出て足早にその場所へと向かった。
王立の全寮制であるこの学校は、王侯貴族や富裕層の子弟が多くを占める。
伝統や家の格付けの為に通わせるのが習いではあるが、無論、学の高さでも国内随一の学校である。
このレグルスも例外ではなく、政治学、経済学、兵学、軍師学、など、王侯貴族の子弟として必須である学科を専攻させられ
まったく味気ない学生生活を送ってきたものだが、唯一、植物学という癒しの学問に出会い、
以来、留年に留年を重ね、この学校にとどまっている。
有難いことに、二親のみならず親類縁者すべてに見放され、そのまま学校から出てくるなとまで言われているので、
心置きなくここに骨をうずめるつもりだ。
校舎のそこかしこにある午後の喧騒をかき分け、目指すその場所は、広大な敷地の片隅にあった。
誰しも、特に用もなければ訪れないという場所は多い。
人が来なければ施設はおのずと閑散とするものだが、そこは、学舎の職員たちにさえ忘れられているかのような有様だった。
まさに、最奥の廃園、とでもいうかのような荒みよう。
それがまた自分にはひどく落ち着ける場所であり、学問の面からもあらゆる興味を提供してくれる庭である。
人の手が行き届いていた頃には美しい庭園であったのが容易に想像できるほどには姿を留めつつ、
人が手を入れるには躊躇うほどに、所有権は、完全に植物たちへと取って代わられていた。
座って休める石造りのベンチさえも苔におおわれている緑の廃園。
そこで植物の生態観察に没頭する事が、レグルスの唯一一人になれる時間ではあったが。
この日、その廃園には一人の邪魔があった。
その生徒は、突然現れた人の気配に敏感に振り向き、驚いたように動きを止める。
レグルスにとっては「邪魔」以外の何物でもない存在ではあったが、当然それを口にできるはずもない。
ここは学び舎、レグルスの所有地ではない。
ので。
「ごきげんよう」
と、当たり障りのない笑顔で挨拶をする。
よほどの奇人変人でもなければ、留年をしてまでとどまっている自分より下の者だ。ここは年長者としての余裕を見せる。
そうして見せることで、大概の者は警戒心を解く(あるいはそのフリをして)歩み寄ってくるものだ。
彼も例外ではない。
ごきげんよう、と、はにかむように帰ってきた声はか細い。
この距離では会話もおぼつかない、と思い、レグルスも彼に歩み寄る。
「ここで人に会うとは珍しい」
こんな場所を好む奇特な人物は己くらいだと思っていました、と笑みを向ければ、私もです、と笑顔を見せる。
なるほど、人知れず忘れ去られた場所と言うものは、それなりに需要があるらしい。
午後の講義は放棄するのか、と尋ねかけ、そういえば彼には不要な講義だったな、と思い至る。
彼のことは、見知っていた。
ルガナ伯爵の次男、名をクルシス、といったか。
病弱であるため、貴族には必須な戦術や剣術、馬術、といった体を使う学科ではほぼ見学をしているので、いやでも目立つ。
本人がそれを気にしているとはいけないと気を使い、別の話題を、と考えた矢先に。
「レグルス様も、午後の講義はさぼりですか」
と、わざと俗っぽい言葉を使ってこの状況を笑い話に持っていこうとする。
そういう所は悪くないな、と、レグルスも方頬をゆがませて見せた。
「お互い、戦場の案山子ではたまに抜け出したくもなりますな」
思った通り、このつまらない揶揄に、彼はさわやかに笑って見せた。
レグルスが彼を見知っている以上に、自分のことは知られているらしい、とレグルスはクルシスに警戒を解いた。
思えば、知られている方が当然、自分は変わり者で有名だ。
クルシスの見学を云々言うまでもなく、やる気のない自分の運動系での悲惨さは、授業において「端に除けておけ」と
放置されているくらいだ。
やる気もない習うこともない仮の戦場で突っ立っている棒では、見学より質が悪い。
お互い、午後の講義に出席することをすっかり放棄しているというのが解って、レグルスは彼と話してみようという気分になった。
「クルシス様は、いつもこちらで何をなさっておいでか?」
率直にそう尋ねたのは、先の経験から、クルシスならば場を気まずくさせるような発言は華麗に包み隠すと思ったからだが。
「ああ、私は人との待ち合わせに」
という、なんとも不穏な話題を持ち出してきた。
それがどういう意味合いであれ(政治的にしろ、色恋沙汰にしろ)個人的にはあまり立ち入りたくない話題だ。
「おお、それは気づかずご無礼」
と、大仰におどけて見せ、では私は初めからここには立ち入っていないことにしよう、と道化者よろしく、舞台から退散するそぶりを見せれば
意外にもクルシスが、慌ててそれを止める。
「いえ、いいのです!今日は、どうも都合が合わないようなので」
と言い、自身の後方、斜め下の方向を指さす。
クルシスが指したそこ、茂みの低木の枝先に、明るい緑色のレースが結んであるのが見て取れた。
レグルスはその光景に、あんぐり、と口を開けたまま、ああ…、と生返事をするのが精いっぱい。
それを、応、と受け取ったのか、そういうことですので、とクルシスはレグルスに気にしないよう促しておいて、
その低木の方へ足を向ける。
その後姿を見ながら、なんとまあ…、とレグルスは嘆息する。
なんとまあ古風で幼稚な色恋沙汰か、という思いやら、それを隠さないクルシスの不可解さやら、
この廃園の常連でありながら今までそんな仕掛けに気づいたこともない己の愚鈍さやらに、呆れたような、感心したような。
何とも言いきれない思いを抱えながら見守っていると、レースをはずしそれを軽く折りたたんで上着のポケットにしまいこんだクルシスが
何事もなかったかのように平然と、草を踏みながら戻ってきた。
「あー…、クルシス様、いつも連絡手段はそのように?」
と、口を出た言葉にレグルス自身が動揺する。踏み込んでどうする!!という焦りはあったが、クルシスは気にならないようだ。
「はい、構内ではなかなか接点がないので致し方なく」
もう変に引き返すことができなくなって、ただ相手に合わせるしかない。
軽く咳ばらいをし、年長の余裕を装う。
「それは…、忍ぶ恋ですなあ」
何を言っているのか。
とレグルスが己の失態に天を仰ぎたくなれば、それを見たクルシスが、唐突に笑いだした。
「違う、違いますよレグルス様。そのような関係ではありません」
あの方は高貴な姫なので、と前置き、外聞をはばかって受講できないような科目を自分が受け渡しているのだ、と説明する。
外聞、とつぶやけば、理数系が、特に物理に興味がおありの様です、とクルシスは続けた。
「成程、それは確かに、姫君には稀な興味ですね」
「ええ、とても聡明な方です」
その言葉は静かにレグルスの胸に落ちる。
成程、忍ぶ恋なのか。…相手に。
それはまた自分には無縁のものだな、と近くなったかのように感じていた彼の存在が、またわずかに遠ざかったのを知る瞬間だった。
「レグルス様は、こちらで何を?」
そう、無邪気に問いかけてくるクルシスの声に、我に返り。
「ああ、私は植物学を専攻しているので」
と自然に口を出た言葉で、ようやく自分を取り戻すことに成功した。
「植物学…」
クルシスにとっては聞きなれない学科か、それもまあ仕方がないことだ。
そんなことよりも、レグルスには自分の領域に話題が移ったことで一息つけるというものだ。
「数日前からの長雨があがって、しばらくぶりに植物たちの様子を見に来たのですよ」
「では、ここは、植物学が所有している場所なのですか?」
という問いには笑って見せる。
確かに人目を避けて待ち合わせる彼らには、植物学の人間が頻繁に立ち入りをするかどうかを知る方が重要だ。
「いいえ、私の気まぐれです。人の手が入らず自生する植物を知る場所の一つですよ」
学科で所有する植物園は他にいくつかありますが、あれらは研究の手が入っているので、と説明すれば、ただ頷いた。
「そうですか、研究の邪魔をしてしまっているのかと申し訳なくなりました」
邪魔、という響きに、レグルスは緑の方からクルシスへと視線を戻す。
そういえば、自分も初めここで彼の姿を見つけた時、邪魔、という言葉に囚われたのではなかったか。
だが何故かクルシス自身の口から放たれたその響きには、胸を突かれるような感じがあった。
「いやいや、クルシス様。邪魔などという事はない。人も自然の一部です。この廃園に邪魔をする道理はないでしょう」
レグルスの言葉に聞き入り、自然の一部ですか、とほほ笑む。
病弱という情報と影の薄い印象とが相まって、ひどく寂しげに聞こえる。
彼は生まれた時からそれを背負って、あるいは囲われて、そうして生きてきたのかと思われる。
「もちろんです。人が邪魔だというなら、我々はとっくに植物たちに追い払われているでしょうからね」
彼の陰ある部分には目をやらないようにしながら、レグルスは静けさに急かされるように、植物たちの生態を語って聞かせた。
温帯で、湿地帯で、熱帯で、乾燥地で、植物たちはそこにあるがまま、ただあるべき姿であるだけだ。
その地に適応し、環境に順応し、姿かたちを変えながら繁殖を続けていく生命力。
それに惹かれて自分は植物学にのめり込んでいるのだ、と話してやれば、興味深そうにそれに耳を傾け、感じ入ったように頷く。
「この葉などは実に面白いですよ。とにかく隙間がないほどに茂る。己の葉で下の方などは光が届かないほどです」
と、足元の低木を指し、葉をかき分けて見せる。
「そのため足元が弱り腐ってしまう、そうすればやがて自分も倒れてしまう、そういったことを長い年月かけて克服したんでしょう」
この葉は自分で適度に穴を作るようになった、と穴あきの葉を示せば、クルシスが驚く。
「虫に食べられてしまったわけではなく?自分で?」
「そう、このような形が望ましいと、植物自身が判断したんでしょうね。面白い選択ですよ」
この大きな穴から光を通す。そうして下草たちとも共存している。弱く愚かでは生き抜けない自分を作り変えて今の姿がある。
「太古より進化を続けて生き残ってきたものたちが、今のこの廃園での姿なんですね」
素直なクルシスの言葉に、レグルスは自然、心が躍るような感動を覚えた。
自分が植物に魅せられる理由、この廃園を愛する事実、それらを柔軟に受け止め、理解してくれる人間がどれほどいただろうか。
それはきっと、この学び舎において我々二人は王侯貴族たちとの距離を抱えているため。
彼は体の弱さから、そして自分は心の弱さから。
心と体が、勇ましさと言う成分を失っているから強くあることができない、そういう意味でなら我らは同士だ。
同士だ、と一方的にレグルスが感じているだけの事かもしれない。それでも、クルシスの理解はただ喜ばしかった。
だからこそ、彼から目をそらせなかったのかも知れない。
「人も、植物も、弱いものは生き残れないというのは同じですね」
その小さな本音から、目をそらすことができなかったのだ。
廃園に訪れた沈黙、それは時の流れを感じさせないほど永遠にも似た静寂。
ほんのわずかな間であったのだろうけれど、それほどに冷えた沈黙は一瞬にしてこの廃園に満ちた。
それを払拭するように、口を開いたのは、やはりクルシスが先だった。
「どうして神は弱いものをお創りになったんでしょうね」
先ほど、レグルスが自分たちの立ち位置を揶揄するのと同じ様に、軽い口調でさらりと放ったそれはしかし、
今度はうまくいかなかった。
再び、沈黙が訪れる。その矢先、レグルスは口を開いた。
「きっと、神が弱き者を必要とされたからではないでしょうかね」
それはレグルス自身が抱えていたものだったのだ。
問いという形にならないものに日々煩わされ、そうある自己から目をそらし、逃げるように生きてきたレグルスの抱えていたもの。
「必要?生き残ることができないのに、必要、とされるのですか?」
「ああ、生き残る、とは何でしょうね、クルシス様」
命あるものは、全て時とともに無になる。どんな強い存在もそれを覆すことはできない、そう言うレグルスにクルシスが頷く。
それを見て、レグルスは廃園へと目をやった。
「あなたも、私も、いつか土に還る。私たち自身のまま、この世界に残ることはできない」
それが理。
それでも。
それでも生きた証が残る。人の記憶に、あるいは記録に。生まれてから死にゆくまでの行動、感情、影響、そういったものが残る。
「それこそを、生き残る、というのだと思います」
残ったものを継いでいく。次の世代が、その次の世代へ、脈々と受け継がれていくのは個人という単位では測れない、人としての生き様。
「だから命あるものは子を産むのでしょう。生き残りをかけて、はるか先の未来までつないでいくために、子を成すようにできている」
「子を成せない弱き者は?」
「それは仕方がない。だが人は文明という社会に生きている。子を成せない者にも自己を残す手段はいくらでもある」
自己を発信し、他人に伝える。他人を育てる。知識で、技術で、感情で、他人を動かし、他人の記憶に残る。文字があり、芸術があり、創造がある。
我々が文明を手に入れたのは、神の許しであり、試されているのだと思いませんか、と振り返れば、クルシスは複雑そうに首を傾げた。
「神は世界を創り、人を創られた。それはより善きものを願っての祝福でしょう。神の望む良い世界であるように、人は生かされている」
何が善きことで、何が悪しきことなのか、世界の終焉の時まで神は采配を振るわない。
全て命あるものたちに委ねられている。
「だからこそ、強き者ばかりでなく、弱き者が必要だと思われたのではないでしょうか」
強く勇ましく全てを勝ち抜き勝利のみで埋め尽くされた世界では、争い事の果てに滅びの道しか見えない。
弱き者のみが持ちえる視点、弱き者だからこそ成しえる功績、そういったものがより良い世界を創っていくためには必要だ。
「強い者が善いばかりではないように、弱いものが悪いばかりでもないのでしょう」
「弱いものにも、役割がある?」
「私は、そう思います」
強くしたたかに繁殖していく命。
地表を覆いつくし繁栄を誇っていても、他の侵略にあう。命は生きるために戦いを続けている。
ただ生きるために。そこに理由などない。
「私たちは時として感情的に忘れてしまいがちだけれど、生きるために命はある。ただそれだけの事を守り抜けばいい」
そうして生きた証を伝え、遺し、次なる命の糧になる。次の世代たちが戦うための大いなる武器として、使命を果たす。
それが弱いか強いか、長いか短いかなどの不平等さはない。
等しく、大いなる記憶の一部になる。
「神が植物や動物、人や環境などを公平に創られていないのは、きっとそうすることが命にとって必要だからだと判断されたのです」
それに是非は唱えない。
自分はもう存在している。存在している以上、成すべきことを成すしかない。
「だからクルシス様、あなたも私も、勇ましくないことにこそ重大な意義がある」
そうして語り終えたレグルスに、クルシスは柔らかい笑みを見せた。
「兵術の講義では案山子でしかないレグルス様が、この廃園では私に希望を授けてくださることに意義があるんですね」
「そうですとも」
希望、と言ってくれた。
そうだ、あなたは必要とされている。あなたのその思考が、感情が、経験が、命にとって必要であるから、この世界に存在しているのだ。
「レグルス様にそのような光を教え授けてくださったのは、どなたなのですか」
と、訪ねてくる声に、あの寂しげな響きはない。
この場が、わずかでもクルシスに安らぎを与えられたというのなら、自分もまた必要とされそれを成しえたことを誇りに思える。
レグルスは、廃園に向き合った。
「植物学であり、植物の生き様そのものに、です」
それが、クルシスとの出会いだった。
あの日から、クルシスがどこぞの姫君と気兼ねなく過ごせるように気を使って、なるべく、あの廃園には足を運ばないようにしていた。
別にクルシスを避けていたわけではない。
確かに、らしくもなく熱弁をふるった己自身に対してのいたたまれなさに向かいあうのが嫌だった、というのは、ない、とは言わないが
クルシスと顔を合わせるのが嫌だったということはない。
それまでもクルシスとの付き合いはなかったのだから、日常で彼と行動が被さるということもないのが当然で、そう、避けているわけではないのだ。
などと、自分に言い訳をするかのように日々を過ごしていたレグルスは。
「植物学の教授は、こちらにいらっしゃいますか」
と、植物学科の教授室のドアを開けて姿を見せたクルシスに、心底、驚いた。
「おや、レグルス様。こちらでしたか」
「あ、ああ、クルシス様、…ごきげんよう」
「ごきげんよう」
「教授なら今日は、薬学部へ研究報告に出向かれていますよ」
内心の動揺を隠しながら、そう伝えると、そうでしたか、とクルシスが頷く。
廃園での振る舞い、自分に酔っていたかのような熱弁を思い出すと未だに顔から火が出そうなほどだが、クルシスのそのなんでもなさそうな顔をみれば、
ただの自意識過剰だったようだ、と冷静になれた。
いつも植物とばかり対話しているから、他人に理解を示してもらえただけで舞い上がっていたようだが、よく考えれば人は人と対話して理解しあうものだしな、と
自分が滑稽になり。
「クルシス様は、教授にどのような御用です?」
と、朗らかに対応すれば、クルシスもそれに笑顔を見せた。
「はい、明日から植物学を受講させていただく許可がおりましたので、ご挨拶に参りました」
「ほお、それはそれは…、え?それは?…ええ?!」
「明日から同じ授業ですね、よろしくお願いしますレグルス様」
自分を弱き者、と自嘲していた彼は、どうしてなかなか大胆な行動をする人物だったようだ。
大胆な、とは、まあ思い返せば、高貴な姫に物理の授業内容を受け渡したりしている時点で解り切っていたようなものじゃないか。
と、レグルスは己の鈍さに、苦笑する。
レグルス様にお話を頂き、自分もぜひその植物学を通して生き方を学びたいと考えた、と言って植物学科を専攻したクルシスは次に、
噂の姫君を紹介します、などと言って、廃園でこともなげにレグルスと引き合わせるという行為に出た。
ああ、なるほど、確かに高貴な姫君だ。と、レネーゼ侯爵家の一人娘である姫を見た時には、もうクルシスの性格は大体把握していた。
病弱であるがゆえに大事に大事に育てられ箱入り息子状態の彼は、それゆえの怖いもの知らずだ。
高嶺の花、という意味合いの揶揄で高貴な姫君、と言っているのかと思いきや、本当に高貴な相手だったと対面で知らされたレグルスの立場も
ちょっとは慮って欲しいものだが。
忍ぶ恋、などという言葉が馬鹿馬鹿しいほどに、二人は仲睦まじく見えた。
姫君も、クルシスが信頼を置いているのであればと言って、自分にも分け隔てなく接してくるのには、恐れ入るしかない。
人当たりの良いクルシスとは反対に、その表情や行動からは人形のようにつかみどころのない姫君ではあったが、自分たちは3人で廃園に集った。
何気ない日常、限りある学校生活は、クルシスが卒業するまでそんな形で続いた。
彼の卒業後、3人で顔を合わせたのは、クルシスと姫の結婚式の日。
これからは侯爵家の敷地にある小さな館で家族として暮らすのだ、と嬉しそうに語ってくれた笑顔は今も忘れることができない。
貴方のおかげです、としきりに言っては、私たちに子供が生まれたらぜひ植物学の教師として訪れてくださいね、と念を押していた。
それから、彼には会っていない。
自分もクルシスも、社交界などという場へ出向くような質ではなし、子供が生まれたことを風のうわさで聞いていたくらい。
そのうち盛大な祝いをもって駆けつけねば、と思っているうちに、時は風のように過ぎ去ってしまった。
彼は、風のようにこの世をさってしまった。
それからレグルスの周囲は一変した。
植物学の権威として学園に骨をうずめる、などと思っていた過去さえも抹殺されるかのような勢いで、伯爵の称号を継いだ。
そこにレグルスの意志は必要なかった。
ただただ王の勅命によって、レネーゼ侯爵家次期後継者の父となった。
ただ広く寒々しいほどに豪奢な部屋で、人形のように座している母親と息子を見ても、彼の面影が重なることはなかったが。
「クルシスが信頼を置いている人物なので」
という、一片の感情もなく発せられた言葉に魂をつかみ取られ、自分はここに骨を埋めるのだと悟っていた。
あれから、自分には何ができただろうか。
クルシスの月命日には必ず墓所を訪れ、ただただ沈黙の時間に身を置く。
沈黙に、あの廃園での自分の振る舞いを思う。
まだ十代の後半ほどしか生きていない彼に、命の意義を語った。
神に必要とされているのだ、と彼の弱さを肯定し、それこそが使命なのだと、在り方を説いた。
説いたつもりだった。
植物に習い、植物のありように感銘を受け、自分もそうあるべきだと命に心酔していた若かりし日のレグルスの、
生涯で最初で最後の生徒だった。
神の御許へ近くなった彼は、あの日のレグルスの言葉に、あれはお前の思い上がりだと言い返してくれないものか、と、
それだけを期待してここで沈黙にたたずむ。
それはただのレグルスの感傷だという事も解っている。あの時にはあれがレグルスの善だった。今もそれは変わらない。
自分だけが時を重ね、若い日の未熟さを思い返すことを分かち合えないことが、ただ堪える。
それでも、あの日に言ったことなら一つだけ訂正しよう。
命の終わりは、無ではない。
無ではないと思い知らされる。
果ててなお、続いていく使命。今を生きるものたちに、ただ命の限り生きよと訴えかけてくるこの事が、無であるはずがない。
死に向かい合い、レグルスの中に沸き上がり生まれてくるものがある限り、それは今なお生きて満たされる命。
「命とは、生き残ることだ」
そう呟いてみる。
応えはない。
この美しすぎる墓地には、沈黙は無意味だ。
あの日廃園を満たした沈黙は、覆いつくす苔と低木の茂みとツタの絡まる巨木たちが包み込んでくれいたからこそ、満ち足りた。
ここを沈黙で満たすには、あまりにも開けすぎている。そう思い、目線を巡らせば。
こちらへと向かってきている貴婦人の影があった。
遠い日の廃園に佇んでいた姿のまま、今は自分の奥方として立っているその人を見る。
「ええ、と、…ごきげんよう」
「ええ、ごきげんよう」
互いの姿を認めた以上、その場から立ち去ることもはばかられて、レグルスは彼女を見守るように身を引く。
それを受けて、彼女は何もいわずその場で立っている。
レグルスと彼女との距離は、初めて対面したときから一切、変化がない。
こうなってみれば良く良く解る、互いにクルシスを介しての付き合いだった。
その一角を失って、自分たちは互いにどう向き合っていいのか解らないまま、今日までやり過ごしてきただけだ。
「…あー、その、本日は、良いお日柄で」
「ええ」
「クルシス様も、お喜びのことでございましょう」
「……」
「…ではワタクシはこれにてお先に失礼つかまつります」
「お待ちになって」
「はい、では仰せのままに」
先の沈黙とはまた別の沈黙が伸し掛かる。
そそくさと立ち去ろうとしたレグルスは、思いもよらないこの場の展開に、救いを求めるようにクルシスの墓石に目をやる。
それと同時に、彼女が口を開いた。
「ルーシーがいないと会話もままなりませんわね」
それは、しばらくぶりに彼女が彼の名を呼んだ瞬間だった。
あまりの懐かしさに、こみ上げてきたものを飲み込む。
彼女はそんなレグルスに目を向けることもなく、静かにつづける。
「子が出来ました」
「はあ、そうですか」
と何気なく相槌をうち、その言葉の意味を考えて、驚愕する。
「え?今なんて?!」
「貴方に申し上げているのではありません。わたくしは、ルーシーに報告しているのです」
「…あ、はあ、そうですか」
こちらを一顧だにしない、それ以上取りつく島もない様子に、レグルスが再び沈黙を守っていると。
しばらくしてまた彼女が口を開く。
「…貴方はそれに対して何か申すことはありませんの?」
などと墓石に語り掛けている様子は、かなりシュールだ。
いやー無理でしょう墓石は喋らないでしょう、と、先ほどまでの自分の事は棚上げして、彼女の動向を一歩引いた目で見ていると。
「貴方に申し上げているのですわ」
と、レグルスを振り返り、強い口調でたしなめる。
「あっ、ああ、わたくしにでしたか、そうですか」
なんだこれは。
と、彼女の言動に振り回されている一連の流れをレグルスなりに考えてみる。
そうか、彼女はクルシスがいた時と同じように、クルシスを介してレグルスと会話しようとしているのか。
なんと、難儀な…。
とは思ったが、彼女がそれを望んでいる以上、気のすむまで付き合わねば解放されそうにない。
ここは仕方ない、と彼女の言葉を反芻し。
「…子ができたそうですよ、クルシス様」
とつぶやけば。
「それはわたくしが先に申し上げました」
と再びたしなめられる。しかし、それに怖気づきながらも、レグルスが自分で口にした言葉には重みがあった。
ああ、そうか、私の子ができたのか。
それはなんとも複雑な気分だ。
妻も娶らず、称号も継がず、ただ飯食いとして実家の資金を頼りに、植物学の廃園で果てようと思っていた自分に、まさか子ができるとは。
いや、それを求められて侯爵家に婿入りしたのだから、自分は立派に務めを果たしたという事か。
そうか、これで役目から解放されるのか。そう考えたことに、一抹の寂しさを感じる。
寂しさを感じた自分に、驚いた。
「子が、できましたか…」
もう一度、口にする。
今度はもう、彼女も何も言わなかった。
レグルスはまっすぐクルシスに向かい合うように、姿勢を正す。
「私が名を付けることを、お許しくださいますか」
なぜ、そんなことが口を突いて出たのかはわからない。
ただ漠然と、クルシスを思い、彼の残した幼い一人息子を思い、隣に立つ彼女の気持ちを思った。
思っただけで、どれ一つ正解の得られない不確かさではあったが。
「私からお願いしようと思っておりました」
そう言った彼女の横顔は、静かに何の感情も表しはしなかった。
だから、そっと目を離し、もう一度、クルシスの墓石を見る。
「新たな命は、希望です」
クルシスに、彼が愛した彼女に、言い聞かせるように、ゆっくりと言葉をつなぐ。
生きた証をつないでいくものが、命。その思いはずっとレグルスの中で変わらない。未熟であろうともあの日のまま、守り続けている事。
「喜びも悲しみも、生きて経験したことの全てが、次の命の糧になる」
命を導く、多くの印となるように。
彼との友情も、信頼も、培ってきたすべてを注ぎ込んで、希望の光を掲げていく。自分は陰で良い。
子供たちが光の道を行くために、自分は迷いなき陰であり続ける。
「クルシス様の生きた証を受け継いだこの身を、次なる命に捧げましょう」
そのレグルスの決意。
初めて親になることを自覚した決意を、隣で聞いていた彼女は、少し考え込むようなそぶりをみせ、軽くあしらった。
「ルーシーが生きた証を受け継いだのは、わたくしではなくて?」
と、墓石に語り掛けている姿に、人生初の責任を負う覚悟を決めたレグルスは、あっけにとられる。
「え?はい?」
「ルーシーなら、出過ぎた真似をしないようにと言っているのではないかしら?」
「……」
それはつまり出過ぎた真似をするな、と彼女が自分に言っているのだ。
「ええ、出過ぎた真似を改めたいと思います、クルシス様」
私は何か勘違いをしていたようで、と続けるレグルスを遮って、彼女が口を開く。
「レグルス様はルーシーが信頼を置いた方ですわ」
その言葉に、思わず彼女を振り向く。
何度、この言葉を聞いただろう。彼女の、自分に向ける言葉は、これまでの時間の中でもたった一つ。
ずっと変わらないでいる言葉。
レグルスの視線を横顔で受けながら、彼女はわずかに目を伏せた。
「希望を授けてくださることに意義があるのでしょう」
それは忘れもしないあの日、クルシスが喜びを溢れさせながら、レグルスに言った言葉。
それが、満ちていく。
彼を失った心は廃れ、自分でさえも手付かずになって誰も踏み入れない空っぽの園に、その言葉が、静かに満ちていくようにレグルスには感じられる。
ただ、ただ息をのむ。
「それが植物学だと、ルーシー、あなたは言っていたわね」
彼をいつくしむ声音、それが示しているのは、レグルスには植物学という役目があるのだという事。
そうだ、レグルスが言ったのだ。
弱き者には弱き者として必要とされる役目がある。
王侯貴族がひしめくこの勇ましの世界で生きることから逃避した自分を肯定する為だけにいった、若い言葉。
それを貫けと、彼女は言っているのだ。
それをしてこそ、己の生き様を示せと、クルシスが言っているのだ。
レグルスは、勇ましの場に身を置いた彼女の二人分の覚悟を受け止め、今一度、姿勢を正すほかない。
圧倒的な格の違いを彼女に突きつけられ、それでも卑屈にならず胸を張っていられるだけの言葉を、今二人から贈られた。
「子らが迷った時には、いつでも廃園にお招きしましょう」
そう返せば、今度こそは、正しく彼女の納得を得られたのだろう。何度目かの沈黙があり、二人でそれに身を委ねることができた。
言葉は多くを語らない。
沈黙だけが、ありとあらゆる感情を含み、静かに、静かに満ちていく。
満ちて、満ち足りる。
一人ではこの場を満たすことのできない思いも、隣に誰かがあるだけで、沈黙は雄弁になる。
今初めて知ったそのことも大切に胸に抱えながら、レグルスは彼女を振り返った。
「子がある身では長く立ちっぱなしもいけない、良ければ私が送っていきましょう」
むしろ送らせてほしい、と、レグルスにはらしくもなく彼女をいたわる気持ちがわいてきたというのに。
相変わらず、レグルスを見もせず、彼女はクルシスの墓石に語り掛ける。
「ルーシー、この方の無骨なところはいかがなものでしょう。同じ館に住まうのに、送る、などというのですわ」
まったく、心底、難儀な女性だ。
仕方なくレグルスも、墓石に向かって言葉を放つ。
「それではルーシー、私たちは今日の所はこれで帰るとするよ」
私たちは、の所をことさら強調して伝え。
「また来月」
と、一か月後の訪問を約束する。
「次は二人一緒にね」
そう付け加えたことに、驚いたような彼女は、レグルスの視線があうと何も言わず、そっと目をそらした。
否定されなかったので、片腕を差し出してみれば、それに掴まって彼女は歩き出した。それに、黙って従う。
自分たちは、ゆっくりと一歩ずつ、前に向かって歩き出す。
彼の生きた証を受け継いだこの身を、それぞれの世界に捧げるために。