海外流出続くアニメ産業
無策が生んだ若手不足
- 2006年8月30日 水曜日
- 伊藤 暢人
「となりのトトロ」「千と千尋の神隠し」などのヒット作を生み出してきたスタジオジブリ。だが、この夏休みに公開した「ゲド戦記」の興行成績は、 伸び悩みぎみだ。7月29日の公開から8月20日までの興行収入は53億円、動員数は420万人で、興行元の東宝は「夏の邦画の中では最高ではあるが、 『千と千尋』に比べれば6割程度の水準」と言う。
「業界関係者はジブリなら100億円は堅いと見ていたが、それは難しそう。興行実績に対する期待が高すぎたとも言えるが、観覧客からは『内容が期待外れだった』との声も聞かれた」(日経エンタテインメント!編集部)という。
伸び悩んだ「ゲド戦記」
この作品では、「千と千尋」などで世界的に著名な宮崎駿氏の息子、吾朗氏が初めて監督を務めた。「ゲド戦記」の伸び悩みの背景には、細部にわたり 徹底的に自らチェックする駿氏のような異才がいなければ、世界の衆目を集める作品を生み出せなくなりつつある日本のアニメ産業の弱体化があるのかもしれな い。
経済産業省が「先端的な新産業分野」と位置づけている日本のアニメーションは、実際には海外の会社の力も借りて制作されている。「ゲド戦記」で も、透明のフィルムに絵を描いた「セル画」を彩色する作業の一部などを韓国の会社に発注した。「我々の要求を満たす技術と能力を持っている。『千と千尋』 以降、この会社との関係は広がっている」(スタジオジブリ)と言う。物語の背景から、登場人物の心情などまでを十分に理解し表現できる人材の確保が国内で は難しくなりつつあるようだ。
その半面、日本ではテレビのアニメ番組がブームとなっている。業界団体の日本動画協会によれば7月段階で東京地区では1週間に103本が放映され ており、本数ベースでは過去最高となった。しかし、山口康男事務局長は「DVDの販売を主眼に置き、深夜放送向けに番組を作るケースが増えている。だが、 DVDの値下がりが激しく、有名な作品以外はほとんど赤字」と指摘する。
マニア向けにDVDを制作し、広告の代わりにそのアニメ番組を深夜テレビで放送する。1990年代末から日本のアニメが世界で注目を集めると、こ うした収益モデルが盛んに活用された。だが、ここにきてマニアがこの手法から離れているにもかかわらず、いまだに番組数だけが増えている。
そもそもこの収益モデルを支えたのは、海外とデジタル化を活用したコスト削減だった。セル画は1秒間に8~24枚が必要となり、30分番組では約 4000枚を要する。その彩色工賃は国内では1枚150~200円程度と言われるが、中国や韓国に出せば人件費だけを見れば10~20%に抑制できるとい う。日本からの受注が増えるに伴い、中国や韓国では施設整備などの産業支援に乗り出して技術水準を引き上げ、作品の出来映えを左右するセル画の輪郭や、セ ル画の元になる絵の作成などまでも請け負うようになっている。
2000年代に入るとデジタル技術によりさらにコスト低減が進んだ。手で描いた基本的なデザインをコンピューターに読み込んだり、デザイン自体を コンピューター上で描く方法が普及した。セル画を1枚1枚描き彩色する手間がなくなり作業効率は高まる。国内ではほとんどの制作会社がデジタル化に対応し た。
その結果、何が起きているか。アニメ制作の現場では、細かいノウハウを身につけた若手の人材不足がますます深刻化している。
日本の有力制作会社で、唯一従来の方法を守っているのは、今年38周年を迎える長寿番組「サザエさん」を制作するエイケンだけだ。この番組ならで はの「日本的な味」にこだわり、東京都荒川区の本社では、約50人の社員が今でも手作業での制作を貫いている。この番組の制作に携わっているのは、社外の 協力者も含めて合計約130人だが、人材の入れ替わりがほとんどないという。
手作り続ける「サザエさん」
エイケン制作部の田中洋一次長は「海外で制作すると、微妙な色合いが日本と異なることがある。だから日本での制作を守りたいのだが、ゲーム産業などに取られ若手はアニメ産業になかなか入ってこない。国内でいつまで人材が確保できるだろうか」と嘆く。
同社では、セル画に輪郭を描いたり、彩色したりをすべて手作業で行うのが基本方針。通常の放送だけなら何とかこの方針を堅持できる。
ところが、特別番組で放送回数が増えたりすると、一部の協力会社がまれに海外の業者を使う。納期を守るために、エイケンはその動きを黙認せざるを 得ないという。このままでは関係者の高齢化が進み、国内での制作に支障が生じることを危惧し、昨年エイケンは採用活動に本腰を入れ、若手7人をやっと新入 社員として迎えた。
こうした人材確保の障害になるのは、「アニメ業界は賃金が安い」という偏見にも近い既成概念だ。確かに出来高払いの制作会社で、不慣れな新入社員 が月給数万円しか受け取れないケースがあり、そればかりが目立っている。エイケンでは正社員として一般中堅企業並みの待遇で採用しているのだが、「本人が 就職を希望しても、家族らが『アニメ業界は悲惨だ』と言って断念させるケースが多い」と田中次長は悔しがる。今年は残念ながら採用はゼロに終わったとい う。
日本動画協会の山口事務局長は「この業界でも1000万円以上稼ぐ人材がいるのだが、残酷話ばかりが広まり、人材確保や育成などの対策は進んでいない。このままでは国を挙げて振興を図っている中国や韓国に逆転されかねない」と危機感をあらわにする。
こうした状況に対し、腰を上げたのは東京都杉並区だ。国内のアニメ制作会社約430社のうち71社が区内にあり、「世界有数の集積地」と自負する。今年4月には、従来の組織を改変し地方自治体で唯一の専門係である「産業振興課アニメ係」を設けた。
人材育成と、制作会社と若手人材のマッチングの両方を狙い、2002年度から「杉並アニメ匠塾」という研修を始めている。区が制作会社に協力費を 支払い、毎年公募によって選んだ若者3~8人に対する6カ月間の研修を委託する。昨年度までに19人が修了し、その半数が区内の制作会社に就職した。
杉並区の本島健治アニメ係長は「偏見を取り除くには現場を知ってもらうのが早道。この産業に就く若者がいなくなれば杉並の地場産業であるアニメが衰退する」と焦りの色を見せる。
セル画はやがて貴重品に
東京都世田谷区の長谷川町子美術館は、アニメ番組「サザエさん」の原画などを展示している。ここでの夏の風物詩は、週末(今年は9月3日まで)に 来館客を対象に開くじゃんけん大会だ。最後まで勝ち残った勝者にプレゼントされるのは、実際のテレビ放送で使ったセル画だ。それを目指して毎回40~50 人が参加するという。
次世代産業と持ち上げながら具体的な人材育成策を打ち出せない政府、劣悪な労働条件で若手を使う一部の業者、それを放置する業界など、問題は複雑 に絡み合う。ただ、このままアニメ業界に入る若者が減り続ければ、いつか国内のアニメ業界は衰退し、この美術館でもセル画のプレゼントがなくなるかもしれ ない。
日経ビジネス2006年8月28日号12ページより