私が子どもの頃から渇望し続けたことは、母から理解され受け入れられることだった。今そう思うと、母親業とは大変な仕事だ、と感じる。母だって人間だ。きっといろいろ苦労を経験し、母となったのだ。神さまのように常に慈悲深くあるわけがない。なのに子どもは常に飢えている。身体的にも、精神的にも、母を求め母の時間と愛情を喰らおうと要求し続ける。母も苦しい。子も苦しい。人間とはなんてしんどい生き物なのだろう…。
私が幼少の頃、ぼんやりと周囲のことを把握し、ものごころついたときには、母親は常に怒っていたことを覚えている。「しっかりしなさい」「早くしなさい」「あなたはお姉さんなのだから」と言われていた。気が付いたときには、弟がいて母親の関心の大半を私から奪っていたように感じていた。私が話そうとすると、弟が話しを奪う。弟と喧嘩になると「お姉さんなんだから我慢しなさい」と言われる。私は嫌いな食べ物も黙々と食べ、弟は好きな物だけを食べた。家族のメニューが、弟の嫌いな魚だったりすると、弟だけお肉料理が特別に用意されたりしたのだ。
あとから聞くと、男兄弟がいる友人もよくそんなことがあったらしい。しかし当時の私には、母親から差別されているようでとてもくやしく悲しかった覚えがある。
私は家ではむっつりと黙り込み、母にとって扱いにくい子どもになった。何しても怒る母、私のやることなすことに干渉する母。私は母から殆ど褒められたことがなかった。なので、他人から褒められるとどういう顔をしていいのか、どう表現したらいいのかわからなかった。嬉しがったらいけないのだと、褒められても浮かれずに「とんでもない」と言うか、「いやいや」と知らんぷりしていることがいいのだと思っていた。大人になっても、しばらくはそう思っていたものだ。30過ぎてからだろうか。褒められたら「ありがとう」と嬉しい顔をしていいのだと知ったのは。
私は母親からの怒りを回避するために黙り込むことに徹した。大声で泣き叫びたいときも、そうしたら余計母親の怒りをかい、母親の気を狂わせてしまう、とひたすらだんまりを通した。すると母親は「おまえは何を考えているのかわからない!」とまた怒った。そして怒りながらも、私に干渉し支配しようとした。
私はなぜ母親がこんなに怒っているのか理解できなかった。どうして母親は私を理解してくれないのだろう。受け入れてくれないのだろう。そんなの、おかしいじゃないか。母親だったら子どものことを理解するのが当然だろう!どうしてこんなに自分の思い通りにしようとするのだろう、と思い、自分を理解してくれない母親を憎んだ。憎みながらも渇望していたのだ。その矛盾した自身の思いにに心が引き裂かれそうだった。
そしてそれに耐えられず、私は早々に家を出る手段を得、母親から遠く離れたのだった。そのお陰で自分で考え行動する力を身につけることはできた。しかしその後、私はなお母親に執着し続けたのだ。母親はなぜあんなに怒っていたのだろう。なぜあんなに過干渉だったのだろう。なぜ自分の思い通りにならない私を理解しようとせず、きちがいじみた支配を続けようとしたのだろう。私はもっと母親に理解されたかった。受け入れてもらいたかった。なぜそれが母親にはできないのだろう?母親はいつも自分が中心だった。私が思うようにいかないと「私はそんなふうに躾た覚えはない」、そしてわずかながらも私を認める発言は「私の育て方がよかったから」だ。では娘の私自身はいったいあなたのどこにいるの?答のない問いだけがいつも私の頭にあった。それが10代後半になって、過食気味になったり、母親に対して突如ヒステリックに泣きわめいたりする、という自身の反応も引き起こしていた。母親の嫌いな喫煙もこっそり始め、隠れヘビースモーカーになっていた。
そしてその疑問は、ついに母親研究へと私を駆り立てた。私は非行、家庭環境、虐待、心理学関係の本を読み続けた。そして『親も子どもの頃があり、そこで辛い経験が多いと、心の発達過程において問題が生じる。それが自らの対人関係や子育てにおいて投影される場合がある』ということがわかった。
母親は戦中生まれだ。田舎に疎開していたようだが、多分生活は大変だったのだろう。母親はもともと7人兄妹の真ん中に産まれた。そのうち2人を子どもの頃の病気で亡くしている。祖母は悲しみの中、大変な生活を送り子どももいろいろ我慢したりして成長したのかもしれない。戦後も祖父の仕事の関係で何回か転居している。激変する時代の中で成人した母親も様々な思いやあきらめがあったのかもしれない。母親自体が満たされない心をもっているんだ。それを子どもにぶつけてしまったのかもしれない…。
私は心理学関係の専門書を読みながら、そのように憶測した。そして「母親も大変だったんだ。母が私を憎んでいたわけではないんだ」と勝手に思うことで、自分を納得させ、母親に対しての怒りも鎮火していった。その頃は、私も就職し親から離れて住んでいたこともあり、親に頼らず自分で生活しているんだ、ということからくる精神的な落ち着きと、直接干渉されなくなったことからの落ち着きがあった。
そして、母親は母親が生きてきた上でのものさしでしか、世間を、人間を見ることができないんだ。それは彼女の責任ではなく、彼女を取り巻く時代や環境がそうさせてきたんだ。そう思うことで少しでも母親を許すことができた。そして私自身の心も少しずつ軽くなってきた。
加えて20代半ば前後のこの頃、私がたまに帰省すると母親は喜んで、たまに洋服などを買ってくれたり、ひとり暮らしは大変だからと家にある食材を持たせてくれた。それも私の心を慰めたのだ。ただたまに会うから双方の喜びがあるわけで、1週間実家にいると、いつのまにやら母親の説教が始まり険悪な雰囲気になってしまうのだ。そして私は心の中で悪態を付きながら自宅に帰ることになった。
ある程度、相手の事情や行動の意味を知ると、こちらも納得するところがある。そういう理由があったのなら仕方がない、と諦めがつくときもある。私もそうしながら母親の事情を知り、憶測し、楽になったところがある。
しかし問題は、私が勝手に調べ、憶測し、わかったように思っていたことだった。私に足りなかったことは、もっと母親とぶつかることだった。もっと母親と話し、喧嘩し、思いをぶつけられればよかったのだろう、と思う。
私は母親を勝手に理解し納得するだけだった。そして相変わらず母親は私に会うと言いたいことを言っていた。なんだか一方通行だ、と感じた。でも人は親子でも理解しあえないものだから仕方がないのだろうか…。
そんな時、元夫に出会った。元夫は、私を受け止め理解してくれる存在に思えた。
母への渇望が背中を押した… コワ~イ
私が幼少の頃、ぼんやりと周囲のことを把握し、ものごころついたときには、母親は常に怒っていたことを覚えている。「しっかりしなさい」「早くしなさい」「あなたはお姉さんなのだから」と言われていた。気が付いたときには、弟がいて母親の関心の大半を私から奪っていたように感じていた。私が話そうとすると、弟が話しを奪う。弟と喧嘩になると「お姉さんなんだから我慢しなさい」と言われる。私は嫌いな食べ物も黙々と食べ、弟は好きな物だけを食べた。家族のメニューが、弟の嫌いな魚だったりすると、弟だけお肉料理が特別に用意されたりしたのだ。
あとから聞くと、男兄弟がいる友人もよくそんなことがあったらしい。しかし当時の私には、母親から差別されているようでとてもくやしく悲しかった覚えがある。
私は家ではむっつりと黙り込み、母にとって扱いにくい子どもになった。何しても怒る母、私のやることなすことに干渉する母。私は母から殆ど褒められたことがなかった。なので、他人から褒められるとどういう顔をしていいのか、どう表現したらいいのかわからなかった。嬉しがったらいけないのだと、褒められても浮かれずに「とんでもない」と言うか、「いやいや」と知らんぷりしていることがいいのだと思っていた。大人になっても、しばらくはそう思っていたものだ。30過ぎてからだろうか。褒められたら「ありがとう」と嬉しい顔をしていいのだと知ったのは。
私は母親からの怒りを回避するために黙り込むことに徹した。大声で泣き叫びたいときも、そうしたら余計母親の怒りをかい、母親の気を狂わせてしまう、とひたすらだんまりを通した。すると母親は「おまえは何を考えているのかわからない!」とまた怒った。そして怒りながらも、私に干渉し支配しようとした。
私はなぜ母親がこんなに怒っているのか理解できなかった。どうして母親は私を理解してくれないのだろう。受け入れてくれないのだろう。そんなの、おかしいじゃないか。母親だったら子どものことを理解するのが当然だろう!どうしてこんなに自分の思い通りにしようとするのだろう、と思い、自分を理解してくれない母親を憎んだ。憎みながらも渇望していたのだ。その矛盾した自身の思いにに心が引き裂かれそうだった。
そしてそれに耐えられず、私は早々に家を出る手段を得、母親から遠く離れたのだった。そのお陰で自分で考え行動する力を身につけることはできた。しかしその後、私はなお母親に執着し続けたのだ。母親はなぜあんなに怒っていたのだろう。なぜあんなに過干渉だったのだろう。なぜ自分の思い通りにならない私を理解しようとせず、きちがいじみた支配を続けようとしたのだろう。私はもっと母親に理解されたかった。受け入れてもらいたかった。なぜそれが母親にはできないのだろう?母親はいつも自分が中心だった。私が思うようにいかないと「私はそんなふうに躾た覚えはない」、そしてわずかながらも私を認める発言は「私の育て方がよかったから」だ。では娘の私自身はいったいあなたのどこにいるの?答のない問いだけがいつも私の頭にあった。それが10代後半になって、過食気味になったり、母親に対して突如ヒステリックに泣きわめいたりする、という自身の反応も引き起こしていた。母親の嫌いな喫煙もこっそり始め、隠れヘビースモーカーになっていた。
そしてその疑問は、ついに母親研究へと私を駆り立てた。私は非行、家庭環境、虐待、心理学関係の本を読み続けた。そして『親も子どもの頃があり、そこで辛い経験が多いと、心の発達過程において問題が生じる。それが自らの対人関係や子育てにおいて投影される場合がある』ということがわかった。
母親は戦中生まれだ。田舎に疎開していたようだが、多分生活は大変だったのだろう。母親はもともと7人兄妹の真ん中に産まれた。そのうち2人を子どもの頃の病気で亡くしている。祖母は悲しみの中、大変な生活を送り子どももいろいろ我慢したりして成長したのかもしれない。戦後も祖父の仕事の関係で何回か転居している。激変する時代の中で成人した母親も様々な思いやあきらめがあったのかもしれない。母親自体が満たされない心をもっているんだ。それを子どもにぶつけてしまったのかもしれない…。
私は心理学関係の専門書を読みながら、そのように憶測した。そして「母親も大変だったんだ。母が私を憎んでいたわけではないんだ」と勝手に思うことで、自分を納得させ、母親に対しての怒りも鎮火していった。その頃は、私も就職し親から離れて住んでいたこともあり、親に頼らず自分で生活しているんだ、ということからくる精神的な落ち着きと、直接干渉されなくなったことからの落ち着きがあった。
そして、母親は母親が生きてきた上でのものさしでしか、世間を、人間を見ることができないんだ。それは彼女の責任ではなく、彼女を取り巻く時代や環境がそうさせてきたんだ。そう思うことで少しでも母親を許すことができた。そして私自身の心も少しずつ軽くなってきた。
加えて20代半ば前後のこの頃、私がたまに帰省すると母親は喜んで、たまに洋服などを買ってくれたり、ひとり暮らしは大変だからと家にある食材を持たせてくれた。それも私の心を慰めたのだ。ただたまに会うから双方の喜びがあるわけで、1週間実家にいると、いつのまにやら母親の説教が始まり険悪な雰囲気になってしまうのだ。そして私は心の中で悪態を付きながら自宅に帰ることになった。
ある程度、相手の事情や行動の意味を知ると、こちらも納得するところがある。そういう理由があったのなら仕方がない、と諦めがつくときもある。私もそうしながら母親の事情を知り、憶測し、楽になったところがある。
しかし問題は、私が勝手に調べ、憶測し、わかったように思っていたことだった。私に足りなかったことは、もっと母親とぶつかることだった。もっと母親と話し、喧嘩し、思いをぶつけられればよかったのだろう、と思う。
私は母親を勝手に理解し納得するだけだった。そして相変わらず母親は私に会うと言いたいことを言っていた。なんだか一方通行だ、と感じた。でも人は親子でも理解しあえないものだから仕方がないのだろうか…。
そんな時、元夫に出会った。元夫は、私を受け止め理解してくれる存在に思えた。
母への渇望が背中を押した… コワ~イ
そうなんですよね~。
モラ研究していると、家族のこと、自分の性格形成の過程など
いろいろと考えさせられますよね。
私はモラと出会う前から、母親のことでは悩んでいたので
その関連でも本を読みました。
親自身も大変な時代、環境の中で生きてきて
満たされない部分もたくさんあったんだろうな、と。
だから仕方がない、親は変わらないし
親も必死だったんだ、なんて思いますが
やっぱり無神経な一言があると、がっくりきてしまいます。
ぴっぴさんもいろいろな葛藤がありながらも
そうやってお母さまを理解しようと努力されたのですね。
私は既に親と住んでいたときの年数よりも
離れて暮らしている年数の方が長くなりました。
そんな時間を経て、距離が持てるようになりました。
しかし…先月実家に帰ったとき、母親と昔の話しをしていたら
母親から「あなたは難しい子だった」と言われ
またムカッ!ときました。
「そう?お母さんも難しい人だったよ」と言ってやりました。
母親は即座に自分を正当化していましたが…(^^;)
ま、もう仕方がないので私もがんばって
言い返してやることにしています。
ウメより
その周辺、モラ両親、自分家族など関連書籍を読まざるを得なくなり、
「被害者になる人が多い」、というわれている、
モラハラ家族ではない、と思っていた自分の親たちが、
実は、とんでもない毒親だった、ということに気づいてしまいました。
しかも、肉体的暴力や、暴言ではなく、執着や、過干渉など、わかりにくい形でコントロールされていた。。
いつも悪いわけではないし、もちろん愛情もって育ててくれたとは思いますが、本を読んでいたら、思い当たることがばんばん出てきてきました。
一度何かの形でこの気持ちを浄化(昇華?)させねばならないのですね。
ウメさんが書かれているような、ぶつかってみる、とかね。
実家から遠く離れて子育てしているので、ほとんど実母の世話になっていませんが、久々連れて帰ったとき、
本当に欲しかった言葉はもらえませんでした。
オバから、
「お母さん、『よく、ここまで育てたね。』、って言ってた?」
と聞かれ、
「言ってくれるかと思ったけど、一言もなかった。」
と言ったら、
「・・・・あら。」
と言われてしまいました。
毒親とわかった今なら、認められなくったって、なにも悲しくないはずなのに、そんなことを無駄に期待していた当時の自分。
AC部分なんだろうなあ。
少しずつ執着(でしょうか?)を解いて、親との適正な距離を探っていきたいと思います。
私も散々モラ元夫のことを書きまくった後
母親に行き着きました。
このことは、随分前から自分の中の
課題だと意識はしていたのです。
マーチさんはブログを始められたばかりですから
どうぞごゆっくり、存分に夫さんのことを
語ってくださいませ~(^^)
そしてその後の、お母さまの物語もお待ちしています。
ウメより
わたしもいずれ、自分自身の生い立ちのこと、母の生い立ちのことを書きたいと思っていますが、いまはまだ、とてもそこまで手が回りません(笑)。
マーチさんも同じような想いを抱いてこられたのですね。
そうですね…支配する母親のパターンは
どこも構造は似ているのかもしれません。
今はだいぶ母親と普通に話せるようになりましたが
基本的には、母親の価値観は変わらないので
今でもものすごく腹立たしいことはあります。
ただ、もうあきらめの境地ですね…(苦笑)。
元夫との関係でも、恐ろしく考えさせられましたし…。
もう少し母親のことを綴ってみたいと思います。
ウメより
文旦さんもお母さまに対して
ずっと悲しい想いを抱いておられたのですね。
辛い想いをぐっとこらえておられたのですね…。
なんだか文旦さんの気持ちがひしひしと伝わってきました。
文旦さんもどうぞ、いろんな思いを語ってください。
私の母は、今でも私に言うことと
弟に言うことを分けています。
母と弟との驚愕の事実があったりするんです。
その度にあきれた思いとやりきれない感情が
漂ってくるんです…。
今私が心がけていることは
母親と話していて反発を覚えたら
それを言葉にして伝えることです。
とにかく、自分の中にしまわないで、
言ってしまおう、となるべく実行するようにしています。
なので、まともな言い合い、というか喧嘩が
できるようになったのも最近ですね。
年取っても親の価値観は頑強なので
めげることもありますが…。
基本的には理解し合えないんだと思い、
手放しつつ(というか投げつつ)あるところです。
ウメより
憎悪と渇望に引き裂かれていたのも、同じ。
強圧的な母親だと、どこの娘もみんな同じ反応をするのでしょうか。
母とは距離的にははなれているのに
精神的にはこんなにもコントロールされている。
と言うより逆らうことがない・・・・
昔の母は強いだけだったが今は年を取って「弱い年寄り」という武器を使って私をコントロールしようとする。なぜはっきり「NO!」と言えないのだろう?
「可愛い弟」と「便利な娘」母はコントロールしやすい私に依存しはじめてきている。それは「可愛い息子」には迷惑をかけたくないから。
ウメさん。ウメさんの「母」への文章を読んでいると
今まで自分が考えないようにしていたことが
ひとつひとつ見えてくるような気がします。
そして涙がでてきます。
私は辛かった・・・・声にださなかったけれども
辛かった・・・・
ウメさんありがとう。
少し救われたようなきがします。