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こころの声に耳をすませて

あの結婚生活は何だったのだろう?不可解な夫の言動はモラル・ハラスメントだった…と知ったウメの回想エッセー。

意味を知る、ということ

2006-02-06 00:11:06 | モラ脱出への道
 自分の夫がしていることはモラル・ハラスメントだったと知った妻は、まず何を感じるだろうか。それは人によって、また置かれている状況によって様々なのだろう。絶望、落胆、悲しみもあるだろう。しかし私の場合は違った。
 夫のしていることがわかった瞬間、「これだーーっ!」と手を叩いて興奮している(もち心の中で。実際に夫の前でしたかったけど…)状態だった。その後はいちいち発見の喜びに包まれていた「これも!」「あれも!」「まるでオット~~~ッ!」と。なぜこんなに喜んだのか。夫の不可解な謎が解けた!という思いと、自分が抱いていた厳しい孤独からの解放を感じたからだ。私の知人、友人の中で、モラハラという言葉を知る人は誰もいなかった(パワハラやアカハラはまだ知られていた)。そしてあまりの夫の仕打ちは誰にも言えなかった。親しい友人にはそれとなく、夫が大変だと愚痴を言えたが、詳細なことは惨めすぎて言えなかったし、ただ同情だけされるのも嫌だったのだ。だから、夫のモラハラについて私は本当に孤独だった。誰にも言えないまま虐げられ暗く沈んでいく自分にも絶望していたのだ。そんな中、パソコンの中の文字とはいえ、まるで私の状況を代弁してくれるかのようなサイトは、「あなたはひとりじゃないよ」と語りかけてくれているかのようだった。
 
 実は、私は夫に会う以前から、DVや様々な依存症、共依存という言葉を知っていた。それは自分と母親との関係を考えるため、家族問題に関連した書籍を読み進めていくうちに得た知識だった。そして、私自身は共依存の傾向があるのではないかと、薄々感じてはいた。しかし親から離れて生活した後は、親ほど濃厚な人間関係もなく、人付き合いに共依存的な問題を感じたことはあまりなかった。

 夫と出会い、少々夫自身の問題を感じながらも、恋愛の渦中にどっぷりはまっていた私はあまり気にならなかったし、お互いにこんなに想い合っていれば、何だって乗り越えられる、と錯覚していた。そして結婚後、優しい夫は鬼の面になった。
 どうして夫は絶えず怒りを爆発させ、絶えずぴりぴりし、私をなじるのだろう。夫はかつて親から暴力を受けたと話していた。虐待された子ども時代のトラウマがこうやって表出しているのだろうか。そうだとしたら私が辛抱強く接しなければ。いずれは夫も変わるだろう。時に反省を見せたりしているのだから…。

 しかし私が努力しても、工夫しても、夫は笑わず、怒りを募らせるだけだった。私は夫の態度の理由を探った。しかしDVにある身体的暴力はあまりなかったので、DVでもないような、でもこのまったく自己中心的な振る舞いはなんだろう…。そして「自己愛性人格障害」あるいは「境界性人格障害」を知る。この2つに夫はけっこう当てはまった。しかし何か具体的な説明に欠け、いまひとつピンとはこなかったのだ。
 こうして私は私なりに、夫の不可解な行動について必死になって調べていた。何とかこの状況を打破したかったのだ。しかし依然霧の中を彷徨っているようで、私はただ霧の中でもがき、疲弊していくだけだった。

 そして霧の中で力尽きかけ、這いつくばっていたときにこの「モラル・ハラスメント」を発見した。この時よかったのは、発見したものが学術的な内容ではなく、実際にモラル・ハラスメントを受けた妻達の、日常生活の中の具体的な話を知ることができたことだ。モラハラを受けたときの戸惑いや悲しみ、驚き、怒り…妻達の想いがパソコンから溢れ、私の心へ一気に飛び込んできた。その上での、モラハラに関する説明は目から鱗だった。加害者や被害者の特徴、モラハラの意味を知り、私は自分の置かれている状況をはっきりと把握することが出来た。もうこれ以上、私は夫を理解しようとする必要はないし、夫とは人間として暖かい血の通った交流がもてないことも確信した。
 そう、必要以上に罪悪感をもつ必要はないのだ。いつだって夫に関して、私は無力だったじゃないか。夫からはボロクソに言われ、力をひたすら奪われていたじゃないか。

 もうこの男と生活し続けていたら、自分の人生を捨てるようなものだ。自分を殺し、夫の顔色を窺い、夫の生活、夫のルール、夫の気分に合わせて、ひたすら卑屈に暮らさなければいけない。もうおしまいだ。これ以上いたら自分は廃人になってしまう。もうこの生活を終わらせよう…私が自分として生きるために。私自身を犠牲にすることはない。離れよう。夫から離れよう…!
 私の気持ちが少し明るくなり、落ち着きを取り戻しつつあった。


 私は作戦をたてることにした。失敗は許されない。ことは慎重に運ばなくてはならない。先のことはわからない。でももうやるしかない。

 そして私は決意を固めた。

発見!『モラル・ハラスメント』

2006-02-03 23:22:53 | モラ脱出への道
 会話もなく、ひりひりと緊張感が漂う殺伐とした夫婦生活。どうしてこうなってしまったのだろう。この夫の態度はいったい何なんだろう。このセリフ、何度自分に問うたことだろう。しかしもう為すすべなく、重く暗い心と体を引きずるように、1日1日過ごすことだけで精一杯だった。

 そしてその日も夕食の片づけを終えた後、私は部屋にこもりパソコンを開いた。夫婦問題のキーワードを打ち込み、結婚生活に悩む人たちやその相談のサイトを探した。その時、「モラル・ハラスメント被害者同盟」というサイトに行き着いた。冒頭の魚を焼く話を読み、目が引きつけられた。まるで夫と同じ雰囲気だ…。そして私は「モラル・ハラスメント」について夢中で読んだ。まるで夫のことだ…夫とそっくりだ、これは夫だ!夫のしていることはモラル・ハラスメントだったんだぁ~~~~~!!ひとつひとつが納得の連続で、私は「そうそう!そうなのよぉ~!」と叫びたかった。掲示板に投稿されたモラハラ体験の数々は、どれも、夫の行為と何かしらの共通点があった。私は驚嘆した。なぜここまで似ているの?まるで夫のクローンがいるよう。同じような言動、行為…これは凄すぎる!!
 理由も分からない不機嫌、突然の怒り、嵐のように降り注ぐ罵詈雑言、気まぐれな行動…これら意味不明な濃霧がさーっと引いていき、突如自分の置かれた世界がはっきりと形を現したのだ。いきなり光にあてられ視界が開けたようだった。

モラル・ハラスメント被害者同盟の「モラハラの特徴」からいくつか引用させていただきながら、今までの出来事を振り返ってみると…
* 最初は優しい…まさにその通り。料理は作ってくれるし迎えに来てくれるし、話しはよく聞いてくれるし、思いがけないプレゼントもしてくれるし。
* 同情を誘う…これもぴったし。自分はいかに親から厳しくされ暴力を振るわれどんなに苦しんだか、元妻から嫌がらせにあったかをしおらしく話していたぞ!
* 豹変する…そう、そしてある日突然の罵声!呆然の連続だった。
* 自分を正当化する…いつも自分は正しい、妻が悪いから妻が努力すべきと言っていた!
* 後出しジャンケンをする…そう、常にああいえばこういう、こうすればああいう、みたいに何しても文句たらたら。もうどうしていいかわからなくなった。
* 共感性がない…相手の身になって考えることが出来ない人なんだと心の底から痛感。
* 予定をくるくる変える…こんなこと、しょっちゅうだった。夫が口で言うようには絶対ことは運ばない、と思い期待しないようにした。
* マイルールがある…妙なマイルールがあったもんだ。餃子は夕食でなくおやつに食べる、とか。はぁ?
* 言葉で冒涜する…モラ夫にはお手のものだった。何時間も冒涜されたものだ。
* 自己紹介する…モラの自己紹介、まったく同じ。いつもいつも妻が悪い、妻のせい。
モラハラ加害者の特徴も「その通り~!まるで夫解説書だ!」といちいち感心した。そして、そこにあった最後の一文に釘付けになった。

「もしモラ夫だったら、世間一般の暖かい家庭は見果てぬ夢なのだということ」

そして悲しいことに、私にとってこの言葉はまさに真実であることを知っていた。
なぜなら夫からのモラハラに何度も何十回も、叩きつけられ突きつけられた現実だったからだ。

 そうか、夫はモラハラだったんだ。私だけが悪いわけではなかったんだ。私の努力の問題ではなかったんだ。夫の行為こそが問題だったんだ。モラハラならば、こんな酷い生活になるのも納得できる。だって、モラハラの特徴を殆ど夫は兼ね備えているのだから。そしてこうやって夫のモラハラに悩み苦しんでいる人たちがたくさんいるんだ。ああ、私の体験とそっくり。ほんとうにそっくり!!

 当時、私はまだパソコンに疎く、ネットで様々なサイトをみることができても、掲示板などに投稿したりコメントしたりする方法を知らなかった。そして、もし仮に投稿できても、そこから自分だとばれることを恐れていた。私はひたすらモラハラについて調べ、モラハラ被害者同盟のサイトを読み続けた。
 
 そして確信した。夫と生活し続ければ、本当に私の将来も希望もない。自分も壊れてしまう。漠然とそんなことを思っていたのだが、それが明らかになった。さあ、私はどうしたらいい?私の人生、私はどう動く?動ける?どうする?

 私は静かに考えた。現実は変えられるかもしれない。どうやって?さあ、落ち着いて考えよう。
 もしかしたら、私は…そう、何かできるかもしれない。


戦慄

2006-01-30 22:27:52 | モラ脱出への道
 夫との将来にはどうやら希望がまったくなさそうだ、と痛感した私の頭の中は、絶望的観測しかなかった。夫が仕事をやめ、毎日家にいて氷のような目で私を突き刺す…この先自分の好きにできるお金も時間も皆無になり、ただ戸籍上夫婦だからということで一緒に暮らし続け、会話も思いやりもなく、夫は無視と罵倒し、私は更にビクビクし感情を押し殺し死んだような生活を送るのか…私は、全私自身を否定する男と生活するのか、こんな男のために私を失っていいのか!?

 そんなことをずっと考え、暗黒の迷路を彷徨い「今日死んでも明日死んでもいい。死は解放だ。どんなに楽になるか…」と暗い表情でとぼとぼと歩いた。買い物に行くときも、通勤するときも私は本当に黒い溜息が見えるような生気のない表情をしていた。笑いながら歩く夫婦を見ては顔を曇らせ、幸せそうな親子から目をそらした。

 その頃から私の体がよく震えた。寒くもないのに細かく震えるのだ。買い物をするときも、食材を選ぶ手が震えていた。料理の時も震えていた。夫の足音を聞いては震えた。電話を取るときも、蛇口をひねるときも…。もう体中が悲鳴を上げている感じだった。恐怖と怒りと憎しみと焦燥感で、心身共にいても立ってもいられないような、絶えず電流を流されているような後頭部のヒリヒリ感に浮き足立ち、今この場からすぐにでも逃げ出したかった。
 
 そして私がしたことは、まさに苦しいときの神頼みだった。ネットで近隣にあるいくつかの神社(特に厄除けも行っている神社)を調べ、片っ端から尋ね歩いた。頭ではわかっていた。こんなときだけ神社に行ったって仕方がない。こんなの気晴らしだ。もっと現実な対処を考えるべきだろう。どこか相談に行くとか…。しかしカウンセリングは高価で私の使えるお金を考えると無理だった。とにかく私はもう何でもいいから何かせずにはいられなかった。気晴らしでもよかった。今までこんなこと気のせい、と他人を笑っていた私だったが、今になってその気持ちがよく理解できた。自分が当事者になれば笑えないものだ。そう思いながら電車に揺られた。

 神社に行くと、たいてい本殿や拝殿を囲むように、こんもりとした鎮守の森がある。国道や繁華街のそばでも、神社の敷地内に入ると不思議と静かだ。鳥のさえずりや木々の葉ずれの音が心を落ち着かせた。私は僅かながらのお賽銭をし、祈った。「どうかモラ夫と離れられますように…どうかこの悪い縁が切れますように…どうかこの苦しみから解放してください…どうかいい道をお示し下さい…神さまお願いします…」と。私は悪い縁切りがよく叶う、と言われている神社には3回も出かけた。そして拝殿の奥をじっと見つめ、そそくさと家に帰った。
 当時はそれだけでも少し楽になった。気休めだとわかっていたが、これが私の精神安定に必要なんだと割り切っていた。そして家に帰り、震えながら食事の支度をした。

 夫は私のしていたことは何も知らない。知っても馬鹿な女、と冷笑するだけだろう。


 しかし神さまは私の願いを聴いてくれていた。

 私は今、何回か行った神社のそばに住まいをみつけ、生活している。私はよく神社の境内を歩く。大きな椎の木や銀杏の木がどっしりと根を下ろしている。私は木々を見上げる。シジュウカラのさえずりが聞こえる…

 神さま、ありがとう。

夫との将来像

2006-01-19 22:50:54 | モラ脱出への道
 結婚して7年目、私と夫とは殆ど口をきかなかった。最低限の挨拶「おはよう」「行ってきます」「ただいま」「食事ができました」「おやすみ」を、かろうじて伝えていた程度だった。食事も黙って食べ、片付け終了後は別々の部屋で過ごした。夫がリビングを独占していたので、私はテレビも殆ど見なくなった。夫は常に不機嫌さの雰囲気を漂わせ、私は怒りのスイッチに触れないよう、家事を終わらせると自分の部屋に避難した。もちろん寝るときも別々で、まさに寒々しい家庭内別居状態だった。
 私は既に夫を理解しようとする努力を放棄し、夫との関係を修復する意欲も消失していた。夫はまるで乾ききった砂漠か、鋼鉄の壁だった。夫の期待に応えようと、夫の希望に添おうと努力しても、灼熱の砂漠のように虚しく乾き、育むことのできない不毛な関係だった。そして夫といい関係を築こうと、夫と何とかコミュニケーションをとろうと努力しても、頑なに跳ね返され叩きつけられた。
 私は、夫に関しては全くの無力だと思い知らされた。

 この頃から、私はネットで『夫婦関係』『結婚生活』『離婚』『別居』『DV』などのキーワードで検索しては、世の夫婦はお互いの関係が悪化したとき、どのようにやり過ごしているのかを知ろうとした。そこには様々な悩みを持つ夫婦像があった。私は「いろんなところで結婚生活に悩んでいる人がいるんだ。私だけじゃないんだ」と、自らの心慰める日々だった。また夫と離れたらどこに住もうか、と賃貸情報を検索した。
 その時、私は特に別居する意志を固めていたわけではなく、あくまでも現実逃避として一人暮らしを夢想していた。いろいろな駅周辺情報を集めながら、家賃や間取りを見る。それはちょっとした楽しみだった。現実にはこの家から離れて暮らすことはあくまでも夢物語のようにも感じていた。

 私の傾向として、よく考えて決めたことは貫き通したい、という信念のようなものがあった。特に自分の人生における重大な選択で、それを簡単に覆すのは軽薄なことであり自分自身に対する信用問題にかかわる、と思いこんでいたのだ。結婚もまた人生における重大な決断であり、その決断に自己責任を取らなければならないと思っていた。そして私達の結婚のために、何人もの人が心からお祝いしてくれた。それを無にしてはいけない、という思いもあった。

 しかしそう思いながらも、私の中で結婚生活に期待するものは既に何もなかった。こんな状態で夫婦関係を続け、私は夫の前では自分を押し殺して生きていくのだろうか…。

 ある日、夫がふと話しかけてきた。「俺、もしかしたら癌かもしれない」私は心の中で『やった!夫が入院したら私はここで一人暮らしができる。そして夫が死んだらこのマンションは私の物になる』と、物騒なことを考えほくそ笑んだ。しかし顔ではさも重大な出来事のように、顔を曇らせ「どうして?どこか具合悪いの?」と心配そうに応えた。私は夫の前ではとっくの昔からピエロになっていた。夫は「このところ、息切れが酷いんだ。胸も苦しくなる。もしかしたら肺癌かもしれない」と言った。「検査したの?」「いや、してないけど、なんかおかしいんだ。今までいろいろな人に相談したけど、ウメには最後に言った」私は思った。ふん、もったいぶって。夫は今までも些細なことですぐ大袈裟に騒ぐ。今までも何度ガンだ、心臓病だと騒いだことか。そして検査しても異常なしだ。そして夫は「ここのところずっと体調もすぐれないし、会社をやめようかとも考えている」と言った。はぁ?会社を辞める?この人何考えてるの??「どうしてそうなるの?」夫は「会社のシステムが変わって、組織も再編成されることになった。今までの通りに仕事ができなくてしんどいんだ」確かに夫の会社が大幅な改革を目指している、ということは知っていた。そして夫はそのことでストレスを感じているらしいことは、私も何となく察知していた。しかし辞めてどうやって生活するんだ?「辞めてどうするの?」私は、冗談じゃないよ!と言いたいのをこらえて、辛抱強く聞いた。「俺、写真家になろうと思うんだ」はぁ?シャシンカ!?「ずっと写真取るのが好きだったからさ。世界各国を回っていつか写真集を作りたいって思ってるんだ」シャシンシュウ?「生活は、退職金を食いつなぎながらしばらくは何とかなるだろう。ウメも働いているわけだし。そのうちに写真集が売れるかもしれない。少しは印税が入るだろう?そうしたら家でガーデニングをしてみるのもいいな」が、が、がーでにんぐ??夫は淡々と話していた。

 私は目を剥いてぶっ倒れそうになった。酸欠になりそうだった。夫はいったい何を言っているの?シャシンカ?妄想抱いているのか?ついに頭がおかしくなったのか?冗談じゃないよ!これ以上に私が働いたお金を使い尽くすのか?会社を辞めたら毎日家にいるのか?海外を回る?そのお金は退職金を使う?じゃあ老後はどうなるの?
 私は夫の老後を想像した。おぞましいものだった。想像できたのは、夫が癌で入院することくらいだった。夫がベッドから動けない時、私は冷ややかな顔で夫を見るのだろう。こいつがずっと私を苦しめてきたんだ、と。私は夫が動けないのをいいことに、夫を虐待するかもしれない。今までの私の苦しみを知れ、とばかりに。

 あまりにも不幸な将来だった。私は、これ以上私自身を貶めるのか?夫婦で生活や想いを積み重ねるというよりは、夫への憎悪を積み重ね、惨めで卑小な人間になって年老いていくのか?私は、そんな私になりたかったのか???

 この、夫の意味不明な言語のおかげで、モラハラによって麻痺していた私の頭に突如スイッチが入った。画像は現実の将来に切り替わった。私が現実を作るんだ。冗談じゃない。夫の妄想の中で生きてなるものか!!

私の怒りマグマ

2005-12-22 23:19:12 | モラ脱出への道
 思えば私は随分辛抱強い性分だったと思う。長い間夫からのモラハラ攻撃にも耐え続けてきたというか、感じないようにしてきたのだ。しかし結婚7年目になり、私の中では我慢を通り越し、無気力になり、投げやりになり、そして沸々と怒りが湧き出てきた。
 夫と一言も会話を交わさない日々、夫の冷徹な表情、虫けらでも扱うような態度。こんな夫にどう思われようと、もうどうでもよくなってきたのだ。ここまで無視され、夫から嫌われているのに、どうして私がいつもご機嫌伺いしなければいけないのだ!

 既に以前からしていることだが、私も必要最低限のことしか言わなくなった。無理に話すのはもうやめた。そして自分の部屋で1人で寝た。
 夫から「おまえは本当に最低だな」と言われれば、「そう、私サイテーの人間だから」と答え、「おまえはバカか」と言われれば、「そう、バカだからわからないの」と答えた。つまり、夫の言うことに反応するより、オウム返しで同調することにした。すると夫は「自分で言うな」とあきれて、ますます何も言わなくなり、私はその分楽になった。
 例えば夫が連絡なく帰りが遅くなり、私が作った夕飯を「いらない」と言う。以前の私だったらがっかりした顔をして、もったいないから夫のおかずはラップをして冷蔵庫にしまっていた。しかし、その時の私は夫の目の前で、そのおかずをバサーッとゴミ箱に捨てた(もったいなくて心が痛むのでありますが…)。つまり私も夫に「NO」という何らかの意思表示を表そうとしたのだ。

 私が何かを夫に問いかけても、返事もなく出かけていった朝、私は怒りがこみ上げ、洗ったばかりの夫のワイシャツを出し、足で何度もぐりぐりと踏みにじり床に叩きつけた。ひとしきり足蹴にした後、ワイシャツにアイロンをかけた。冷えた心でアイロンをじっくりとあてた。ある時は、夫がいなくなってから、夫のカバンや雑誌を蹴りまくり、踏みつけた。物にでも当たらないと、私の怒りは収まらなくなっていた。

 夫と会話のない毎日、そしてまたつまらないことで夫が恐ろしい形相をして私に文句を言った。私は一応夫の気が済めばと思い謝ったが、今度は私の気が済まなくなっていた。目のくらむような怒りとひりひりする後頭部。しかし夫に怒鳴りつけるような勇気はない。私は夕食の片づけの後、台所の包丁をひとそろい出した。そして水道の水をタラタラと垂らしながら砥石を置き、ゆっくりと包丁を研いだ。シャーッ、シャーッと包丁を研ぐ。切れ味を指先で確かめながら、一本、そして一本と研いでいった。その時の私は静かな怒りに燃えていた。とても冷ややかな顔をしていただろう。私は包丁を研ぎながら思う。これで夫を刺したらどうなるんだろう。でも、と私は思う。私の人生が終わりになるだけだ。私の名前が新聞に載る。そして親や友人は驚き悲しむだろう…そう、こんな奴のために私も、そして他の人も不幸にしてはいけない…。そんなことを考える。そのとき、夫はさすがに静かだった。私を横目で見て、そそくさと自分の部屋に引っ込んでいた。夫が私の異様な雰囲気を感じてくれたら、私はそれで満足だった。

 このように、私は怒りが溜まると物に当たるようになった。といっても、やはり夫が恐かったので、夫がいないとき、夫の物を蹴りまくっていた。そして夫がいるときには話さない、オウム返し、そしてたまに包丁研ぎを行った。こんなことする自分も、自分で恐いなあ、と思ったが怒りがなかなか収まらなかった。

 また、夫が突然事故にでも遭って重傷で入院してくれないかなあ。あるいは昇天してくれてもいいのに、と物騒なこともよく思った。とにかく夫から逃れたかった。しかし私が逃げるというより、夫を何とかしたかったのだ。「そこまで思ってしまう私自身は何なんだ、そう思うくらいだったら離れた方がよっぽど建設的なのに…」と自分自身に苦笑したりもした。同時に家庭内での殺人事件を思った。こうやって逃れることもできないと追いつめられ、視野狭窄に陥り、犯行に及ぶのだろう。私も我を忘れてしまったらどうなるかわからないな…。自分の狂気を見せられたときでもあった。

 しかし私は夫に怒りを感じつつ、夫に怯えていた。そしてそんな自分も腹立たしかった。私は少し夫との事情を知る友人に、夫への怒りが止まらないことを話した。「このままじゃあ、私が夫を殺すか、夫が私を殺すかまでになるかもしれない」と。友人は静かに言った。「そこまでして一緒に暮らす意味あるの?ないんじゃないの?」と。

 そうだ。私は怒りながら夫に執着していたのかもしれない。私のささやかな反抗で夫が変わるとでも思っていたのだろうか。いや、変わらない。変わりっこないことは、何度も何度も嫌というほど思い知らされたではないか。

 私はこのまま怒りを抱えて、どうなるのだろう…。やはり夫と離れた方がいいのか…。そんな思いがぐるぐると巡っていた。