tyokutaka

タイトルは、私の名前の音読みで、小さい頃、ある方が見事に間違って発音したところからいただきました。

ヒマな文化(書評:ピエール・ロチ『お菊さん』岩波文庫 1929)

2005年06月21日 22時57分47秒 | カルチュラルスタディーズ/社会学
今回のタイトルは「ヒマな文化」である。社会学者が好みそうな「暇の文化」ではない。なぜ、このタイトルにしたのかというと、「暇の文化」だと結果的に、暇そのものを文化の一側面として研究し、その文化を礼賛する文章が社会学の論文に多い。しかし、そもそも日本の文化そのものが、ヒマであるとすれば、その本質を罵倒していると断じられても、礼賛していることにはならないだろうと判断したからである。

さて、ヒマとは何か。よく何もすることない時間のことと定義される。これだけならばいいが、暇だから、何かを行う。その行動の一つが「遊び」であろう。しかし、ヒマが遊びに転換できるのならば、そのヒマの本質は暇ではなかったということが出来るのである。言い直せば、ヒマの本質とは絶望的なくらい「何もすることなく過ぎ去っていく時間」なのである。

もはや現代の日本において、そうした空間の創出は不可能になった。

しかし、明治初期ぐらいの日本の様子を、『お菊さん』に見ていると、そうした空間が本当に広がっていたことを知らされる。なにもすることない、ただ時が過ぎていくだけ。

本書のストーリーはフランス海軍の軍人が、日本に来て「ヒマだからとりあえず現地の女性と結婚でもしてみようか」という発想から、2ヶ月ほど長崎で暮らしたというもの。要は、ヨーロッパ的な人間観(白人は世界でもっとも優秀な民族である)から、未開の土地の女性にはどのようなことをしても良いという発想から、女性を「買った」という内容になっている。ずるいのは濡れ場的なシーンがなく、ただ仏軍人が「良い人」を演じているように読めること。

まあ、行動の是非はともかく、100年近く前の日本は、ただ日常の生活を送ることがひたすら苦痛なくらい変化のないものとして描かれているくらい、ヒマが根付いていたことだ。実際読み手である私が、苦痛すら感じるのである。

この本を読んでわかったことは、日本文化の本質が、人に対して感動や怒り、悲しみを呼び起こさせるものではなく、ただひたすら「ヒマ」を感じさせるものであることだ。すなわちヒマ=文化なのだ。こんな淡白な文化、世界的に見ても、そう見当たらない。

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