本日、9月13日は、小林拓哉教師の召天者記念日です。6年前の出来事でした。あの日の朝のことは忘れることができません。前任者の稲垣さんから電話が入り、拓哉くんが亡くなったことを知らされたのですが、にわかに信じることができなくて、亡くなったのは前任者の稲垣さんだろうと頭の中で受け止めようとしていました。しかし、電話をかけてきたのは稲垣さんだし、おかしいなぁと心の中で思いながら、混乱しながら電話でやり取りしたことを思い起こします。
拓哉くんが愛した但馬地区も、あれから6年が経ちました。社会も様々な出来事が起こりました。もうちょっと、時代を共に生きたかったというのが心残りです。こんなことを私が言うのはおこがましいのかも知れませんが。
明日9月10日(日)は、主日礼拝です。午前10時30分から礼拝が始まります。メッセージは「自分を二の次に」、賛美歌は「主われを愛す」、「飢えている人と」です。ご興味のある方は、どなたでもご出席ください。
世の中は、プロパガンダの専門家が研究を重ね、組織を使い、人を使い、お金を使って一生懸命働いています。なので、市井の人が騙されたとしても仕方のないことです。そもそも、騙されているなんてことにも気がつかいないくらいです。
かつては、そのことによって戦争が遂行され、気がつけば奈落の底にいたという歴史が思い返されたりもします。プロパガンダに抗することはなかなか難しく、むしろ流されている方が気持ちが良いものではないかと思います。
映画「マトリックス」というのは、本当に時代を先取りしていたなぁと思い返されます。プロパガンダに騙されないようにするには、逆風に向かって進む困難を厭わず、鍛錬を惜しまず、愛を見失わないことが大切であると思わされます。自らを振り返ると、困難を避け、鍛錬を惜しみ、愛が足りないことを恥ずかしく思う今日この頃です。
「愛こそ無償」 ルカによる福音書 14章7~14節
イエスさんは、客として招かれた人に「婚宴に招待されたなら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。招待を受けたなら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。」と言いました。
イエスさんは、客を招いてくれた人にも「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」と言いました。
昼食や夕食の会に招かれたらお返しが必要であるなら、婚宴はなおさらです。友好の証として行われる食事会や婚宴の場は、お返しが前提になっているのです。そうであるなら、お返しのできない弱い立場の人たちを友好の輪から閉め出していることになります。本当の友好とは、互いに愛し合うことです。イエスさんは、愛とは無償であり、愛し合うことがお返しによって妨げられてはならないと教えているのです。
明日9月3日(日)は、主日礼拝です。午前10時30分から礼拝が始まります。メッセージは「愛こそ無償」、賛美歌は「主われを愛す」、「飢えている人と」です。ご興味のある方は、どなたでもご出席ください。
ちょっと考えたら分かりそうなのに、海の水と混ぜて捨てたら大丈夫とか、頭は大丈夫かと思います。汚染対策としての総量規制はどうなっているのでしょうか。薄めたら無制限に垂れ流しできると考えているのだとしたら、もう滅茶苦茶です。
汚染した水を綺麗にするために処理したものは処理水と言えますが、汚染が完全に取り除かれていないのなら、未だ汚染水と言っても間違いではありません。ところが、大臣が汚染水と言ったら謝罪しなければならないとは、メディアコントロールが気持ち悪いし、バッシングする人たちも気味悪いです。
人としての誇りとか、良識とか、たいした頭を持っていませんが、それでも自分の頭でよく考えなければ恥ずかしいと思う今日この頃です。