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融通無碍 翼を休めてみませんか

新温泉町浜坂にある日本キリスト教団浜坂教会の
牧師日記

明日は礼拝です

2020年10月10日 | 礼拝のご案内

 明日10月11日(日)は、主日礼拝です。午前9時からの教会学校については、引き続きお休みします。10時30分から礼拝が始まります。メッセージの題は「人間の受け止め方」、賛美歌は「とびらの外に」、「重荷を負う者」です。礼拝後は、祈りの一時、お茶の一時があります。ご興味のある方は、どなたでもご出席ください。

 今週は、延び延びになっていた仕事が一つ片付き、ホッとしています。もう一つ、残っているのがありますので、来週に片付けたいと思います。駐車場の草刈りですが、時間がなくて一部分を残したままになっていました。良く見ると、セイタカアワダチソウのつぼみが見え始めましたので、急いで刈り取りました。雨もあり、大急ぎでしましたので、来週に綺麗にしたいと思います。

 11月の召天者記念も新型コロナウイルス感染予防の観点から、遠方からのご遺族をお招きしての集いは中止となりました。教会の会堂の大きさでは、三密は避けられないと判断しました。中止と言っても、一切何もやらないのではなく、普段通りの召天者記念および霊堂前祈祷会を教会員のみで行います。

 今年は、色々な意味でいつもと違う一年を過ごしています。

 


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「渡り合うイエス」

2020年10月09日 | 聖書のお話

「渡り合うイエス」 ヨハネによる福音書 10章31~42節

 迫害の時代を生き抜いたキリスト者たちは、苦しみや試練によって傷ついたり、強められたりもしました。イエスさんも、石で撃ち殺されそうになったとき、「わたしは父が与えてくださった多くの善い業をあなたたちに示した。その中のどの業のために、石で撃ち殺そうとするのか。」と問い返し、迫害する者たちと渡り合いました。迫害する者たちは、「善い業のことではない、神を冒涜したからだ。」と言い、規則を縦にして屁理屈を並べました。

 迫害とは、単にいじめられるということではありません。善い業が評価されず、屁理屈を並べて相手を陥れようとするのが迫害なのです。神さまは、権力を持った者に抑圧され、弱くさせられた人たちを深く憐れみ、助けられるお方です。イエスさんは、弱くさせられた人たちに善い業を行いました。その善い業を無視し、規則を縦にして屁理屈を並べて石で撃ち殺そうとすることの方が、よっぽど神を冒涜しているのです。挫けてしまうことが多い世の中ですが、愛の業を追い求め続けるようでありたいと思います。

 


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明日は礼拝です

2020年10月03日 | 礼拝のご案内

 明日10月4日(日)は、世界聖餐日・世界宣教の日礼拝です。午前9時からの教会学校については、引き続きお休みします。10時30分から礼拝が始まります。メッセージの題は「渡り合うイエス」、賛美歌は「とびらの外に」、「重荷を負う者」です。礼拝後は、祈りの一時、お茶の一時があります。ご興味のある方は、どなたでもご出席ください。その後、10月の定例役員会があります。

 これまでの介護や葬儀の疲れも出たり、喪失感もあるのか、なかなか本調子になれません。気長に回復を待つのみです。一方で、そうこうしていると、何だかあちこちと体の不調も見られたりと、年齢による老化を感じざるを得ない今日この頃です。このような状態から脱出するには、自然との対話と格闘が必要だと痛感しています。畑作りが一番の治療法だと思います。

 出口の見えないコロナ渦の中、生活の不安を抱えながら暮らしている人たちに、支えと平安がありますようにと祈ります。今は、あまり多くを語る気力がありませんので、唯々祈るばかりの日々を送っています。気がつけば、もうコスモスの花が咲いています。

 


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「神と愛はひとつ」

2020年10月03日 | 聖書のお話

「神と愛はひとつ」 ヨハネによる福音書 10章22~30節

 エルサレムで神殿奉献祭が行われました。神殿奉献祭とは、神殿をユダヤの人々の神さまを礼拝するための場所とするため、他の神々や偶像を排除したことを記念する行事でした。それが冬に行われたということは、希望の春へと季節が変わるように、新たな信仰の歩みが始まることを連想させられます。また、イエスさんがソロモンの回廊を歩いていたと記されています。イスラエル王国の基礎を築いたソロモン王のように、これから新たな信仰の基礎を築こうとされるイエスさんの姿を連想させられます。

 聖書は、「神は愛である」と教えています。イエスさんは、その愛を十字架を通して示されました。神さまの愛は、イエスさんによって示されたのです。イエスさんは、「わたしと父とは一つである。」と言われました。同じように、羊飼いであるイエスさんは、私たちを守り導く僕者です。私たちが牧者であるイエスさんの声を聞き分け、その愛の教えに従うことができるなら、イエスさんと私たちはひとつなのです。ひとつであるならば、私たちもまた神さまの愛を小さいながらも世に示すことができるようになるのかも知れません。

 


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