Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

木曽の谷から見る木曽駒ケ岳

2007-04-15 01:29:08 | つぶやき


 「仏滅なのにお見舞いに行っていいの」という会話をしながら、「お見舞いは前にしているから、今日は顔を見にいくだけ」ということで豊科まで家族で少し遠出である。珍しい話ではないが、わが家にとって家族で遠出は2年ぶりくらいになる。豊科じゃあ遠出のうちにも入らないが、わが家ではこのところ家族で外出することが本当になかった。せいぜい妻の実家まで行く程度で行動範囲は狭かった。息子が中学の部活で忙しかったり、卒業までの数ヶ月は体の不調でそんな余裕すらなかった。ということで遠出とはいえ、たかが1時間もかからない豊科まで高速を走った。伊那ICの近くは、高速道路の路肩の法面に桜の木がたくさん植えてある。高遠の口元であるということでそのイメージに添った演出なんだろうが、高遠と同じくらいの咲き具合で高遠の桜の状態をうかがうにはちょうどよい目安になっている。昔なら伊那ICで渋滞になっていたが、この日はそんな様子もなかった。ETCの導入で渋滞が解消されているのか、それともたまたまなのかは解らない。豊科ICでゲートをくぐっても、ふだんの平日ならETCレーンの通行車両が8割くらいになったこのごろだが、この日はETCレーンに入る車が2割程度で、まったく逆の状態だった。

 さて、珍しい外出ということで、お見舞いの後に木曽谷を通過して帰ってきた。伊那谷に住む人間にとっては、木曽の谷を南北に通過することは滅多にあることではない。たまたま権兵衛トンネルが開通して木曽の谷も身近にはなったが、縦走というケースはない。塩尻市奈良井から旧山口村まで走ったが、わたしにはそれほど感じなかったものの、妻たちは「木曽谷が長い」と何度も口にした。確かにそこそこのスピードで走っているのに、なかなか木曽の谷は抜けない。国道19号は、信号機が少なく、大型車がスピードを出すことから木曽高速などと言われる。70キロから80キロほどスピードで走るのが通常で、60キロ程度で走っていると、後ろに大型車でもいると煽られる。だから通常の一般道に比較すればずいぶん快適に流れる道路である。にもかかわらずひたすら走り続けるという印象があり、木曽の谷が南北に長いことを認識する。

 ちなみにその実際の距離感を数字で追ってみよう。塩尻市の国道20号や国道153号との交差点(1)から旧山口村(2)までの距離は、88.9kmである。旧山口村から名古屋市起点(3)までは90.0kmというから、旧山口村がほぼ中間点ということになる。(1)の交差点から伊那谷を走る国道153号を旧山口村と同じ程度の距離南下すると、飯田ICの先である。考えてみれば少し伊那谷の方が南北に長いかもしれないが、並列して南北に沿っている木曽谷なんだから、遠いに決まっている。この間に二つの郡がある伊那谷にくらべれば、一つの郡にくくられている木曽は広いわけだ。(1)の交差点から長野市の国道18号交差点(4)までは、87.5kmであるから、(3)の名古屋市と(4)の長野市までを3等分すると、そのポイントが(1)と(2)になるわけだ。旧山口村(2)から長野市まで約176km、名古屋市なら90kmということでどう考えても空間は中京圏である。かつて山口村が岐阜県中津川市との合併に際して、田中康夫がいろいろ言って知事の座を失う一つのきっかけにもなった事件があったが、「いまさら何を言っているんだ」という地元の複雑な気持ちは、この距離感から理解できるだろう。木曽郡の県の出先機関がある福島までの距離も50キロ近くある。隣の中津川市内まではすぐそこなのだ。

 木曽の谷を走ると、スピードが出ているから景色を見ている余裕はない。加えて山の中だから遠景を望めるポイントは少ない。旧日義村あたりから木曽駒ケ岳の山並みがのぞけるが、あとは滅多に中央アルプスの姿を望むことはない。そんななか、上松町の寝覚の床を過ぎたあたり滑川の谷を横断する際に左手の中央アルプス側をちらっと見たら「宝剣岳か」と思わせるような山並みが一瞬ではあるが望める。伊那側に住んでいる者にとって、宝剣岳の山のイメージは強い印象として記憶の中にある。だからほぼ同じ位置の木曽側を想定すれば「宝剣岳か」と思うわけだ。そう思った山並みが写真である。もちろん尖っている部分を見てそう思ったのだが、自宅に帰って地図や山のガイドで調べてみると、どうも宝剣岳は写真の中には写っていない。ぎざぎざしている部分は牙岩と言われる部分で、左手の山が麦草岳(2,721m)、右手の山が木曽前岳(2,756m)だろう。木曽前岳の奥に駒ケ岳があって宝剣岳はさらに右手奥になるだろう。牙岩から下ってきている沢が北股沢となり、滑川に合流する。写真は吉野地区に渡る橋下で撮影したものだが、この滑川があまりに急流であることに驚かされる。大水が出たらどうなんだろうと思う。

 国道19号が左岸側を走っているため、なかなか中央アルプスの姿をうかがえないわけだが、数少ないポイントのひとつであった。ガイドなんかを見てもなかなか木曽側からの写真は少ない。だから伊那側の山容を頭に描いていると、まったく別の世界である。
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散り始めた桜

2007-04-14 09:53:32 | 農村環境

[背景は南駒ケ岳]


[背景は烏帽子岳]


 昨夜の雨で、このあたりの桜は散り始めてしまった。このところの比較的寒い朝が響いてか、桜は長持ちしそうな雰囲気もあったが、この雨は散り始めた桜を一気に散らしてしまっただろうし、満開であった桜に「さようなら」を言い渡してしまったように感じる。まだ満開まで至っていなかった桜は良かったかもしれないが、雨上がりとはいえ風も強く、花々には厳しい状況かもしれない。高遠の桜のことに触れたが、高遠の桜も散り始めたのかもしれない。

 妻が喬木村氏乗のお宮の桜を母に見せようと行ったところ、平日だというのにずいぶん車が来ていたという。それらの車はほとんどが県外ナンバーだったということで、このごろはローカルな桜でもよそから訪れる人が多いようだ。飯田下伊那では桜のスポットを案内する人がいて、観光客に手厚いサービスがさまざまな部分で展開されようとしている。長野県が観光専門の部署をこの春に作ったほどだから、観光立県に余念がない。ローカルな姿こそ受け入れられる部分もあるが、そうした観光がローカルさを失わせていくことは必然で、よそから人が来ることは嬉しいことかもしれないが、果たしてそれでよいのだろうかという心配もある。カメラマンたちが田んぼの土手を荒らしてしまうという話も昔からよく聞く話であるし、そうしたカメラマンの要望にこたえるために、意図的な環境や風景が作られてしまうこともある。

 地域の桜の名所を一覧にしたパンフレットが、県内でも郡単位程度に作られていたりする。きっと都会の人たちにもっとそんなパンフレットがオープンになれば、たくさんの人たちが訪れるのだろう。長野はそれほど遠い地ではない。だからこそ観光県として位置づけられる環境があるのだろうが、いっぽうで素朴だけで売っている部分が多いから、よそ者の多い風景から遠ざかる人もいる。地域を本当の意味で価値あるものとして継続してゆく方法を問わなければならない。都会びとの癒しの空間という言い方があるが、そこに住む人たちが癒される空間であることを第一にしたい。そうでなければそこで住む人たちは、都会びとしか見られない人間になるし、都会びとに左右される空間になってしまう。

 さて、冒頭の写真は、4/12に撮影した近所の桜である。この桜が散り始めたことから今日の文は始まったのだが、近ごろこの空間には桜の木が多くなった。上伊那の地方紙のニュースでも触れられていたが、飯島町田切では約1キロ近い道沿いに、10年ほど前に植えた桜がずいぶんと見ごろになってきたという。桜の木はけっこう成長も早いから、10年もするとそこそこの花を咲かせる。これから10年もすると、あちこちに桜の名所ができているのかもしれない。「ホタル」というと「どこでもホタル」みたいに「ホタルを呼び戻そう」なんていう活動をするが、まさに平和である。どこかよそ者の花を道端に咲かせて目を引こうという意識と似かよっていて、日本人らしい行動パターンを見せている。
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高遠の桜

2007-04-13 08:26:30 | 自然から学ぶ


 昨日は、高遠での花見であった。10年以上も前、高遠に入り浸るほど高遠の現場に釘付けになった。だから高遠については詳しい。とはいえ、桜の季節にゆっくり花見をする機会はそれほどなかった。久しぶりの桜の木の下での花見である。老木となった桜に対して、桜盛りによってさまざまな手が施されているのだろうが、自然相手だけに、毎年同じような姿を見せてくれるわけではない。今や高遠町ではなく、伊那市の高遠である。伊那の人々にとっては、憧れの桜の地が懐に入ってきたわけだから、さぞ誇らしげだろう。

 その高遠のコヒガンザクラ、三峰川の対岸から車を走らせ城址公園へ向うのだが、その公園の様子がうかがえる高遠小原地籍あたりから眺める桜の様子が、かつて見たものとだいぶ異なる。一瞬まだ咲き始めかと思わせるほど花びらの輝きがない。ところが城址公園まで登ると、しっかりと咲いていて、まさに満開なのだ。公園内から木々を望むと、ふだんの年と変わりないような気がするのだが、どうも外見が違う。公園内で高遠の知人と会ってそのことをうかがうと、老木の古い枝を処理しないと若い枝が伸びないということで近年剪定をしていて過渡期ともいう。言われて気がついたのは、空を見上げると花びらの間に見えていた空が、だいぶ広く映っている。剪定したために空がよく見えるようになったというのだ。加えて今冬にウソに食べられたのか木々の枝先の花が開いていないのだ。これから咲くというよりもこのまま咲かずに終わってしまうという印象である。桜そのものの寿命は100年くらいというが、ここの木々はすでにそれ以上経過している。かつては木々の根元でもオーケーだった花見も、なるべく根元には入らないようにと指導されている。いつまで見事な桜の姿を見せてくれるかが心配ではあるが、よそには何百年も経過している桜もあるから大事にしてほしいものだ。

 さて、平日の夜間とはいえ人出は多い。それでも城址公園までの道路は、空いていて満開の最盛期ではあるがアクセスは良い。写真を撮ったがいまひとつ赤みの強い花の姿が表現できなかった。今年の桜は赤みも少ないという。
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ボケてしまったわが家

2007-04-12 01:11:16 | つぶやき
 全国で推定10万人といわれる若年認知症。ここでいう「若年」というやつがどういうエリアなのか知らなかったが、聞くところによると65歳前の発症者を言うらしい。生業としての仕事に従事している者が、この病気にかかってしまうと悲惨なものだ。いや、何の病気もそうかもしれないが、主が病となれば、家は傾く。今や主も1人主というケースも多いから、世の中福祉が叫ばれるのも当然なんだろう。若年認知症と分からずに、苦悶している家族もいるという。誰しも若くして認知症であるとは認めたくない場合もあるから、深刻と言えば深刻だ。

 さて、このごろ歳をとったせいか物忘れが激しくなった。そういう言い回しは昔からあったから、それが認知症の初期なのか、単なる歳のせいなのかは判断しがたい。ところが、忙しさによる体の老化なのか疲れのせいなのか、このごろ話をしていてもすぐに自分の中で明快な回答が出せなくなったと感じる。それも歳のせいだといわれれば、それでくくってしまうが、果たしてそれでよいのだろうかと悩む。少し身体を休めたいと思うが、周りはそれを許してはくれない。頭を使っていれば認知症にならないなんていうことはない。

 先ごろ息子が手術をした日、病院から帰り自宅で一泊し、未明に長野へ向った日があった。妻は息子について病院に2日ほど泊まったため、自宅はその未明からほぼ3日間留守となった。未明に自宅を出る際に、理由があって冷凍庫の引出しを開けて保冷材を持って長野へ向った。未明だったから暗がりでそんな行為をしたのだが、3日後に自宅に帰ったわたしは、自宅に入って警告音が鳴っていることに気がついた。冷凍庫が開けっ放しなのである。「まさか」とは思ったが、わたしが開けたままにしたことは確実なのだ。しかし、思い出しても開けっ放しで家を出たということは思い出せない。

 つい先日は、やはり妻や息子が家を留守にしているとき、昼を1人で食べた折に炊飯器の蓋を開けたまま外出してしまった。帰宅すると妻が、「ご飯の表面が硬くなって食べられない」という。「またやったよ」と言われショックが大きかった。まったく思い出せないのだ。もはや若年認知症に手をかけているような気がしてならない。そんな話をしていながら、妻もまたついさっきまで使っていたモノをどこへ置いたか忘れてしまっている。いやはや、この若年認知症家族に明るい未来はないのだろうか。笑い話のうちはよいが、悲惨な空間がすぐそこまでやってきているような気がして、滅入るばかりだ。
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牛牧の獅子舞

2007-04-11 08:23:57 | ひとから学ぶ




 先ごろ別ブログで「大島山瑠璃寺の獅子舞」について触れた。ついでに足を向けた久しぶりの祭り見学だったが、一応デジカメを持っていて写真も撮影した。かつて祭りというとあちこち出向いていたころにくらべれば、祭りの現場を訪れても遠巻きの見物客の一人である。とはいえ、カメラを持っているから、昔のように少し場所を求めて移動したりしていると、次第に本気に撮ろうとしてくる。本気に撮っていたころの動物的感とでも言えるだろうか、自然とあちこち眺めながら用ポジション、良いアングルを探している。でも、そこらにいるずーずーしいカメラマンとは一緒にしてほしくないから、必ず目立たないように動く。獅子舞の前に立ちはだかって、進むたびに後退しながら見物客の目障りになるようなやつにはなりたくないのだ。

 一応長野県指定の民俗無形文化財ということもあって、カメラマンの数は多い。それでもギューギュー詰めで自由が利かないほどの混雑でもない。以前の方がむしろカメラマンは多かったかもしれない。そんなカメラマンの様子を伺っていると、昔から顔見知りのカメラマンが今でもいたりする。お互い歳をとったのだろうが、相手は夢中に写真を撮っているから、久しぶりのわたしの顔に気がつかないようだ。デシタルカメラが当たり前になっただけに、どんなカメラを使っているのだろうと伺っていると、ニコンのF3を構えている。祭りの写真集を出したこともある人がフイルムカメラを持っていたことで、少し安堵した。というよりうれしかったのだが、そんなわたしは遠巻きの一人だから、隠すようにデシタルカメラを持っていた。

 そんな瑠璃寺の獅子舞がお開きになったあと、隣の高森町牛牧のお宮も今日が祭りではないかと思って移動してみた。瑠璃寺にも増して見物客がたくさんいる。でもこちらにはカメラマンはそれほどいない。いてもいわゆる遠巻きの見物客であるから、「カメラマン」というほどのものではない。瑠璃寺の獅子舞が終わって移動すると、ちょうど神社に練り獅子の屋台が着いたところで、両方を見るにはちょうど時間的にずれていて好都合だった。しかしながら、瑠璃寺から移動してきて写真を撮っているのはわたしくらいだった。ここでも一人の遠巻き程度に地味にカメラを構えた。

 牛牧の獅子舞は本当に瑠璃寺の獅子舞とよく舞の所作が似ている。一度眠らした獅子を再び起こすところなんかもよく似ている。瑠璃寺から教わったというのだから当たり前かもしれない。見物していると、「やはり宇天王の衣装は瑠璃寺より牛牧の方がいいなー」なんていう自慢の声も聞こえる。こちらの方が桜が満開に近く、賑やかだ。地元の人たちや親戚の人たちなんだろう、そんな見物客がたくさんいて賑やかでまたよい。ちなみに獅子の頭の形式は瑠璃寺のものの方が古いものである。

 撮影 2007.4.8
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赴任旅費に思う

2007-04-10 08:26:50 | ひとから学ぶ
 長野から転勤をして半月近くが終わる。異動するからには金がかかった。いわゆる赴任するにあたっての経費だから、赴任旅費なるものが出る。ところがわが社だけのことなのかよそもそうなのか知らないが、まず引越し屋さんに頼んで運んでもらうと、その代金は上限はあるもののだいたい出してもらえる。ところがである。自ら荷物を運ぶと、異動先までの片道の燃料費にあたる代金と、有料道路を使った場合の代金が支払われる。有料道路代金は領収書扱いだから、高速でも一部分しか乗らなければその分しか払われない。

 さて、今回わたしは一度では運べなかったから2回(実際は自宅へ帰る機会が何度かあったからそれ以上の回数を小分けにして運んだがまとめて運べば2回程度)に分けて運んだ。もちろん前述の赴任旅費に照らし合わせれば、1回分は自腹である。さらに不思議なのは片道しか支払われない。なぜなのだ、とちょっと考えると、引越し屋さんに依頼すれば、名目上それは片道運賃だからだ。引越し屋さんに依頼すればほぼ全額支払われるのに、自ら運べば自腹の方が多くなると言うのだから不合理な話だ。加えて自家用車では運べない家電があったから、宅配を利用した。宅配と自らの運んだ運賃を重ねて請求できないというので、高い方の宅配代金を請求することにした。だから自ら運んだのは「おまえの勝手」ということになる。たまたまわたしの車はワゴン車だからそこそこ荷物は載ったが、軽に乗っている人ならもっと回数が必要になる。こんなふざけた赴任旅費の考え方は、よそへ転勤しないやつ、あるいは単身赴任なんか関係ない奴が考え出したことに違いない。

 まあ、それも仕方ないか、とあきらめるしかないが、そんな愚痴をこぼすと、「当たり前だ」みたいに言うやつがいるからまた腹がたつ。それはともかくとして、こうした考え方には大きな問題がある。ようは、引越し屋に頼めば旅費請求ができるのに、自らやれば自腹になるという考え方である。今までにも述べてきたが、「自分でできることは自分でやる」という意識の低下が否めない。自力でやるより人に任せた方がよい、という考え方がどんどん定着してきていることが許せないのだ。こういうケースはさまざまな場面で繰り広げられるようになった。自らやれば危険だからといって専門家に依頼する。そんな分業時代だから、さまざまな商売が成り立つが、果たしてそんなことでよいのだろうか。かつての人たちなら自分でやったことが、あらゆる場面で人を頼まないとできなくなってきている。それもこれも、自らやろうとする意識の低下に他ならない。

 政治家にも求められる領収書時代の到来。だからこそ、領収書がない支払い、例えば今回のような「自力」に対しては何も報酬がないのである。裏を返せば「自らやった」という口上では信用されない時代ということになる。なぜこうも領収書にこだわるのか、とこんなに細かい時代を嘆くばかりだが、それほど領収書は価値のあるものなのだろうか。自ら行動することは、エネルギー消費という観点でもかなりメリットはあると思うのだが、世の中はそんな視点で物事を考えなくなっている。
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中央自動車道の開通

2007-04-09 08:24:57 | 歴史から学ぶ


 ここに〝「中央自動車道恵那山トンネルの開通が沿線地域に及ぼした影響」の大要〟という昭和52年の資料がある。日本道路公団審議室の作成したものだ。昭和51年に実施した調査の報告書を要約したものという。内容は「伊那谷の中京圏等の接近」「松川町の梨生産と高速道路」「高速道路時代に対応した大型小売店の展開」「中央道開通後の国鉄飯田線」「恵那山トンネル開通による生活行動の変化」などをまとめている。

 中央自動車道の開通ということは、恵那山にトンネルが開くということであって、中京圏への最短の連絡が可能となったわけだ。長野県内でももっとも早く高速交通網の世界に入った伊那谷であるが、とくに南から先に開通していったということもあって、真っ先に中京への接近があったわけだ。それまでの所要時間は、飯田線経由だと3時間40分かかったものが、高速道利用では1時間に20分に短縮されている。

 次に松川町における梨生産への影響であるが、作付面積によると、昭和43年には日本梨が197ヘクタールだったのに対し、昭和50年には301ヘクタールに増加している。同じ比較でリンゴは212ヘクタールに対して155ヘクタールと減少しているが、果樹そのものの作付面積はトータルでは増加している。リンゴに比較して長期保存の利かない梨に対しては、交通の発達は影響が大きいということがわかる。この報告には「今後梨と野菜の調和ある発展の方向を考える必要が出てくるであろう」と述べているが、あくまでもこうした果樹の発展があったのは一時的なもので、ピークを向えた梨栽培は、しだいに衰退していく。もちろんその背景は農業経営者の高齢化であり、交通網の発達は農業離れという現象に拍車をかけたともいえる。皮肉な話ではあるが、農工分離を進めたのはいうまでもなく、その後分離された農業はご存知のとおり低迷に歯止めがかからなくなった。

 開通後の生活行動に関しては、恵那山トンネル向こう側の中津川と、こちら側の飯田と駒ヶ根、そして松川という4地点での資料が報告されている。例えば飯田では開通前に恵那山トンネルの向こう側へ日帰り行楽をしていた比率が約6割であったものが、開通後は7割6分ほどに15%程度増え、松川では同じ対比で7割が9割へ、駒ヶ根では3割5分が8割近くまで増加している。とくに伊那谷を北へ進むほどにその傾向は強まるのだろう。そして中津川でも1割8分程度だったものが4割6分ほどまで増加している。残念なことにここでも山の向こう側、いわゆる中京により近いところに住む人ほど、こちらほど山向こうに対しての憧れがないことに気がつかされる。3割近い数値で増加してはいるものの、こちら側がこんなにも中京圏を目指しているにもかかわらず、相手側はそんなに思っていないということは、当たり前なことなのだが、それが地域の方向性というものだと認識しなくてはならない。おそらく南から開通したからこそ、南へ向いた「トンネルの向こう」とい口上になるのだが、おそらくこのあと東京までつながった後には、逆に「恵那山トンネルの向こう」に特化していたものが、逆に北へ風向きが変わっていったに違いない。本当に一時的なことだったのかもしれないが、逆に、こちらが北へ目が向くことで、山の向こうも北へ目を向け始めたとも予想される。

 さて、近年のそんなデータがあったらどうなんだろう、などと思うが、時代が大きく変わった現在、「伊那谷の夜明け」と言われたほどの時代は、まさに歴史の1ページだった。近くを通る中央自動車道の橋から通る車を眺めては、そんな資料を引っ張り出したしだいである。
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人生の帰る場所

2007-04-08 08:36:32 | ひとから学ぶ
 飯田市の真宗大谷派善勝寺の発行する『慈窓』最新号(4/1号)に、「人生の帰る場所」という記述がある。「もっとも幸せな人とは、帰る家があり、迎えてくださる親のある人です」と。そして、「夕焼け小焼けで日が暮れて、山のお寺の鐘がなるお手々つないでみな帰ろ、カラスと一緒に帰りましょという童謡は、日本人なら誰でも知っている歌です。この歌は日本人だけが持つ夕暮れに思う気持ちを歌ったユニークな歌だそうです」と続けている。

 「帰る家がある」、そして「迎えてくれる親がいる」、そんな構図が確かに穏やかな人生なのかもしれないが、今やそうした構図が一般的、あるいは常識ということはなくなった。いつのまにかそうなっていて、今や家へ帰ることが幸せだと思わない人も多いかもしれない。毎日のことではなかったが、飯山に暮らしたころ。その当時はまだ土曜日は休みではなかったが、半ドンだったから昼を迎えると実家へ向って約180キロの道のりを帰ったものである。高速道路というものはその道のりのうちの、たった40キロほどしか開通しておらず、もちろんそれだけの道を利用することもなかった。約5時間近い道のりをただひたすら運転したのである。帰れば夕方であり、ほぼ丸一日を自宅で暮らすと、すぐにまた飯山への長い道のりをたどる。若いということもあるが、だからこそそこまでして帰らなくても、その地で休日を過ごすという方法はあったはずだ。にもかかわらず帰ることを選んだわたしは、まさに冒頭の言葉にあるように、帰ること、迎えてもらうことが幸せだという意識があったからだ。現実的には車を運転し始めたころだから、そんな運転をする目的として帰宅することが意味があったのかもしれないが、転勤で自宅から通える場所を望んでいたわけだから、やはり自宅へ帰ることに意味があったわけだ。

 今の若い人たちで、そんなことを毎週繰り返す人はわが社にはいない。それが家への思いがなくなったということにはならないが、家がどれだけ意味あるものなのかは、わたしの思いと異なることは確かなようだ。かつてのそんな暮らしは毎日のことではなく、週一のことだったが、同じように今も、単身赴任すれば、週末に必ず帰ることがわたしの当然な家への思いだった。そこまで執着する人はそれほどいないかもしれないが、もし幸せとは何かと問われれば、帰る家があって、もちろん帰ることである。飯山から帰った時代とは異なり、今は親が迎えてくれるわけではない。しかし、どこか親が迎えてくれるという世界は、「人生の帰る場所」という言葉が似合うし、そんな気持ちを持ちつづけたいものである。
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台地の新興住宅地

2007-04-07 12:53:58 | 自然から学ぶ


 流れる谷は、天竜川の谷である。上伊那郡中川村の中心あたりの流れである。向こうに見えている橋は、かつての別のムラ、片桐と大草を結ぶことになった橋である。その左手に中学校や図書館、公民館などの公共施設が並ぶ。そしてその手前、少し下がったところにたくさんの住宅地が展開している。牧ケ原という台地上の突端にあるこの場所は南原という地名である。かつてここはすべて水田地帯で、住宅は皆無だった。実はわたしもこの土地に宅地を探したこともあったわけで、もしかしたらこの地に住む人になっていたのかもしれないと思うと、人事とは思えないわけだ。ご覧の通り、天竜川の谷からいっきに段丘崖を登ったところが宅地になっているわけで、崩れはしないかと心配にもなる。川の端には岩場が見えたりするから、そこそこ安定した状態で姿を変えずにきていることは予想つく。ただ、この台地の真ん中ほどには、国道153号線のトンネルが掘られていて、近年、そのトンネルに併設した形で歩道用トンネルが掘られた。その際の工事でも明らかになったのだが、岩は現れず礫層だったという。この先で天竜川はこの台地を避けるように下流に向かって左に曲がる。そしてこの橋の下を流れてくるわけだが、この狭隘な谷を釜淵峡といっている。

 かつて住宅地のある場所は水田地帯だったわけだが、わたしがこの地の物件を探していたころは、まだ半分くらいは水田だった。ところが、今ではその水田地帯がまったく消えてしまい、ほとんどが宅地化されている。ムラ内の山間地から移住した人も多いという。実はこの住宅地と中学がある平らには段丘がある。そして、この台地をさらに西に進んだところにやはり小さな段丘があり、その下あたりを国道153号線のトンネルが通過している。この段丘は断層段丘といわれているもので、活断層による地震の危険度も高い断層帯のひとつである。

 さて、みごとな釜淵峡の谷であるが、この風景を認識している人は少ない。ちなみにこの写真は、中川村三共の石神の松のある場所から天竜川をのぞいたものである。人によっては、川にいっきに斜面が向かっているから、「いつか崩れるぞ」なんていうことを口にする人もいる。そんな言葉を思い出しながら、対岸からこの住宅地を望むと、「いつか崩れるぞ」という言葉も現実味を帯びてくる。
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「伊那谷の南と北」第3章

2007-04-06 06:42:49 | 民俗学

第3章 南北格差

 「南北格差のない県土づくり」と前面に出して県会議員選挙に出馬している伊那市区の候補がいる。前面にだしているからには、南北格差とはどういうところにあるのか解っているのだろうが、果たして南北格差なるものがあるのだろうか。

 一般的に使われる南北問題というものは、1960年代に入って起こった先進資本国と発展途上国の経済格差とその是正をめぐる問題である。豊かな国が世界地図上の北側に、貧しい国が南側に偏っていることから南北問題と呼ばれるらしいが、この南北問題(南北格差)は、あらゆる場面で利用されている。基本的に南が低く、北が高いというイメージで捉えられており、そのイメージは、「先進と後進」、あるいは「貧富」といった部分を例える際にも使われたりする。この南北格差は、日本国内の地方においても、比較した際に南北格差があったりするとよく使われる言葉なのだ。その事例を紹介すると、①三重県においては、財政面という部分において、少子高齢化で過疎化が進む熊野市など県南部と、景気が好調な名古屋市に近い県北部の経済格差問題が課題だという。②官製談合事件からの県政刷新が争点の和歌山県では、紀南の有権者は地元振興策に注目しており、紀北と比べ交通や経済面で遅れていて、それを南北格差と認識している。③宮崎県では、観光客が減少している宮崎市を中心とした県南エリアに比べ、県内の観光スポット人気NO.1の「高千穂峡」がある県北エリアは観光客数が増えており、観光業界における南北格差が広がっているという。このように、南北格差というと、南が遅れをとっている地域という捉え方が多く、まさに世界の南北問題を例えているかのようである。

 さて、そうした南北格差を意識する場面として、県議会議員選挙があるわけだ。田口哲男県会議員は、そんな南北格差をホームページで何編か扱っている。ちょっと長いがその内容を引用すると、次のようである。

 「県政運営において「南北格差」が歴然と存在しており、これを少しでも是正せよと訴えてきた。また中南信地方に暮らす人々もそのことを強く願っていると思う。・・・では、どこに「南北格差」が具体的に表れているか交通政策と例にとって報告したい。平成10年に長野新幹線が開業した。このとき県はこの建設のため県内通過分77kmに約1,026億円余を投じている。また先ごろ「しなの鉄道」への貸付金103億円を放棄した。平成26年開業予定の北陸新幹線には県内通過分の建設負担として約445億円余を予定し、すでに222億円を拠出している。もちろん長野新幹線でも北陸新幹線でも通過し、駅が設置される地元自治体では負担金を出さなければならない。たとえば長野市・上田市・佐久市・軽井沢町の四つの自治体で合計約70億円を負担している。決して少なくない金額である。しかし、問題はこれからである。実はこれら自治体には新幹線を保有するJR東日本より毎年約16億円もの巨額な固定資産税が入り、「特例減額期間」が切れる平成19年以降は32億円が入ることになっている。つまり70億円は負担したが、一方で固定資産税7年分112億円がそれぞれの自治体に転がり込んでいるのである。もはや負担金は完全にペイバックされ、42億円ものお釣りがきているのである。・・・さて「しなの鉄道」は新幹線建設で信越線の軽井沢~長野間が廃止されることにより、県がセクター方式で運営している鉄道会社である。しかし、経営は厳しい。だから県は「減損会計」導入にあたって貸付金103億円を株式に転換させた。いわゆる民間会社で言う「転換社債」である。したがって貸付金(税金)は無と化したのである。ご存知のとおり株式は営業利益が存在している時点では「有価」としての意味がある。しかし、赤字営業では無に等しい。・・・この「しなの鉄道」もまた沿線自治体に毎年約7,000万円の固定資産税を支払っている。・・・私は県民に訴えたい。せめて固定資産税の1割でもいいから県に還付し、中南信地方の交通整備に充てる方策を考えよ!・・・と。・・・それが公正ある県財政計画である。」

 確かに北信といわれる長野市近郊にくらべると、佐久市近郊は長野県内では別世界のような活気がある。しかし、それが先々を考えない無謀なのか、それともしっかりした土台があっての政策なのかはわたしにも不明である。東京が通勤圏内だというのだから活気があっても不思議ではない。そんな環境をねたむように南北格差とくくってしまうには、ちょっと北信の人たちに申し訳がないような気もする。今に始まったことではない南北格差は、かつては確かにあっただろう。長野市を中心とした地域に偏った予算付けの典型的な事例がオリンピックだったわけだ。そのオリンピックが終わったから、いよいよオリンピックに関係しなかった地域に重点的な予算がつけられると期待していたら、県が財政難だといって、田中前知事の緊縮予算となった。財政が厳しくなるのがわかっていたのにオリンピックといって騒いでいたわけだから、だまされたといえばその通りだ。しかし、そんな部分も含めて南北格差の解消を訴えているが、現実的に今の長野県にそんなくくり方の格差があるというのだろうか。わたしにはそう思えない。山間地域を見る限り、むしろ長野市近郊の村々の方が厳しさが目立つ。それは田中前知事時代に、より反田中色を見せていただけに、むしろその時代の南北格差は、南が高く、北が低いというような沈んだ雰囲気があった。

 そもそも「南北格差」を掲げる人は、自分より南の人たちの姿を見ずに、比較的優遇されていると思うような地域と、自らの地域を比較して「南北格差」と言っているに過ぎず、実はそう訴えている人ほど自ら南北を比較して上下関係をほのめかすきらいがある。冒頭の伊那市の事例からいえば、あきらかに伊那市近郊は求人倍率もよく、県内の中では状況が良い地域といえる。そして、現在の長野県内を見渡したとき、大型の事業が行なわれている場所といえば、北部の北陸新幹線と、南部の三遠南信道あたりくらいだ。どこをみても特別優遇されているような地域はないし、「格差」を掲げるほどの差は感じられない。何度も言うが、むしろ長野市近郊の村々の方が厳しさが目立つ。

 田口県会議員は松本市区の選出議員である。南北とはいうが、その背景は明らかに「長野市と松本市」という背景があり、本当の意味での南北格差をとりあげているとは思えない。そして、冒頭の伊那市区の議員の発言も同じなのだ。ようは、伊那市から見れば、さまざまな今までの政策を例にとって「南北格差」といっているに過ぎず、むしろ、自ら伊那谷の南と北を取り上げもせず、自分だけが損をしているという論理なのだ。そんな捉え方はどこにでもある捉え方なのだが、とくに伊那谷の北部の人たちが言う「南北格差」は、南部の人たちが聞くと「それは嘘だろう」と思うに違いない。そんな自己主張をしているから、伊那谷は南と北に分離してしまうのだ。


 「伊那谷の南と北」序章
 「伊那谷の南と北」第1章
 「伊那谷の南と北」第2章

 

「伊那谷の南と北」第4章

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知事の問題発言にみるレベルの低さ

2007-04-05 08:20:27 | ひとから学ぶ
 東国原知事が、新入職員のの入庁式の訓示で「タミフルを5日間飲み放題飲んだので、きょうは異常行動、異常言動に走るかもしれない」と語り、すぐに謝罪をしたというニュースが流れていた。中央のテレビにひっきりなしに顔を出すこの知事は、広告塔としてその価値は高いかもしれないが、このごろそんな評価にうぬぼれてしまったような発言もちらほらしてきた。謝罪はしたものの、「シニカル、ブラックジョーク的に社会風刺したつもりだったが、本質が十分伝わらなかった」と釈明していて、どうも謝罪にはなっていないようにも思う。だいたい、本質が伝わらなかったというが、その「本質」とは何を指すのだろう。まったくわからない。お笑い会社の入社式ならいざ知らず、「5日間飲み放題」とか「異常言動に走るかもしれない」という語り口は、公務員の入庁式には不適切というか、新人さんに対して失礼な言葉だと思わないのだろうか。そもそも「おれたちは異常言動で訓示を聞かされているのか」ということになってしまって、「宮崎県よお前もか」というくらいよそと変わりのない訓示式となってしまっている。

 てなことを思っていたら、実は新人さんへの訓示で問題発言がほかの県でもあったと報道された。愛知県では、福祉の心を説明するに当たり、先天的な病気やハンディキャップのある人々について「弱い悪い遺伝子を持った人」と表現したという。「もう少し良い表現があったかもしれない」というが、そのもう少し良い表現とはどんなものなのだろう。こういう謝罪の中でいつも思うのは、「もう少し」とか言うものの、その具体的な表現や言葉を提示して謝罪するケースをまず見ない。ということはもう少しよい表現なんてないのだ。ようはその言葉しか浮かばなかったに違いない。先ごろ問題になった農林水産大臣と同じである。

 また、埼玉県では、「自衛官の人は大変ですよ。分かりやすく言えば、いつも平和を守るために人殺しの練習をしている」と知事が言ったという。まいったなーこれは、という感じだ。自衛官は人殺しの練習をしていると思っていることそのものが、まるで自衛官を認識していない人の言葉のように聞こえる。だいたい人殺しの練習なら、実際に人殺しでもしなければ実践には対応できないだろう。この問題発言に対して、何を思ったのか防衛省の事務次官は、「防衛省、自衛隊は国の防衛だけでなく、救急患者輸送、災害派遣など多様な任務に応えるのが仕事だ。戦闘場面に限定されたものではないことを理解いただきたい」と話したという。この事務次官も何か勘違いしているようで、戦闘場面を想定した練習だって、「人殺し」の練習を前提にやっているわけではないだろう。これでは危なくて憲法改正なんてできっこない、と思うのだが違うだろうか。

 わたしが問題発言をするのとはわけが違う。若い新人たちを前に税金で生きていく人たちへの訓示だ。当たり前だろうが、適正な言葉を選ぶのは当然ではないだろうか。
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消えた村をもう一度 21

2007-04-04 08:25:01 | 歴史から学ぶ
 三重県志摩郡志摩町は、前回紹介した大王町と同様に、志摩半島にある町で、半島の先端に位置している。2004年3月31日現在の人口は14,590人であった。1954年に片田村・布施田村・和具町・越賀村・御座村が合併して志摩町となったわけで、全国の多くの町村がそうであるように、昭和の合併で誕生した町だった。当時の町名は公募によって決まったものというが、志摩半島という立地から、おのずと決まったといっても差し支えないのかもしれない。そして、2004年には志摩郡阿児町・大王町・浜島町・磯部町と合併して志摩市となったわけだが、ごく身近な地域名をもって市名となったことになる。実は現在も志摩町という同名の町が福岡県に存在する。福岡県の糸島半島に位置する町で、こちらは1965年に誕生している。同じ半島の先端に位置しているということから、この「志摩」という地名にはそうした立地をイメージさせる意味があるのだろうか。

 冒頭の志摩町のパンフレットは、初めてこの町を訪れようとしていた昭和60年に送っていただいたものである。A5版のパンフレットは、表裏を含むと28ページというものである。「海の国-志摩」、「志摩路を行く」、「志摩四季」、「古の暮らしを偲ぶ」、「志摩のむかし話」、「トマエさん」、「磯笛の海」、「真珠の里」、「志摩の暮らし」、「志摩のまつり」、「志摩の味」、「志摩町への交通のごあんない」と目次には並ぶ。「志摩の暮らし」では、通い婚のことが触れられている。海女としての稼ぎが一人前となった娘がいる家庭では、嫁にやるのが惜しいためか、なかなか娘を手放すことをしなかったという。男性が女性の家に1年くらい通うのが不通だったといい、4、5年も通ってから同居するという例もあったようだ。

 パンフレットでも紹介されているが、志摩といえば潮仏という石仏が知られている。満潮時に頭を出し、干潮時には全容を現す石仏さんである。しかし、わたしにはこの石仏よりも注目の石仏があって、この町を訪れた。志摩町片田の海の見える共同墓地に、高遠石工の守屋貞治の64歳の作があるのだ。この石仏を慕って2度この片田の墓地を訪れている。右頬に手を置き左手で宝珠を持つ?羅陀山地蔵菩薩で、貞治自ら綴った「石仏菩薩細工帳」によると伊勢河宝珠院に納められた石仏である。その後宝珠院は廃寺となり、明治4年にこの墓地に移したものという。この石仏を彫るために、貞治は文政11年に伊勢へ旅をしている。その際の旅日記を書いており、根羽から鳳来を経て新城、岡崎を通過して伊勢湾沿いに鳥羽まで向かっている。

 さて、この地蔵は墓地の一角にたたずんでいるが、その供物の多さですぐに場所がわかる。加えてこの地蔵を見て驚くのは、左手に持つ宝珠が黒光りしていることである。体全体は石の趣を見せるが、宝珠だけは鉄でできているのではないか、と思われるほど黒く、そして光っている。毎日何人もの人がこの地蔵を拝み、宝珠を撫でるのである。わたしが訪れた際にも、おばあさんが盛んに拝んでは宝珠を撫でている姿があって、印象深かった。そんな篤い信仰に支えられているこの地蔵は、貞治仏の中ではもっとも人々に親しまれている石仏といえるだろう。



 昭和60年1月27日撮影

 消えた村をもう一度⑳
 消えなかった村③
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ゴミの世界

2007-04-03 06:37:09 | ひとから学ぶ
 この4月1日からゴミの収集を有料にするという自治体があるといって、報道のネタにあがっている。その有料化を前に、駆け込みでゴミを出す人が多く、その処理が追いつかずに臨時にゴミ置場を用意している、なんていうニュースも流れている。いかに世の中にゴミが溢れているか、ということがよく解るわけだ。

 わたしも転勤によって、引越しで長野市の住処を掃除していて思ったのは、なぜにこうもゴミが多いのかということである。まあ頻繁に片付けるということをしなかったから、たまるのは当たり前なのだが、ひとりで暮らしていてもゴミがそこそこたまるのだから、家族が何人も寄れば、ゴミは増すばかりだ。レジ袋を有料化するという行動も、この4月1日から目立っているようだが、わたしのような一人暮らしでもレジ袋はたまってゆく。そのレジ袋はけっこう使い道もあったりして、生ゴミを入れたりする。なるべく生ゴミをこうした袋でくるむのはしない方がよいのだろうが、水がしみださないようにするには、袋にくるむのが手っ取り早い。そんなときに使うから、けっこうレジ袋を消化してゆく。たまたま買い物時の袋があるから利用しているが、もしレジ袋がなくなれば、どうするだろう、なんて考えたりもする。

 さて、住家のレンジ台を掃除していて思ったのは、何年もまともな掃除をしていないと、大変なことになるということである。とくに魚焼き用のグリルは、果てしなくこびりついた焦げというか油の固まりが、容易にはとれない。鋭い油汚れを落とす洗剤というやつを使っても落ちるものではない。鉄で掻き落とすことで固まりは落ちてゆくが、飽きずに掃除を続けるほかはない。きっとこんな掃除を経験している女性なら、落とす術を知っているかもしれないが、経験の少ない男どもには、あまり認識されていない世界かもしれない。毎日弁当を作っていたことが、逆にこんな苦労を呼んでいるが、いっそ火を使わなければ油汚れで大変なことにはならないのかもしれない。そんなレンジ台を掃除してはみたものの、ガスの出は以前から良くはなく、最後にガス屋さんが訪れて言うには、今はレンジ台も安いから、買った方が安全だし良いですよ、という。こんなでかいゴミを安易に出していったら、ちまたにはさらにゴミが山積みとなる。でもその方が良作と思う人もいるから、ゴミはいっこうに減ることはない。

 電化製品にしても、どの程度の状態で廃棄処理されるのか、具体的なことは知らない。こんなきたないレンジ台が、どう処理されるのか、と思うと、どらかというと事後の闇の世界だから、人の前から姿を消せばもう消えたくらいに利用者は思っているが、果たしてそんな意識でよいものかなどと考えてしまう。40リットルで60円で回収という自治体、いや、同量で120円という自治体もあるという。ますます不法投棄されるのか、はたまたよそのゴミ箱に捨てられるのか、モラルは地に落ちている。設定された金額が妥当なのかどうか、ということを盛んに報道の中でも取り上げているが、その答えは有料化が何を意図しているかということでも異なってくる。レジ袋だけが減ったとして、どれほど環境負荷が軽減できるのだろう。巨大なゴミを放出してはそんなことを思う。もちろんリサイクルされる物質が多くなれば、それはそれでよいのだろうが、実際に利用しつづけている人々の意識は変わっていないようにも思う。それは目の前から消えれば、もう処理されたと思い込んでしまうからそうなる。でもゴミの世界とはそんなものなのだ。
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架線を引きなおす

2007-04-02 18:23:05 | ひとから学ぶ
 NTTから電話がかかってきた。わが家への電話の引込線が、道路面から4.4mで基準の4.8mに達していないと言う。このごろ架線にトレーラーが引っかかって載せていた重機がひっくり返って大事故を起したなんていう報道があったりして、こうした架線に対して盛んに調べているようだ。そして問題のある架線は基準以上にあげるというのだ。わが家の前の道は、大きな車はまず通らない。幅にして4メートルもない道で、加えてクランクのようなカーブがあるから進入しようにもできないような道である。しかし、基準は基準だから、もしものことがあったらNTTに責任を押し付けるようなことがあっては困るから、高くするというのだ。その方法としてわが家の敷地に引込柱を建てるという。本当ならじゃまだから建てたくはないのだが、もしものことだと言って無料でやるというのだから仕方ないといえば仕方ない。ところがである、わが家に道路を渡って張られている架線は、NTTだけではない。並ぶようにして電力線と、他方からケーブルテレビの架線が張られている。最初にみの話があったとき、わたしは他方から張られている架線のことだと思った。なぜかといえば、その架線がもっとも低い位置に張られているからだ。NTTに訪問され説明を受けて、その線ではないことがよくわかった。電力線は、わが家の軒から引込線用のアングルを建てて引き込まれているから、ぎりぎり4.8mくらいである。そこでNTTに「電力線のように引き込めないのですか」と聞くと、NTTではそういう方法では引き込まないという。ようはどうしても引込柱を建てたいというのだ。

 そこで①電力線があれでよいのになぜNTTは電柱でなくてはいけないのか、②他方から引き込まれているケーブルテレビの架線はもっと低いのに、なぜNTTだけ柱を建てて引き込まなくてはならないのか、という疑問が湧くわけだ。聞くと、NTTの引込柱に電力の引込線は共架することはあるが、その他の架線を共架することはまず滅多にないし、そういう方法はとらないという。ようは、わたしはどうせ建つのなら、電力線もケーブルテレビ線も同じ柱に引き込めばよいのに、と思ったからそんなやり取りをしたわけだ。しかし、なかなかそう上手くはいかないわけだ。それぞれがそれぞれの持ち物だから当たり前なのだが、そんなことを言っているから世の中電柱だらけになる。考えてみれば、昔にくらべれば電柱は確かに多い。都会では地中化なんていっているが、そもそもいらない電柱がやまほど建っているに違いない。とくに町場ともなればどこに電柱建てるかは悩みの種だろう。ただでさえ狭いし、お互い様などという意識はないだろうから、迷惑なものは否定される。わが家を訪れたNTTの方も、「飯田の町の中なんかは大変」と言うように建てる場所がなくて困るようだ。

 さて、この場合ではケーブルテレビの架線はどうなんだということになる。NTTの方いわく、ケーブルテレビなんかは高さなんか無視して架線をすることは一般的だという。どこでも張ってしまうというのだ。では、なぜケーブルテレビは高さを意識しないのか、ということになるのだが、これもまたNTTの方いわく、ひっかかったら「申し訳ありません」と簡単に謝る程度で済むのだろう、と。これもまた、ではなぜNTTはそんなに過敏に意識すのだということになる。大会社だからそんな面倒なことでイメージを落としたくないというが、この世の中の争いに負けない手段なんだろう、ということになる。地域のケーブルテレビには許されても大会社には許されないこと、ということになるのだろうか。

 問題①やはりひとつの柱にみんな乗っかって欲しい。②あなただけよい子でよいの。③世の中責任逃れがみえみえ。というようなこの世の中の住みにくい雰囲気がそこにはある。
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フキノトウ

2007-04-01 10:29:15 | 自然から学ぶ


 中条村の念仏寺沢沿いの道路工事をした法面に、フキノトウがいくつも咲いている。そこだけなのかと違う場所も見ると、やはり法面に目立つようにフキノトウがたくさん出ている。この法面は盛土したところではなく、山を削った面なのだ。削ったところで法面に植生の工事をしてあば青々とした草がでるかもしれないが、そんな工事はしてないのでまっちゃ色な法面にフキノトウだけ芽を出している。そんな姿を見ると、何よりも強く芽を出しやすいものなのかと思ってしまうが、どうなんだろう。削り取ったところだから根がそこに残っているわけではない。

 フキノトウはフキの花である。フキノトウとフキを別のもののように思うのは、それぞれ季節を異にして市場に出回るからだ。だから消費者の中には両者は別物という意識で捉えている人も少なくないかもしれない。また、その姿も同じモノとは思えないほど違うからなのだが、花の部分と茎と葉の部分なんだから違うのは当たり前である。季節感を持たせる花は、初春の香りを漂わせくれるものとして親しまれている。よそのページを検索していたらやはり、フキノトウとフキは同じモノなのか、という質問がされていた。そこに栽培の歴史のことが触れられている。「もともと日本でも野山に自生しているものを採取して利用していましたが、畑に植えて栽培を始めたのは記録的には平安朝時代とされています。当時の『本草和名』や『新選字鏡』には布々岐(ふぶき)と呼んで食用としたこと、『延喜式』(927)にはフキの栽培に関する事項(3年に1回植え替え、1段に34人の労力を要した)が記述されています」とあり、日本ではもっとも古い野菜の部類のようである。

 さて、雌株には、タンポポのような綿毛を持った種子ができてよそへ飛んでいく。実は妻にそう言われるまで、フキノトウの花が綿毛になるというイメージを持っていなかった。そのころになればフキノトウに目もくれないからだろう。でもよく思い出してみると、確かに花の開いた状態で、綿毛っぽくなっているのをよく見ていた。それだけ時期をはずれてくると、注目度が下がるということなんだろうが、それはわたしだけのことなのかもしれない。そんなことは「常識」と言われそうである。ということで、そんな法面に顔を出しているフキノトウは、飛んできた種子で花を咲かせているのだろう。でも、ほかの草は出ていないのに、フキノトウだけが目立っているということは、けっこう強い植物であることがわかる。地をはって広がるタイプの植物ではないから、法面の保護材には向かないだろうが、こんな強いものが横に広がるような習性を持っていたらいいのに、なんて思ったりする。
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**************************** お読みいただきありがとうございました。 *****