Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

消えた村をもう一度⑳

2007-03-22 08:23:46 | 歴史から学ぶ

 能美郡辰口町(たつのくちまち)は、金沢市の近くにあった町である。2005年2月1日に同じ郡内の根上町と寺井町と合併して能美市となった。あまり一般人には印象にない名称だが、合併した根上町といえば松井秀樹の出身地としてよく知られているし、元内角総理大臣の森喜朗の出身地でもあるから、大物を輩出している地ともいえる。この辰口町は、合併前の国勢調査では人口14343人を数えている。合併した3町はほぼ人口が同じくらいの規模で、合併後の人口は49000人弱である。ところが面積から3町を比較すると辰口町がその68%を占めているわけで、ようは山を抱いているというわけだ。さすがに金沢近郊ということもあって、水田が住宅地に変わりつつある地域のようである。長野県などの山間地域とは環境が異なる。新市誕生に際して名称をめぐって行われた住民アンケートで、「松井市」や「ゴジラ市」といったものが上位にランクインしたというから松井秀樹一色の地といってもよいかもしれない。

 辰口町には古くより辰口鉱泉、現在の辰口温泉が湧出していた。開湯の由来によると、養老の昔、村人たちが傷ついた馬の脚を湧出していた泉で治していたといわれ、1400年以上前から湯が湧き出していたようだ。明治18年の「辰口村温泉記」によると、応永年間(1294年~1428年)を皮切りに何度も洪水によって水没したというが、天保5年(1834年)に源泉が現在の場所に確保されて以降、湯治場として現在まで続いている。「Web辰口町史」というページ(今は廃止)が公開されている。辰口町の歴史を誰でも見ることができて、なかなかいい感じのページである。そこにこの辰口温泉の明治時代の歴史が記述されていて、それによると、

 明治14年 温泉紀念碑を湯元に建立、温泉宿九軒  
 明治22年 3/5 温泉守護のため薬師堂の新築落慶
 明治23年 泉鏡花は辰口鉱泉の叔母の家に滞在

とある。明治14年には温泉宿が9軒あったというから古い温泉である。現在は数軒しか宿はなく、そのころにくらべれば少ない。明治23年の項にあるように、泉鏡花は幼くして母を亡くし、辰口に住む叔母に引き取られた。18歳の時に読んだ尾崎紅葉の『夏痩せ』に影響を受け作家を目指したと言われる。温泉宿の「まつや」を舞台にお絹という女性を描いた泉鏡花の短編『海の鳴るとき』の舞台ともなっている。そんなことからも泉鏡花誕生の地と言われている。泉鏡花については「Web辰口町史」にも詳しく紹介されている。

 昭和40年代以降新温泉の開発を町の事業として推進している。昭和44年に県に提出された温泉掘さく許可申許書には「経済成長がもたらした都市過密化による生活環境の悪化を防ぎ、風光明媚な自然的景観を生かした市街地造成を行い、豊かで明るい町政の実現を図るため、新たに申請地において共同源泉を求めたいので、申請に及んだ次第です」とある。町づくり中心として温泉を位置付けていきたかったようだ。そして昭和46年、町がした開発において新温泉源を求めて試掘していたところ、摂氏40度の温泉を掘りあてた。この町有の温泉の活用法として「福祉会館の建設」となったのである。冒頭の写真はその福祉会館建設後のパンフレットである。実はこのパンフレットは、ごく普通のパンフレットではあるのだが、中を開いてゆくと、温泉の浴場の写真が掲載されている。まだ20歳ころのわたしにとってはこのパンフレット、実は特異な雰囲気で手にしたものだ。その浴場の写真には女性のモデルが登場している。浴場の縁に立ち膝で座る女性はもちろん全裸で、それこそ二十歳そこそこの女性がタオルも持たずにまさにモデルとしてそこにたたずんでいる。写真そのものもA4版の見開きページの片面を埋めているから大きいのである。よくこんな大胆な写真を公的施設のパンフレットに載せたものだ、と感心させられたのであるが、意図は「美人をつくる女性のためのふるさと温泉」と見出しがあところから〝美人の湯〟を強調したかったのだろう。今、もしこんなパンフレットを作ったらかなりの話題になるかもしれない。いや、当時地元でどういう反応を得たか知らないが、きっと話題になったに違いないわけだ。モデルの女性は、いわゆる観光パンフレットに載るようなそれなりのモデルではない。どことなく素人の普通の女性なのである。わたしもそこそこ歳をとったから、このモデルの女性もすでに50歳を越えているとは思うのだが、久しぶりにこのパンフレットを目にして、その大胆さを思い出した次第である。

 さて、この福祉会館も今となってはだいぶ古くなったのだろうが、WEBページでこんな記録を探し出した。「辰口町総合福祉会館に共同浴場があったので、行ってみました。さすがに福祉会館。ご老人ばっかり。近所のご老人が多い様でした。けっこうたくさんの方が入ってて、洗い場が満員の状態でした。しばらくすると、空いてきましたが、ゆっくりつかるって言う感じではありませんでした。町の銭湯って感じです。建物はちょっと古めの様ですが、お風呂場だけ新しい気がしました。石やタイル張りだからでしょうか。場所が分かりにくかった。200円って言うのはさすが公共施設」というものだ。ほかにもそんな感想を扱ったページがあったが、どうも若い人たちには〝銭湯〟的な雰囲気で、今風の温泉施設とは違って捉えられるようだ。

 消えた村をもう一度⑲
 消えなかった村③


コメント    この記事についてブログを書く
« 「伊那谷の南と北」第2章 | トップ | それぞれの道へ »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

歴史から学ぶ」カテゴリの最新記事