Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

散り始めた桜

2007-04-14 09:53:32 | 農村環境

[背景は南駒ケ岳]


[背景は烏帽子岳]


 昨夜の雨で、このあたりの桜は散り始めてしまった。このところの比較的寒い朝が響いてか、桜は長持ちしそうな雰囲気もあったが、この雨は散り始めた桜を一気に散らしてしまっただろうし、満開であった桜に「さようなら」を言い渡してしまったように感じる。まだ満開まで至っていなかった桜は良かったかもしれないが、雨上がりとはいえ風も強く、花々には厳しい状況かもしれない。高遠の桜のことに触れたが、高遠の桜も散り始めたのかもしれない。

 妻が喬木村氏乗のお宮の桜を母に見せようと行ったところ、平日だというのにずいぶん車が来ていたという。それらの車はほとんどが県外ナンバーだったということで、このごろはローカルな桜でもよそから訪れる人が多いようだ。飯田下伊那では桜のスポットを案内する人がいて、観光客に手厚いサービスがさまざまな部分で展開されようとしている。長野県が観光専門の部署をこの春に作ったほどだから、観光立県に余念がない。ローカルな姿こそ受け入れられる部分もあるが、そうした観光がローカルさを失わせていくことは必然で、よそから人が来ることは嬉しいことかもしれないが、果たしてそれでよいのだろうかという心配もある。カメラマンたちが田んぼの土手を荒らしてしまうという話も昔からよく聞く話であるし、そうしたカメラマンの要望にこたえるために、意図的な環境や風景が作られてしまうこともある。

 地域の桜の名所を一覧にしたパンフレットが、県内でも郡単位程度に作られていたりする。きっと都会の人たちにもっとそんなパンフレットがオープンになれば、たくさんの人たちが訪れるのだろう。長野はそれほど遠い地ではない。だからこそ観光県として位置づけられる環境があるのだろうが、いっぽうで素朴だけで売っている部分が多いから、よそ者の多い風景から遠ざかる人もいる。地域を本当の意味で価値あるものとして継続してゆく方法を問わなければならない。都会びとの癒しの空間という言い方があるが、そこに住む人たちが癒される空間であることを第一にしたい。そうでなければそこで住む人たちは、都会びとしか見られない人間になるし、都会びとに左右される空間になってしまう。

 さて、冒頭の写真は、4/12に撮影した近所の桜である。この桜が散り始めたことから今日の文は始まったのだが、近ごろこの空間には桜の木が多くなった。上伊那の地方紙のニュースでも触れられていたが、飯島町田切では約1キロ近い道沿いに、10年ほど前に植えた桜がずいぶんと見ごろになってきたという。桜の木はけっこう成長も早いから、10年もするとそこそこの花を咲かせる。これから10年もすると、あちこちに桜の名所ができているのかもしれない。「ホタル」というと「どこでもホタル」みたいに「ホタルを呼び戻そう」なんていう活動をするが、まさに平和である。どこかよそ者の花を道端に咲かせて目を引こうという意識と似かよっていて、日本人らしい行動パターンを見せている。

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