Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

歴史から何を学ぶ

2007-04-16 08:22:32 | 歴史から学ぶ
 内山節氏は、「かつての日本には、自然や森や木を大事にする共通の意識があったという通俗的な節に、私は同意しない」と信濃毎日新聞連載の「風土と哲学」のなか、「ともにある自然⑤」(4/14朝刊)で述べている。そして「村で自然とともに暮らした人たちの発想と、国家のなかに自己を位置づけた支配者たちとの自然観は、古代から同じではなかったのである」と続けている。両者は乖離していて、それぞれが捉えていた自然とのかかわりや考え方には違いがあったというのだ。自然とともに暮らした村の人々は、自ずとそこにあるさまざまな暮らしは自然とのかかわりであっただろうし、そしてそこには神々が存在していた。現代人が神様を拝むのとは違うものであっただろう。いっぽうで支配者は、神々を利用していたのかもしれない。崇拝すべく神々を置くことで、民をわが手中にしていったのである。あくまで支配するためにそれは必要だったのかもしれないし、拠りどころとして神は信用できるものだったのかもしれない。

 そうした過去の支配者たちとは異なり、今や支配者もそうでない者も、さして変わらない自然観に陥っている。言い方を変えれば支配者は自然の怖さを認識したのかもしれないし、神を利用しても支配できないことも知ったのかもしれない。それをもっとも解らしてくれるのは、流行の地球温暖化である。地球上の異常気象は、どう考えても神のいたずらではない。人間の行為が地球上に異変を起してきたことは、誰しも認めることである。だからこそ、自然は脅威であっても、神々の脅威ではないことを知ってしまったのだ。自ら招いたことなのだから、どう進もうと自らの選択だと、どこかで認識しているに違いない。しかしながら、いざその脅威に触れれば、支配者にその責任を課せることさえ当たり前だと思うようになった。当然のように支配者との乖離した自然観ではなくなる。

 さて、温暖化による影響は、わたしたち人間に待ったなしの選択を迫っている。それを口にする報道も目立つようになった。いかなる行動に出ればよいのか、わたしたちはそうした厳しい現実を迎えている。しかしながら、根本的な思想の転換はできないと思っているし、それは文明の後退だと考えている節がある。いまだに政治には前進を望んでいるのだから、思想の転換などできはしない。選挙の争点は経済の前進であって、それがなくしては政治ではないと言えるだろう。都知事選において、立ち止まれといった浅野氏の思想は、とうてい受け入れられるものではなく、前進のみという雰囲気を持つ石原氏の思想の方が、どんなにか頼もしいことだろう。ことに景気が形の上では上向いている以上、今更ながら後退しようとする意見などもってのほかなのだ。ひとり勝ちとも言われる東京だからこそ、その誇りにおいても否定できない前進思想なのだ。選挙後の石原語録を通して、その言動こそ「石原らしい」と言う意見は多い。首都として君臨する「東京」に勝てる地方はないのである。とすれば、支配者である東京に、石原氏の方針で増やされるだろう緑は、いかほどに意味をなすものなのだろう、とそんなことを思うわけだ。内山節氏は支配者の精神との乖離は風化したというが、その要因は人々に信仰というものがなくなってしまったからに相違ない。かつて思っていたわたしの捉える信仰という現実は、民間の中にさまざまに存在していたが、あまりにも早急にそれらの意識は風化していった。やはり自然が人の手によって変化してしまったという現実が、風化の原点にあるように思う。形ばかりに行なわれている信仰的儀礼が、あまりにも信仰の伴わないものとなってしまったことにも驚かされる。

 人間は破壊しながら文化を育んできた。歴史的遺産として掲げられているものも、つまるところは自然破壊の後の産物である。そうしたものを世界遺産だといって保存していくのだから矛盾は底なしである。わたしたちは自らの歴史をどう評価するべきなのか、わたしにも解らないが、改めて歴史は自らを問い直す知識でもある。それをどう捉えてゆくのか、そうした方向性は敷かれているものではない。
コメント


**************************** お読みいただきありがとうございました。 *****