Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

中央自動車道の開通

2007-04-09 08:24:57 | 歴史から学ぶ


 ここに〝「中央自動車道恵那山トンネルの開通が沿線地域に及ぼした影響」の大要〟という昭和52年の資料がある。日本道路公団審議室の作成したものだ。昭和51年に実施した調査の報告書を要約したものという。内容は「伊那谷の中京圏等の接近」「松川町の梨生産と高速道路」「高速道路時代に対応した大型小売店の展開」「中央道開通後の国鉄飯田線」「恵那山トンネル開通による生活行動の変化」などをまとめている。

 中央自動車道の開通ということは、恵那山にトンネルが開くということであって、中京圏への最短の連絡が可能となったわけだ。長野県内でももっとも早く高速交通網の世界に入った伊那谷であるが、とくに南から先に開通していったということもあって、真っ先に中京への接近があったわけだ。それまでの所要時間は、飯田線経由だと3時間40分かかったものが、高速道利用では1時間に20分に短縮されている。

 次に松川町における梨生産への影響であるが、作付面積によると、昭和43年には日本梨が197ヘクタールだったのに対し、昭和50年には301ヘクタールに増加している。同じ比較でリンゴは212ヘクタールに対して155ヘクタールと減少しているが、果樹そのものの作付面積はトータルでは増加している。リンゴに比較して長期保存の利かない梨に対しては、交通の発達は影響が大きいということがわかる。この報告には「今後梨と野菜の調和ある発展の方向を考える必要が出てくるであろう」と述べているが、あくまでもこうした果樹の発展があったのは一時的なもので、ピークを向えた梨栽培は、しだいに衰退していく。もちろんその背景は農業経営者の高齢化であり、交通網の発達は農業離れという現象に拍車をかけたともいえる。皮肉な話ではあるが、農工分離を進めたのはいうまでもなく、その後分離された農業はご存知のとおり低迷に歯止めがかからなくなった。

 開通後の生活行動に関しては、恵那山トンネル向こう側の中津川と、こちら側の飯田と駒ヶ根、そして松川という4地点での資料が報告されている。例えば飯田では開通前に恵那山トンネルの向こう側へ日帰り行楽をしていた比率が約6割であったものが、開通後は7割6分ほどに15%程度増え、松川では同じ対比で7割が9割へ、駒ヶ根では3割5分が8割近くまで増加している。とくに伊那谷を北へ進むほどにその傾向は強まるのだろう。そして中津川でも1割8分程度だったものが4割6分ほどまで増加している。残念なことにここでも山の向こう側、いわゆる中京により近いところに住む人ほど、こちらほど山向こうに対しての憧れがないことに気がつかされる。3割近い数値で増加してはいるものの、こちら側がこんなにも中京圏を目指しているにもかかわらず、相手側はそんなに思っていないということは、当たり前なことなのだが、それが地域の方向性というものだと認識しなくてはならない。おそらく南から開通したからこそ、南へ向いた「トンネルの向こう」とい口上になるのだが、おそらくこのあと東京までつながった後には、逆に「恵那山トンネルの向こう」に特化していたものが、逆に北へ風向きが変わっていったに違いない。本当に一時的なことだったのかもしれないが、逆に、こちらが北へ目が向くことで、山の向こうも北へ目を向け始めたとも予想される。

 さて、近年のそんなデータがあったらどうなんだろう、などと思うが、時代が大きく変わった現在、「伊那谷の夜明け」と言われたほどの時代は、まさに歴史の1ページだった。近くを通る中央自動車道の橋から通る車を眺めては、そんな資料を引っ張り出したしだいである。
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