Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

団塊世代とは

2007-04-23 08:19:13 | ひとから学ぶ
 1965年から75年生まれの母親を「史上最低、最悪の親」と言ったのは、農民作家の山下惣一氏である。生活クラブ長野が松本市で行なった講演会で語った言葉である。この枠にわたしは入らないが、年代からいけば妻がその世代でもちっとも不思議ではない。わたしの世代は、数年生年が違うだけで意識がだいぶ異なる。加えて地域格差ということを最近盛んに言うが、むしろわたしの育った時代の方が、経済成長時代で地域によって環境は大きく異なっていた。だから地域格差はその当時の方が大きかっただろう。ただ、地域格差を縮めようとしていた時代と、地域格差が広がろうとしている時代では、明らかに後者の方が深刻だろう。山下氏は、「自分のの得意な仕事に就き、稼ぎ、プロのサービスを買うのが豊かなことと育てられたのか皆さんの世代。金にならない農業や家事は経験しなかった。だから勉強はできても生活力がない。生きるための知恵を子どもに伝えられない」という(『生活と自治』4)。金さえあれば自分は何もしなくてもよい、いわゆる自分のことは自分でする、というそれまでの流れを転換した世代ということになるのだろう。山下氏のいう生年世代がそれに正しく合致するかはともかく、わたしの印象では1975年以降の世代がそうでないとはとても思えないわけで、その後もその傾向は続いていると思うわけだ。

 この山下氏の言う世代が、いわゆる団塊世代の子どもたちの走りになるのだろう。団塊世代をターゲットにした〝10年後の「人口減少社会」〟(『文芸春秋』5)は、わたしの想定していることとほぼ同じような将来を描いている。いや、10年後の想定というよりは、すでにその現実は日々進んでいるといえるだろう。まず結婚と少子化、そして孤独死への流れである。詳しく説明するまでもなく婚姻願望はあっても婚期は遅くなり、遅くなれば少子化は進む。そしてよりリスクの高い出産、またそうした悩みへ誘う。疲れきっているそうした課題を持っている世代は、ますます踏み出せない世界が広がる。データとしてその数字を見せなければ結実しないこの世の中だから、あえて記事はデータとしてそれを証明するが、真新しい将来像ではない。

 先ごろ「他界した母の言葉にみる時代」という日記を書いたが、そこに展開された子どもや孫たちへの「ありがとう」は、これからの世代の感覚だとわたしは思ったが、少し疑問も湧く。〝10年後の「人口減少社会」〟では、「あてにならない団塊ジジババ」と言う。団塊世代が孫を抱く時代に入り、大量団塊祖父母が出現するが、果たして子育てのバックアップを期待されてもそれに応えられるだろうか、と疑問を投げかけている。団塊世代は自分の生活を大事にする世代だという。たまに孫との時間を持つにしても、子育てに積極的な世代ではないという。わたしにとって団塊世代は少し世代的に離れているため、つき合いの少なかった世代とも言える。会社に入って仕事を教えてもらったのは、とっくに退職してしまった世代である。自ら仕事を実践するようになると、それほど上司の助言がなくても仕事は回った。だからあらためて思い起こすと、わたしは団塊世代といわれる世代とはつき合いが少なく、会社の中でも親しい人はほとんどいない。だからその世代の考えていることが、いまひとつ解らないのである。子どもや孫のことをアルバムに整理し、楽しむ世代ではないのかもしれない、とそんなことを思うわけだ。加えて、日ごろ団塊世代をターゲットにした商売や帰農、あるいは田舎で暮らそう、みたいな企画が溢れているが、果たしてこの団塊世代の退職は、社会にどんな現象を与えるか不安さえ覚える。

 記事の最後で、「本気で少子化を止めたいと考えるなら、むしろ団塊を含めた高齢者の年金や医療保険をカットして、その分を子育て支援の財源に回してもよい、ぐらいに構えてしかるべきだろう」と述べている。同感である。団塊の世代は大量にいるから、こんな発言は瞬く間に消されてしまうだろうが、団塊世代はどちらかというともっとも恵まれた世代だと思う。今までの流れから、次世代のことを考える世代でもないのかもしれないが、孫たちの時代に安定した社会を継続させてやるには、そうした策はあって当然だと、現状からは思うのだ。ただし、そんななかでもリストラなどにより団塊世代にも格差が生じている。いかにまともに定年を迎え年金受給資格のある人たちがそう思えるかであると思うがどうだろう。
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