Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

地域の問題点も知ろう

2006-11-15 08:11:44 | ひとから学ぶ
 地域を見直す、というテーマは子どもたちの中に必ずある視点だとは思う。そんな意味では郡総合展覧会に「自磨中間報告」と題して報告した上村中学1年生のまとめは、自らの地域を見直してみたいという意図の現われではある。ただ、そこに展開される子どもたちの言葉は、どうみても「山の中の子どもたち」ではない。おそらく、都会からここへ来て体験学習をしても、同じような言葉が出てくるだろう。どんな言葉にそれを感じたかといえば、たとえば報告の冒頭にある<下栗の遠足のまとめ~わかったこと・感想~>の次のような部分である。

 「下栗(上村)の人は、心が広く、やさしい」
 「下栗の方々は、季節によって色々なものを畑で作っている」

 というような言葉を聞くと、子どもたちにとっては第三者的な世界なのだ。もちろん下栗というところが別世界的な空間だと捉えるのも無理はないが、しかし、上村すべてがそんな空間に近い。ところが、中学生にとっては自ら住んでいる地域が、既に別世界になっているということである。これをまとめた1年生の名前が3人書かれているが、それぞれがどのような家庭環境かは知るよしもないが、もしかしたら村外から移住した生徒もいるかもしれないし、あるいはサラリーマン家庭のため、たまたま上村という空間に身を置いているだけなのかもしれない。しかし、今やこういう現実が当たり前となっていることを、上村という空間からも教えられ、複雑な気持ちにもなる。自分の住んでいる地域の問題点を、暮らしの中でどこまで認識しているか、ということも必要だと思うのだが、彼女彼らにはそういうものが見えているのだろうか。どんなに自らの家が傾斜地で暮らしていなくとも、常に目にする傾斜地や、そこで繰り広げられるさまざまな問題は目にし、耳にしていると思うのだ。

 わたしが今のような自分になっているのも、どちらかといば中学時代のそんな問題意識から始まる。それの良否はなんともいえないし、つまらないことにこだわったために、今のようなどちらかというと先行きのない会社で細々と暮らしているのかもしれないが、その選択が失敗だったとも言わない。だが、地域の問題点を意識していたからこそ自らのライフワークを持ちえたようにも思う。ただ美化するだけではあくまで第三者である。当事者としての地域を見て欲しい、それが地域に暮らす若い人たちへの気持ちでもある。せわしい世の中であるから、そんなところに気を配る余裕はないかもしれないが、良いところも悪いところも認識しながら自分たちの言葉でまとめて欲しいものだ。

 もちろんこの展示報告が他人の言葉とも思わないが、田舎に暮らしているからこその言葉をもち得たいものだ。結論として次のようにまとめられている。

 「上村の人は、機械などを使わず、昔ながらのやり方で今までコツコツやっている事がわかった」
 「近所の人とおしゃべりをしたり、協力し合ったりして、地域の和を大切にしている事がわかった」
 「これからも〝昔ながらを大切にした生活を続けていきたい〟と多くの人が願っていた」
 「文之さん(彼らが聞き取りをした野牧文之さんのこと)は、私達を送り迎えしてくれた運転手さんや、私達にも自分で作った芋を下さった事から、上村の人は皆が知り合いで仲が良い事がわかった」
 「文之さんを始め、何人かの人が言っていたように、畑などの作物で作る郷土料理は、地元の人の中でも好評だという事が分かった」

 というようなものである。また「なぜ人口が少なくなったのか」というまとめには、「〝働く場所がなく、不便だから、若い人がみんな出て行ってしまうのではないか〟と文之さんは考えているそうです」と書いている。うーん・・・、文之さんの言葉ではなく、自らの言葉でまとめて欲しい、ここが第三者的な最たる部分のような気もする。結論以降のの言葉をみたとき、たとえば本当にこれからも〝昔ながらを大切にした生活を続けていきたい〟という表現でよいのだろうか、と思ったりしてしまう。ここでいう「昔ながら」とは機械を使わない暮らしとなるのだろう。「機械を使わない」から昔ながらを続ける、ではなく、使えないほどの傾斜地であるから昔からの知恵を使って暮らさざるを得ない、ということになると思うのだが、どうなんだろう。

 さて、そんな第三者的な視点ではあるが、たとえば多様な品種を育て季節ごとに食材を得ていて、ほとんど買い物をすることがないということに気がついたり、芋ひとつでも食べ方を工夫すれば多様なメニューとなることにも気がついたりしている。中間報告というから、加えて問題点にも光をあてて、この地域に暮らすことの現実を知って欲しいと思う。
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不思議な1日

2006-11-14 08:10:30 | つぶやき
 昨日は、いつもとは違う1日だった。自宅から直接現場に向かう。中央高速道路に入ると、異様にペースの速い車が後ろからやってくる。ふだんはそれほど簡単に抜かれないのに、あっという間に接近して抜いてゆく。外車だったから県外車かと思うと「松本」ナンバーである。1台ならさほど珍しいことではないが、次から次へとそんな車がやってくる。みな「松本」ナンバーである。この時間帯にこんなに早く走る車は、そうは見ない。そんな珍しい現象が、稀ではなく続く。わたしも少し後ろを付いてゆくが、ちょっと早い。この日、そんなにスピードを出すつもりもなかたから、すぐについてゆくことは辞めた。

 自分のせいではないものの、出はじめからいつもと違う風を受けると、1日ちょっとちぐはぐであったりする。豊科インターで降りると、国道19号を北進する。雲ひとつない空間に、白くなった山々が目立つ。これほど山々が美しい日は、それほどない。相変わらず国道19号は工事のための片側交互通行が多い。いつもなら信州新町から長野市大安寺経由で中条村へ入るのだが、この日は信州新町と中条村を結ぶ県道に入ってみた。初めての道でもそれほど迷わないわたしだが、珍しく道に迷う。現場についても、重大な事件があったわけでもないのに、いまひとつ仕事への集中力が欠ける。

 そこまではどうということではなかった。
 昼休み、しあわせの鐘公園で昼食をとる。15分間隔でなるしあわせの鐘を二度聞いた。毎回同じ曲かと思っていたら、違うようで、県歌「信濃の国」も流れる。ちょっと一休みでも・・・と思っていたら、年のころ70歳ほどのおじさんがやってきて車の窓を叩く。「ロープはないか」という。いくらなんでもロープは持っていない。話によると、その先の道端で財布と家の鍵を入れたバッグを、落としてしまったという。ロープがなぜ必要かというと、どうもロープがないと降りて行けないほどの場所だと言っている。「100メートルくらいあるといいんだが・・・」と言うが、そんな長いロープは、御柱の時の引き綱を作るときくらいしか今まで見たことがない。すぐそこだというので行ってみた。尾根の頂に道だけが通っている崖地である。右も左も崖である。落としたという場所に身を乗り出してのぞいて見ると、確かに谷が深い。そして、モルタル吹き付けがされていて、その勾配はとても下りられるものではない。おじさんは買い物に中条村の中心へ行く途中だったようだが、「もうあきらめた」というようなことを言う。そうはいっても落とした場所がわかっているのなら、今拾ってあげたい、そう思った。脇の山を降りていけばなんとかたどり着けるのではないだろうか、そんなことを思って試みた。なんとか下に下りることはできたが、そこからまたモルタル吹き付けされた崖を登らなくてはならない。つかまるものが極度に少ないうえに、吹き付けされた上にたまった土で、足が滑る。こんな場所を登った経験はない。それでもそうした土の堆積から生えた木々があって、なんとかつかまって登ってゆく。おじさんが遥か上方で場所を示してくれる。やっとのことでそれらしき場所にたどり着く。

 バッグの色を聞くと「空色」だという。必死になっていたものの、「いいねー、空色かー」などと思わず顔をほころばしていた。懐かしい響きだった「空色」という響きが。土色の中にあればすぐに見つかるが、さすがに険しい万里の長城のような場所だけに、上を通る車がゴミを放るようで、ゴミがたくさん落ちている。そんな風景も久しぶりだった。予想通りの場所にあったバッグを見つけると、ホッとしたものだ。だが、これからだ。この険しい崖を、また登らなければならない。高さにして30メートルくらい、いやもっとあるのだろうか。なんとか登ったが、登りきったときには「ゼー、ゼー」、この日の朝、氷点下になったほどだが、汗たらたらである。もちろん、「お礼を・・・」と言うが、「また落とさないでくださいよね」と丁重に断った。ショルダーバッグを持っていて、その中に入れていたのだろうに、なぜこんな場所でそこから出したんだろう、そんなことを思った。

 何度も通っている場所だったが、改めてそこから虫倉山の方を望んだら、役場など中条村の中心がよく見える。こんなに眺めのよいところとは、まったく知らなかった。
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消えた村をもう一度⑫

2006-11-13 06:51:35 | 歴史から学ぶ
 国見町、国東町、武蔵町、安岐町の4町が合併して国東市が誕生したのは、今年の4月である。国見町と武蔵町の人口が6千人弱、国東町と安岐町が1万人余ということで、合併しても3万人余という市である。国東と地域名をそのまま市の名前にしたわけで、もっともシンプルでわかり易い市名といえるだろう。当初は3千人弱の姫島村も含めた合併協議をおこなっていたが、島という分離した形であった姫島村は合併に加わらなかった。

 国東町という名前は、若いころから認識していた。国東半島というところに大変興味を持っていたからである。そんな興味を抱いていた国東半島を訪れたのは、もう2年近く前になる。遠いからなかなかもう一度行くことはそう考えられないが、行けるのなら何度でも行きたい場所である。長野県にはない風景がそこにはある。山の中という印象はあるが、まず山の形が違う。独立峰が典型的な趣を見せる。もちろん長野県内にもそんな山々がないわけではないが、山が多すぎるから印象が薄くなる。加えて長野にくらべれば人々がおっとりしている感があって、住むのなら長野よりは絶対国東の方がよい、そう思う。

 昭和55年に送っていただいたパンフレットは、A2版を4つ折にしたもので、裏一面には、国東町の地図ではなく国東半島全体の地図が掲載されている。その地図を開いて気がつくのは、この半島には鉄道というものがないのだ。宇佐から杵築にかけて日豊本線という線があるが、そこより先には鉄道がない。にもかかわらず、国東町に隣接する武蔵町の突端に大分空港がある。なぜ鉄道もない場所に空港が建設されたのか、そのあたりについては調べてもないが、交通の便が悪い場所に空港を造ったというところが不思議な話である。表紙にある塔は、国東塔といわれるこの地域の特徴ある石造塔である。岩戸寺にあるこの塔は弘安6年(1283)造立のもので、国の重要文化財に指定されている。岩戸寺には、別ブログでも紹介した修正鬼会が伝えられている。

 平成17年2月に訪れた際には、先の岩戸寺や文殊仙寺を訪れた。文殊仙寺の近くの山手に三十仏というところがあって神社参道の入り口に石像仁王が立っている(写真)。文政5年(1822)に造立されたもので、阿吽両像とも178センチと人と同じくらいの背丈である。三十仏信仰というものがあって、1ヶ月の三十日を三十の仏名に分けて、八日は薬師、十三日は釈迦、十五日は阿弥陀、十八日は観音、二十四日は地蔵というようにそれぞれの日にそれぞれの仏が守護としてあてられている。そんな三十仏信仰のこの地には、岩戸寺の支配堂があった。




 消えた村をもう一度⑪
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通勤時間帯の高速道路

2006-11-12 02:12:24 | つぶやき
 通勤時間帯の高速道路は通行量が多い。それは「追い越し車線を走りつづける車」や「混雑する高速道路」などでも触れたが、ETCの割引制度の導入によるところが大きい。金曜日、いつものようにその時間帯に高速にのる。現場からの帰宅ということで、豊科インターから入るが、掲示板に「塩尻北―塩尻間事故渋滞」と表示されている。せっかく入ったのにこういう表示があると嫌なものである。果たしてどの程度の渋滞なのか、どれほど時間を要すのか、そんな思いがめぐらされるのである。もともと高速道路であるならば、時間の計算ができるわけだが、ひとたび事故でも起きるとそういうメリットはまったくなくなる。加えてせっかくの割引も意味もなくなるのである。

 「3キロ渋滞」という表示にそれほどでもないのか、という判断をするが、しだいに近くなると、「3キロ45分」などという表示が目立つようになる。渋滞距離が3キロのまま増えないのに、通過するにはずいぶんと時間を要すようだ。ということはほとんど停まっているといった方がよい。にもかかわらず渋滞が伸びていかないのは、塩尻北インターで降りる車が多いということである。動かない高速にいても仕方ないので、結局わたしも塩尻北インターで降りることにする。しばらく高速道路沿いの側道を走り、高速の東側の県道へ入る。ちょうど高速が少し低いところに見えて、ほぼ平行して走る。だから高速の状態がよくむ見える。若干動いているのかもしれないが、ほとんど停まっている状態である。塩尻北から塩尻まで一般道を走ってせいぜい15分程度。だからこんな事故渋滞でなくとも、時折塩尻北で降りることもあったから、どうということはないのだが、せっかくの割引時間帯なのだから、ある程度長く走らないとお得さはない。だから損をしたような印象は否めない。もちろん所要時間もかかるのだから、気分はすぐれない。

 安全を確保するのなら、この時間帯の高速は走らないのが一番、と言いながらも、結局はお得感を味わいたい自分がそこにはいるのである。いや、好んで走っているわけでもないし、好んでお徳感を味わおうとしているのでもないのだから、そんな無駄な時間は短いにこしたことはない。だからどんなに危険でも、その危険空間を走ることが、わたしにとっては不遇な仕事環境に対する抵抗になるわけだ。
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悩み多き我が家

2006-11-11 11:33:28 | つぶやき
 子どもたちがどう受け止めているかはわからないが、世の中には矛盾が多い。息子の通う中学は、町全体がそんな雰囲気を作り上げているのかどうかわからないが、運動が盛んな方である。それを否定するものではないが、加えて勉強にも力を注いでいればそれにこしたことはない。しかし、現実的に両者をしっかりするには、周りの体勢も意識も高く保たないと難しいものである。高校受験に向けた時期を迎えて、我が家では息子と母の口論が絶えない。発端は今までにも何度か触れてきた中学駅伝への参加だった。自らの意志で参加することの意味は大きいかもしれないが、現在の長野県の高校入試体制をみれば、前記試験と後期試験があって、前期については明らかに中学時代の成績がものをいう。そして中学時代の活動も評価されるかもしれないが、いずれにしても教科の評価点が高くなくては、どんな活動をしていたとしても、比較の舞台にはあがらない。自らの意志で参加したものの、選手でなければ補欠でもない。そこまでして、今まで前期試験を目指してがんばってきたものを放り出して参加する意味があったものか、というジレンマに陥るのだ。

 ここ数回の実力試験は明らかに成績を落とした。お互いジレンマの中で、すでに終わってしまった事実を悔やむことはできないが、受験の先まで見通すと、もっと大事な時期を逸してしまったのではないか、と悩みは深まるのだ。息子の中学は、運動中心の雰囲気に加えて、近年荒れていなかったということもあって、どちらかというと学校の体制は勉強に励むという雰囲気がない。実力者といわれる教員もいないようだ。うわさによれば郡内でも学力は低い方だともいう。しかし、同じレベルで学力を評価する試験がないのだから、その事実に気がつくことはまずない。そのまま卒業してしまって、高校へ入ってから気がついても遅いのである。現在の枠でどんな位置にあろうと、枠の外へ出るのだから、そのあたりは高校以降の自分の苦労につながる。だからこそ、同一の舞台に登ることができるだけの学力をつけておく必要はあるはずなのだが、どうも息子の中学を見る限りレベルの低さばかりが目立ってしまう。

 高校の未履修問題が大きくなっているが、中学でも未履修があったという話題が報じられている。前述したようなひとつの教育の流れだけを見てゆくと、まさしく同じ舞台で履修して行くには、不要と思われる科目を削っても学力を上げて行く努力が必要になる。つまるところは、世界史や情報というものは、必修とはいえ、中学生にしてみれば5科目以外の美術や音楽と等しいことになる。9科目すべてにオール5を採ろうとしても、努力するだけで空回りしてしまうこともある。となれば何が必要かと選択せざるを得ないだろうし、人にはそれぞれ得手不得手がある。その中で選択されるものは、結局は将来に渡って評価基準となる科目、ということになるだろう。もちろん美術の道や音楽の道に進むんだと既に決めている子どもたちには、また別の選択があって当然だが、将来の方向を見出していない子どもたちにとっては、なるべくいざというときに「それは知りませんでした」ということのないようなレベルの学力を持ち合わせておく必要があるわけだ。裏返せば、では世界史は必要ないのか、という問いにもなるのだろうが、少ない授業時間の中で、どう選択していくべきかという判断はあって当然のことかもしれない。

 ようはどんなに正当なことを言おうと、将来を見据えた教育がされているわけで、受験ありきであることは事実なのだ。高校ですでにほとんど海外に遠征している著名なスポーツ選手が、なぜ高校を卒業できるのか、と考えれば、今回の未履修なんていうものは吹っ飛んでしまうように思うのだが、そういう事実をどう説明するのだろう。結局地道に積み上げている子どもたちは甘えは許さないぞ、というような不公平感を与えていることになる。矛盾を知ることで知恵をつけていくのだろうが、それにしても相反するものが共有しすぎているのも事実である。
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屋号を調べる

2006-11-10 08:11:59 | 歴史から学ぶ
 昨日の「八幡商店街の移り変わり」と同じような作品が「屋号から見る北市場の歴史」である。下伊那郡豊丘村の北市場というやはり旧道沿いにある集落を時代ごとに追ったもので、六年生の女の子の作品である。「私の家は〝おかし屋〟ではないのに〝かしや〟と呼ばれるのが不思議に思った」と始まり、その疑問から周りを見渡すと、商売にかかわる屋号が多いことに気づいたわけだ。そして、現在、昭和45年、昭和初期とさかのぼって家の移り変わりを調べてみたのだ。

 昭和初期の道沿いに並ぶ屋号をひろってみよう。いかけや、洋服屋、あんま、おまわり、魚屋、穀屋、もちや、紺屋、写真屋、生薬屋、床屋、傘屋、かじや、かしや、米屋、などなど、ほとんどが商売の種別で呼ばれている。50余軒の家が描かれているが7割ほどが商売をしている。加えて、同じ職種はあまりなく、まんべんなく異なったものを扱っているのである。もちろん商売とはいうものの、鍛冶屋や傘屋のように職人といった方がよい家もあるが、いずれにしてもふだんの暮らしは、この地域を歩けばほとんど間に合うわけだ。周辺にある農地を誰が所有していたかは作品から読み取ることはできないが、彼女の家はおかし屋でありながら、農地を持っていて養蚕までしていたという。そのまま現在も商売を続けている家はほとんどなく、廃業している。しかし、廃業後も従来の商売の屋号で呼ばれる家が7軒あるという。ではほかの商売をしていたはどうしたのかというと、どうもよそへ引っ越してしまったようである。彼女の家のように、商売をしていても田んぼを持っていた家は残り、そうでない家がよそへ行ってしまったのか、そんなことを想像させるが、作品からは読み取れなかった。

 ほとんどが商売の種類で屋号にあてられていることに驚かせられるが、むしろそんなシンプルさが当たり前の時代がかつての時代であったということに、親しさを覚える。解りやすいことが一番だし、いろいろ表裏を考える必要はない。ちなみに、商売で呼ばれる屋号のほかに、上辻、下辻、坂、洞といった地形とか位置情報からきた屋号もある。それらもシンプルであることに違いはない。屋号と家の変化を扱ったこの作品のほかにも、屋号を扱ったものが多かった。「三穂地区の屋号」「河野の屋号調べ」といったものは、年代を追うよりも屋号の意味を中心に扱っている。河野の場合も北市場同様に商売に由来するものがけっこう見られる。ちょっと密集した集落には、かつてはどこにもある程度の商売をしている家があったということがわかる。それにくらべると三穂のようにまったくの農村においては、地形や位置情報に関するものが多いことがわかる。今年は屋号流行といったところだったのだろうが、同じテーマで並べてみると、地域の特徴が見えてまた面白いものである。
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八幡商店街の移り変わり

2006-11-09 08:11:01 | ひとから学ぶ
 おとといに続いて郡総合展覧会の作品から触れてみる。

 飯田市松尾小学校6年生の男子が「八幡商店街の移り変わり」と題して調べている。自らそこに住んできたなかから、昔のマチはどうだったのだろうと調べたもので、40年前と20年前、そして現在の町並みを比較してその変化を捉えようとしたものである。八幡(やわた)は、飯田市街から国道151号線を阿南町方面に進み、飯田松川という天竜川の支流を渡り、しばらく行くと最初にマチらしく町並みが国道沿いに沿っているところで、平行してJR飯田線が走り、中心部から少し下ると伊那八幡駅がある。段丘崖が迫ったところで、空間的には飯田以北の開けたイメージからしだいに山間へ向かう境にある。国道に沿って1キロほど家並みが続くのだが、道沿いに家々が迫っているため、国道を広げることもできず、その町並みの前後に比較すると国道が狭い印象がある。そんなためなのか、現代風の街並みというイメージはなく、ちょっと暗い印象がある。その印象は、道だけからくるものではなく、やはり街並みに店の姿が少なく、表通りに明かりがあまり見えないというところからもくる。彼がきっとこのテーマに触れた原点に、「昔はどうだったのだろう」という気持ちは当然あったのだろうが、それは今の街並みが商店で連続していないことから感じられる違和感のようなものに始まっているのではないか、とわたしは思うわけだ。いや、彼がそう思わなくても、わたしはそう思いたいわけで、わたしの子どものころの常識からいけば、大小に限らず、マチといわれるような場所には軒を並べて店が続いているというのが当たり前のことだったからだ。

 現代のこどもたちが、そんな印象を持っているかどうかはわからないが、たとえば地方の大きめな都市においても、必ずしも店が連続しているわけではなく、むしろ連続していないことの方が多かったりする。郊外型の店が多いが、そうした店には「街並み」という言葉は似合わないし、空間が空きすぎていて、マチというイメージにはならないのである。そこへ行くと、かつて軒続きに店が並んでいた空間は、マチのイメージとして、記憶の中に固定化されているのだ。もちろん世代が異なればマチのイメージも異なるのだろうが、日本人は例えば京都の清水坂のような、あるいは観光地の土産屋が軒を並べる空間がとても好きなはずである。同じような空間がマチとして機能していたならば、きっと人々を集めることができるとは思うのだが、なかなかそういう空間を人任せで作ることは、今の情勢では難しいのである。ちまたで言われるシャッター通りなんていうものも、街並みという空間をほころばせてしまった末の姿だといえるだろう。

 さて、自らが住むそんな街並みの変化を捉えた彼の結果をうかがってみると、40年前と変わらず現在も商っている店は約3割程度で、新たに始めた店が1割、その他はほとんど辞めてしまった店となる。辞めたまま住宅に、あるいは空き地になってしまったようで、半分程度は40年前に比較すればなくなってしまったわけだ。考察の中で、とくにこの10年ほどの間に閉店した店が多いと述べており、マチの衰退ぶりがうかがえる。①かつての店が辞めてしまってそのままそこに住んでいるのか、それとも引っ越していったのか、②かつてここで開店していた人たちの出身地はどこだったのか、③どこからやってくるお客さんが対象だったのか、というような疑問はたくさんわいてくる。マチに限らず地域の変化を捉えるのは興味深いとともに、前述したように、思い込んでいるマチの姿、地域の姿の背景に何が問題としてあるのか、さまざまな視点をめぐらせることもできるのだろう。

 余談であるが、時折世話になっている寿司屋が彼の描いた街並みの地図に登場するのだが、まさにその寿司屋は40年前と変わらず営業されている。マチが寂しくなっても、長らく続いている店に、改めて思いを馳せるものである。
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レジに並んで思うこと

2006-11-08 08:18:22 | ひとから学ぶ
 現代人は買い物が好きだ。自給自足時代にくらべれば、現金を使ってみんなが自由なものを手に入れている。これほど銭を使う時代を、かつての時代に暮らした人はどう思っているだろう。間に合うものらわざわざ銭を使って買うこともないのだが、他人の暮らし向きが良く見えるように、銭を使うことでマスターベーションをしているようなものなのだ。それほど人間というものは、よそへ向かっているわけだ。内へ内へと向かうよりは、外へ外へという意識の方が発展性があるといえばその通りなのだが、そんな環境にはどうも性格的に合わない自分もいる。いや、若きころは、そんな気持ちは十二分にあったし、毎日同じことの繰り返しをするよりも、毎日が変化に富んでいた方が楽しいのはあたりまえのことである。

 生業としている人には失礼かもしれないが、例えば食堂を毎日営業している人は、毎日同じ仕事を繰り返し、加えてそこには客の顔の変化はあっても、そこから得るものは少ないように思ったりする。移動空間も少なければ、他人とのふれあいも極度に少ないように思う。さすがのわたしも、そんな暮らしは長くは続けられない。同様の生業はほかにもたくさんあるのかもしれない。

 話はそれてしまったが、わたしは買い物を好まない。もちろん金が有り余っていれば、節操もなく価格にこだわることもなく、レジに並んで人の買うものを覗くようなこともないのだろう。それが自信だとすれば、やはり裕福な人間ほど幸せだといえるのだろう。豊かさは銭の量で測れるものではないとわかっていても、現実は違うのである。銭がないほどに、人の行動が気になるし、ちょっとした噂話にも耳を傾けたりする。そんなものなのだ。

 さて、混雑している店でレジに並ぶのは、だれも好きではないだろう。レジほど空いているこしたことのない空間はない。わざわざ銭を払うのに待たされるのは嫌なものだ。加えて、レジに並んでいると、自然に前の人の籠の中が見える。「何を買ったんだろう」なんていうことは思わないが、見たくなくても買ったものが目に飛び込んでくる。ということは、自分がレジの前に来れば、後ろの人はわたしと同じことを考えるに違いない。店員に「こんなものを、この人は買うんだ」と思われるのは許すが、見ず知らずの人にそう思われるのは、裸を見られているようで良い気分ではない。と、なぜか昔からそんなことを思っていた。だから、レジが混雑していると、しばらく時間つぶしをしたりすることが、昔はよくあった。最近はモノを買わなくなったから、それほど人目を気にするようなものも買わなくなったが、それでも、見られるのは気分はよくない。だから、並んでいるとき、とくにレジの直前に来たときには、前のお客さんの籠の内を見ているようなそぶりはなるべくしないようにしている。もちろん、接近して、のぞき込むなんていうのは問題外である。ところが、さすがに買い物好きの現代人は、人目など意識もせずレジを平然と通り過ぎていく。世の中変わったものだ、と思うよりは、わたしはこの先生きていけるのだろうか、なんていう不安の方が大きい。だから買い物から足が遠のくのである。
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気温と出かける人の気持ち

2006-11-07 08:13:23 | ひとから学ぶ
 昨日に引き続いて郡総合展覧会の作品から得たものを書いてみよう。

 豊丘村の小学4年生の女の子が「気温と出かける人の気持ちの予想」というテーマでまとめていた。表題を見るととても興味深い印象がある。展覧会だから数多い作品の中から何にヒントを得るかといえば、表題とそこに表現されている雰囲気から目がとまったりする。この作品の表題とグラフにまとめられた「車の通行量」というキーワードから、すぐに気温と人々の行動パターンが思い浮かんだ。①人々が行動する時間はどんな時間なのか、②それが気温と関係するのか、③上下方向で違いがあるのか、④その時天気はどうなのか、⑤どんな車が多かったのか、⑥性別で違うのか、などさまざまな視点がわいてくる。とくに表題にあるような気温と行動がどう関係しているのか、というのは誰でも考えることかもしれないが、意外にもそんなことを現実の数字として調べる機会はないだろう。

 この作品の表題を見て、足を止めたのはわたしばかりではない。「気温と出かける人の気持ち」という部分に、けっこう多くの人が関心を示していた。残念ながらその表題から想像されたものと内容は若干異なっていて、気温と行動パターンは結果からはあまり見出すことはできていない。なぜそうなってしまったかといえば、8月15日から8月18日までの連続4日という調査日数にあったかもしれない。気温というキーワードで捉えるのならば、明らかに気温と行動に変化が現れる日を選択する必要があったかもしれない。そうしないと結果が同じようなものとなってしまう。時間帯で通行台数が異なるのは、気温との関連よりも違った意味があったりする。通勤時間帯に多いことはもちろんだし、田舎の道ともなれば、日中は減少することはだいたい予想がつく。当たり前のことが立証されるということも必要だが、表題の意図からいったら、やはり温度差というものが前面に出てきてほしいし、そういう結果があってほしいわけだ。

 とはいえ、ひとのやった成果であって何もしないわたしが批判するものではないが、そんな視点があればなお面白いという期待でもある。どうも彼女は、調べた結果を見ながら自分ならこうではないか、という「予想」をしたかったわけだ。視点としては面白いもので、前述した①から⑥のほかにもいろいろな見方ができるのかもしれない。加えて調査箇所を変えるとどうなのか、季節が異なるとどうなのかという見方もある。

 先日中条村での雑談から出た話にこんな話題があった。朝は何時から野に出るか、昼休みを何時までとるか、というようなものである。1日の中での仕事時間というものが、同じ村内でも地域によって異なるということである。昼になると3時くらいまで休みをとる地域もあれば、1時には仕事を始める地域もある。最近わたしが頻繁に訪れている同村のある地域は、昼休みどころか、午後12時から1時の間にも畑に働く人の姿がみえたりする。妻の実家のある周辺では、昼食後すぐに農機具の音を立てることは控えるように言われる。だから午後の始まりは遅いのである。というように、山間の農村地帯でも、時間の使い方がずいぶん違うことに気がつく。休んでいるときに働くというのは、本来なら嫌われるものなのだろうが、時代は変わってそんなことはお構いなしという人も増えた。まわりのことを気にするということは、けして悪いことではない。
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郡総合展覧会から

2006-11-06 08:21:15 | ひとから学ぶ
 下伊那地域の小中学生の理科や社会、国語などさまざまな教科にかかわる作品が集められた展覧会が、毎年行なわれている。今年もこの5日から7日まで開かれている。よその郡ではやっていない催しだということも聞くが、いまだに下伊那では続いている。しかし、長年見ていて思うのは、参加作品が減っているという印象である。昨年は理科や社会の作品を見て回る時間がなかったのでわからないのだが、数年前に比較すると明らかに展示数が少ないという感じがした。夏休みを中心とした1人1研究の延長上にあるこの作品展は、下伊那郡下の各学校から選ばれたものが並んでいるから、夏休みの一課題をやるには参考になる展示である。この展覧会をもとに来年の課題の参考にしようというような子どもは限られるのかもしれないが、多くの子どもたちの作品を見て、視点のおきどころを学ぶことができるような気がする。

 息子は小学一年のときから意欲的に郡展に出品することを意識してきた。とくに一研究の理科作品に力を注いだ。とはいうものの、やはりというか、おじさんが理科の教員だということで、かなりおじさんの力を借りたことは確かだ。そんなこともあって、最後の郡展まで毎年お世話になることができた。それはそれで、親としても見に行く楽しみとなったわけであるが、それよりもわたしにはさまざまな課題を展開してくれる子どもたちの作品を見ることの方が、行く楽しみとなっていった。子どもたち以上に、大人が見て楽しいものだとわたしには思うのだが、そんな気持ちで見に来る人たちはいないかもしれない。かつて、『伊那』(伊那史学会発行)誌上にこうした郡展の作品をもっと多くの人たちに閲覧できる機会をもって欲しい、というようなことを投稿したことがあるが、そう思う源には、大人でもなかなかこうした視点でものを捉えて、さらにそれを調べてみるということはなかなかできないことへの提言のつもりもあった。自分たちにはできないから、子どもたちの視点を借りて「自分ならこう思う」という場を持って欲しいわけだ。

 そんななかで社会、あるいは総合の作品に、わたしにはとくに興味がある。数は少ないがそうした作品から楽しい視点を与えられている。そんな視点を、今日一度では触れられないので、何回か触れてみたい。そんなひとつとして、「交差点のモラル」という作品について触れる。総合の作品として展示してあったのだが、停止線、いわゆる「止まれ」マークで運転手がしっかり止まっているか、ということを調べたものだ。8月1日午後5時半からの1時、阿智村消防第1分団前の交差点で観察したものである。82台の車のうち、停止した車8台、停止しなかった車74台という。ご存知の通り、停止とは徐行ではない。だから明確に停止した、というのを判断するのは第三者がもっともわかるのかもしれないが、それもまた絶対的な判断をするのは難しいかもしれない。そのへんについてはまとめの中で触れられていない。年代別、男女別のデータとしてグラブまとめているが、停止しない人の数が多いため、それぞれのグラフから認められる傾向があまり見えてこない。それも仕方ないことかもしれないが、課題の結果からだけみると、うまくまとめられない題材だったということになってしまうのかもしれない。しかし、まとめにもあるように「ほとんどの人が交通ルールを守っていない」ということを、子どもに知られてしまったということが、ここではポイントになるのだろう。やはり、ここからわかることは、一課題としての成果よりも、これが大人たちに何を語っているか、ということの示唆だと思うわけだ。それこそが大人たちが捉えなくてはならないことを、子どもたちに教えられたということになるわけだ。このまとめから、加えてどんなことが見えてくるか、そんなことを子どもたちに展開させていってほしいのだが、どうたろう。
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猪堀

2006-11-05 11:35:48 | 歴史から学ぶ
 熊の出没でちまたでは毎日のように熊の話題で盛り上がっている。昨年は目撃情報があっても人里へ下りてくる熊は少なかった。それにくらべると今年の状況は異常である。昨年は山に餌となるものがあったが、今年はそれがない、と一般的には言われている。小川村で縁の下の保管庫にやってきた熊は、1メートル20センチほどの縁の下で保管してあったリンゴをあさっていた。気がついた所有者が熊を縁の下から逃がさないように、人が来るまで動かずに待っていたという。熊は驚いて縁の下で立ち上がったが、背丈より天井が低かったために、その場でずっともがいていたという。2頭のうちの1頭は取り逃がしたが、ずっと動かずにいた所有者のすごさも感じられる話である。

 獣たちの変化を見るにつけ、山で何が起きているのか、そんなことを考えさせられるが、山に人が入らなくなって、獣たちも自由に暮らしているという雰囲気もある。獣たちとの戦いは今に始まったことではない。先日上伊那郡中川村の陣馬形山の中腹を横に走っている広域基幹林道を、中川村の美里から飯島町の日曽利まで走ったが、林道からこの日曽利に降りてきて最初の集落が山の田というところである。子どものころ、学校林がこの山の田にあって、作業に行った覚えがあり、何の作業をしてきたかは覚えていないが、山の中という印象は忘れることはなかった。仲間内では「ヤマンタ」と言って、ちょっと馬鹿にしていたような覚えがある。もともと日曽利という地域が、天竜川の東にあって、ほかの地域とは地形がまったくことなることから、「山の中」というイメージで捉えられていたことは確かで、その地域から通学してくる子どもたちは、当初から「山の中」というイメージで見れていたことは事実である。この山の田の道端に「日曽利山の田猪堀と周辺の文化財」という看板が立っている。「猪野」という地名も残るほど、古くから猪と戦ってきた遺構が残されている。猪が田畑に入れないようにめぐらした「猪堀」が、長さ160メートル幅1.5メートル、深さ最大1.5メートルで残っている。構築時代は江戸時代と推定されるという。残ってはいないが、柵を結って猪を防いだともいう。今で言うなら電気柵と同様の意味なのだろう。山の田の狭い空間にも田畑が耕作されている。そしてその周囲すべてに電気柵が設けられている。里の水田地帯とはまったく環境が異なることがよくわかる。

 こうした猪や鹿除けの防護施設を猪垣(シシガキ)とこのあたりでは言う。上伊那で最も古くに造られた猪垣は、記録では享保12年(1727)に箕輪町大出村のものという。飯島町では明和6年(1769)の記録が最もふるいものという。こうした猪垣は、日曽利山の田のような天竜川東岸よりも西岸の木曽山脈の麓に造られたものがよく知られている。造り方としては、山側の土を削り取って土手を築くもので、堀と土手ができ上がる。木曽山脈の麓にあるものはこうした形式の垣根で、延々と造られたようだ。そこにいくと、日曽利のものは、堀を造ったもので、そこから猪堀と呼ばれている。

 防護する方法のほかに猪射ちといって鉄砲で打って殺す方法もあったが、今とは異なり、「神仏に頼る」という方法もかつてはあった。今ではあまり行なわれない方法だろう。そんな神仏に頼ったものとして三峯講がある。どれほど効果があったかは解らないが、ちまたにそんな石碑も立っていたりすると、農産物がすべての糧であったかつての暮らしがうかがわれる。
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まだ続く部活

2006-11-04 01:41:34 | つぶやき
 ここに坊主頭の息子がいる。寒いのか恥ずかしいのか定かではないが、一分あるかないかの坊さんの頭になって、隠すように帽子を被っている。友だち同志でバリカンで刈ったというから、よく見るとむらもある。悪事を働いたお仕置きではない。長野県中学駅伝競争大会の練習に参加した男子生徒全員で丸刈りにしたというのだ。毎年恒例らしくて、この丸刈りが嫌で参加しない子どもいるという。きっと丸刈りがなければもう少しレベルは上がるのかも知れないが、案じることはない。レベルは上がってもレギュラーに割り込むほどのレベルの持ち主はいない。

 「二度目の部活」で触れたように、息子はその駅伝大会の練習に部外者から参加した。同じクラスから8人も参加するから所詮「遊び」の感覚なのかもしれない。それでも丸刈りがあるからまだ参加者は少なかったようだ。全校で20人弱。そのどん尻を争っている息子たちだから、大会に出られるわけではない。中学も3年生ともなれば、この時期は実力テストが頻繁にある。その大事な時期に毎日走りこんで帰ってくる。毎日机の上で寝ている。気持ちはわかる。わたしなど走りこんでこなくても、勉強を始めれば眠くなった。同じことを息子もやっているから、わたしにはあまり強くは言えないが、母とは毎日のようにやりあっている。勉強をしたくないから大会の練習をしているようなもので、活き活きとしている。無残にもすでに希望校に対して赤信号の状態なのに、それも参加者の中でドベ争いをしているような状況では、とても「辞めさせたい」とは思うのだが・・・。

 大会前日、参加者全員で丸刈りにしたという。ところが脱走するやつもいて、正規の補欠メンバーですら脱走した者がいるという。そんなことを話題にして盛り上がっている息子たちを見ていて、「こいつらマジに遊んでいる」としか思えない。県内のトップレベルが3人いる息子の中学は、二連覇を目指すが、今まで二連覇したチームはないという。そんなに優しいものではないことは解っているから、ドベ争いをしている親たちは今日で終わりと息子たちを送り出した。それも応援団だからやはり遊びの世界だ。

 さて、昨日その大会があった。2位に1分以上の大差をつけて二連覇を達成してしまった。喜んでよいものか泣くべきか、複雑な気分である。考えてみれば県内のトップレベルが3人もいるのだから、普通に走れば優勝は見えていたのかもしれない。この駅伝で優勝したいと、郡内から転校してきた選手もいるほどだから、「やりすぎ」という感も否めないが、そんな雰囲気だからみんながんばりが違う。初めて息子が練習に参加した日、生徒会の仕事で遅くなったらみんな練習を始めずに待っていたという。中体連まで籍を置いた部とはまったく違うそんな連帯感が、息子にははまったようだ。レギュラーにくらべればまったくレベルが違うのに、そうした連帯感があるのだ。全国大会は山口県だという。息子には、補欠の補欠の補欠なんだから連れてってもらえないよ、というが「そんなことはない」とまだ練習を続けるという。すでに進路の決まっている人たち(もちろん陸上で)と一緒に練習したところで、息子は進路が遠のいて行くばかり。やはり泣くべきかも知れないが・・・。
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食と季節感

2006-11-03 09:24:55 | ひとから学ぶ


 「ため池の環境は繊細である」で触れたように、この日の作業を「ツボとり」という。ツボを拾うことが目的のような名前なのだが、ため池を干して管理して、その副産物としてのツボなのだ。そして、ツボだけではなく、モロコやメダカも副産物となる。結婚するまではそんなものを食べた経験はなかったのだが、結婚後は毎年そんな副産物をいただくことが楽しみとなった。わたしはそれほど酒には強くないが、酒のつまみにこのツボはよくあう。せいぜい缶ビール一本でも、このつまみを前にすると、まさしく至福の時となる。とはいえ、写真のように煮付けるまでには手間がかかる。一つずつたわしで洗い、尖っている尻尾の部分をはさみで切断する。それからようやく煮付けるわけだが、ちょうど山椒の実がつくこのころ、山椒を匂い消しに入れる。山椒の風味が出るとともに、泥臭さはなくなる。それでもあまり好きではない人は多いかもしれない。息子も小さいころはけっこう食べたのだが、最近は食卓に並んでも食べるのはわたしだけだ。妻も息子も好みではない。とくに息子に至ってはまったく食べなくなった。

 今年は妻が味噌汁に入れてみるといって具のかわりに入れてみた。聞くところによれば、昔は味噌汁に入れて食べたことがある、という経験談を語る人が多いようだ。しかし、妻の家では味噌汁に入れることはなかった。やはり煮付けた方が美味しいからだ。妻は煮付けるときと同じように山椒の葉を入れて泥臭さ消そうと試みたが、確かに臭みはないが山椒の風味が強すぎて味噌汁らしさがなくなってしまった。ツボそのものは煮付けるよりは泥っぽくなくて見た目はよくなるのだが、実際に食べるとなんともいえない。息子に「シジミが入っていると思って汁だけでも飲んだら・・・」というが、一口飲んだだけで「もういい」と飲まなかった。結局息子の味噌汁もわたしが飲むことになったのだが、まずくはないが、やはり煮付けたものの方が美味しい。

 ツボの隣に盛り付けたのはモロコである。とはいえ、分別するわけではないから、メダカも混ざっている。これもまた煮付け方なのだろうが、砂糖をたくさん使って煮付けると生くささはなくなる。もちろん酒のつまみに合うことは言うまでもない。どちらもこの時期でなくとも食べることは可能だが、やはり秋の収穫後、ため池を管理することにより得られる楽しみということに意味がある。それとともにそれが旬のころだと自然と認識しているところに、経験からくる季節感があるのだ。
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眼下に広がる町なみ

2006-11-02 08:14:58 | 農村環境


 写真は上伊那郡飯島町日曽利(「ひっそり」という。呼び方だけ聞くとまさしく「ひっそり」)の山の田から下りてくると、正面に見える飯島の家々である。この道の先に日曽利の集落が展開されていて、その向こうには天竜川の谷がある。その向こうに飯島の町が広がるのだが、まさしく眼下に常にこうした光景があるわけだ。向こう側とこちら側の境界に天竜川の谷があるから、この両者には大きな隔たりを覚えるが、現実的にも両者には大きな違いがある。川向こうの飯島の平は、緩やかに木曽山脈の麓まで傾斜している。家々が立ち並ぶ向こうに木々が横に並んでいるが、これが段丘となっていて大きな地形の変化はそのくらいである。その段丘以外は、ほぼ一定に麓まで連続する。

 いっぽう川のこちら側は、いっきに集落に登った地形は、そのまま山の上まで急傾斜になっている。狭くとも若干の平坦地を利用して水田が点在しているが、まさしく点在であって、集団で水田が広がっている場所はない。川向こうとは大きな違いである。両者とも同じ飯島町であるが、川東にある地域はこの日曽利だけで、あとはすべて西側に位置する。もともとこの日曽利は、現在の上伊那郡中川村の旧南向村の一部だった。距離でいえば、正面に見える飯島が近かったということもあって、昭和の大合併のころ、分村して飯島に加わったわけだ。

 間に挟まれている天竜川がなければ、それほど意識はしないのだが、約百メートル低いところに流れる川が作り出したこの大きな谷は、明らかに両者の間に境界をもたらせている。その境界は現実的な境界でもあるが、意識的な境界ともなる。眼下にこんな風景を毎日見ていれば、そこに住む人たちは何を思うのだろう。と、そんなことを思ったりする。わたしの生家には、天竜川の支流である与田切川をはさんで、これと同じような風景を見せてくれる田んぼがある。その田んぼに子どものころ訪れると、川向こうの飯島の町がまさしく眼下に見えて、こちらとの空間が違うことを教えてくれていた。向こう側とは違うのだと。とくに当時は分校に通っていて、川向こうの本校のある地域とは世界が違ったのだ。「マチとムラ」そんな対比であったように感じる。このごろひさしぶりにそんな風景を見て、昔のことを思い出したのだが、その近くには家があって、その家の人たちは、毎日のようにこんな谷を挟んだ眼下の町なみを眺めているわけだ。「何を思っているんだろー」、そんなことを思うのだ。この大きな谷が、いったいそこに暮らす人々にはどう見えているのだろうと・・・。
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南と北の大きな違い

2006-11-01 08:07:03 | ひとから学ぶ
 愚痴といえば愚痴なのだか、昔から思っていたことである。長野県がなぜ南が損をしているかという現実の話である。そしてそれはかなりみみっちい話なのかもしれないが、実は大きな話なのだ。

 県庁所在地の長野市が北に寄っていることから、南の端尻尾から会議に出席するとなると、簡単なことではなかった。とくに昔のように電車ぐらいしか出張の方法がなかった時代には、長野市への出張も泊りがけだったのだろう。当然出張費が高くつくわけだ。同じ会社であれば、遠くからやってくる人にはそれなりに旅費を支給してくれるだろうが、自治体の理事者や職員が年間に何度も長野市に出張すれば、それだけで経費は高くつくわけだ。銭のある長野市はまったく金がかからないのに、遠くの小村が用でもない部分に銭を払わなければならないわけだ。

 そこでもっとみみっちい話をするわけだ。わが社も長野市に本社がある。だから会議といえば100パーセントに近く長野市で行なわれる。そして社員の出身地はもちろん長野市近辺が多い。人が多いからどうしてもよその部署へ回されることも多い。しかし、彼らは会議出張といって長野へやってくるから、自宅から会議に出ることができる。それでもって出張費をいただく事ができる。簡単に言えば、自宅へ出張と言って帰ることができるわけだ。加えて遠方からくるわけだからら、会議の日は1日会議であって、部署へ顔を出さなくてもなんらおかしなことではない。ところが、わたはしのように南の遠方から単身赴任として長野市内の部署に勤務しているから、その手は使えない。加えて会議を行なう本社まで歩いても5分程度ということで、部署で間際まで仕事をしていて会議に出向く。だから会議の日といえども完全なる勤務日なのである。とくに長野市近在から遠方の部署に勤務している人たちのことを考えてのことかどうか定かではないが、月曜日や金曜日の会議が多い。例えば月曜日に会議があると、長野市近在の遠方勤務者は、会議の始まる10時にあわせて自宅を出ることが可能だ。ところが、わたしの場合はふだんとまったく同じで、午前5時前に自宅を出発する。この違いは何だと思うが、そんなことは当たり前だといえばそれまでだ。しかし、こういう現実が、もう30年近く続いている。ずっと単身赴任で長野にいるわけではないが、自宅から通勤可能な勤務地にいたとしても、長野の会議に出席することでの恩恵はまったくないわけだ。

 さて、先日も金曜日に会議があった。長野からもっとも遠い部署からの出席者は、やはり単身赴任者である。が、彼は公用車でこの会議にやってきていた。そしてそのまま自宅に帰り、月曜日に公用車で出勤するわけだ。まさしくこれが大きな違いなのである。1回自宅に帰れば高速代を含めれば1万円かかるのに、それがただて済むというのだから1年に10回も会議があったら10万円の違いである。ずっとその差を感じてきたわたしは、そんなことで文句も言ったことはないが、そんな恩恵を悪用するやつも中にはいる。今はもう退職したが、公用車を通勤代わりに使っていたやつもいた。「仕事」だといわれれば文句も言わなかったが、そんなことを平気でできるやつもいれば、まじめに必ず会社まで出勤してから現場に行く人もいた。世の中さまざまだといえばそれまでだが、それを平等に見ることができない上司が馬鹿だということなのだろう。
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