Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

猪堀

2006-11-05 11:35:48 | 歴史から学ぶ
 熊の出没でちまたでは毎日のように熊の話題で盛り上がっている。昨年は目撃情報があっても人里へ下りてくる熊は少なかった。それにくらべると今年の状況は異常である。昨年は山に餌となるものがあったが、今年はそれがない、と一般的には言われている。小川村で縁の下の保管庫にやってきた熊は、1メートル20センチほどの縁の下で保管してあったリンゴをあさっていた。気がついた所有者が熊を縁の下から逃がさないように、人が来るまで動かずに待っていたという。熊は驚いて縁の下で立ち上がったが、背丈より天井が低かったために、その場でずっともがいていたという。2頭のうちの1頭は取り逃がしたが、ずっと動かずにいた所有者のすごさも感じられる話である。

 獣たちの変化を見るにつけ、山で何が起きているのか、そんなことを考えさせられるが、山に人が入らなくなって、獣たちも自由に暮らしているという雰囲気もある。獣たちとの戦いは今に始まったことではない。先日上伊那郡中川村の陣馬形山の中腹を横に走っている広域基幹林道を、中川村の美里から飯島町の日曽利まで走ったが、林道からこの日曽利に降りてきて最初の集落が山の田というところである。子どものころ、学校林がこの山の田にあって、作業に行った覚えがあり、何の作業をしてきたかは覚えていないが、山の中という印象は忘れることはなかった。仲間内では「ヤマンタ」と言って、ちょっと馬鹿にしていたような覚えがある。もともと日曽利という地域が、天竜川の東にあって、ほかの地域とは地形がまったくことなることから、「山の中」というイメージで捉えられていたことは確かで、その地域から通学してくる子どもたちは、当初から「山の中」というイメージで見れていたことは事実である。この山の田の道端に「日曽利山の田猪堀と周辺の文化財」という看板が立っている。「猪野」という地名も残るほど、古くから猪と戦ってきた遺構が残されている。猪が田畑に入れないようにめぐらした「猪堀」が、長さ160メートル幅1.5メートル、深さ最大1.5メートルで残っている。構築時代は江戸時代と推定されるという。残ってはいないが、柵を結って猪を防いだともいう。今で言うなら電気柵と同様の意味なのだろう。山の田の狭い空間にも田畑が耕作されている。そしてその周囲すべてに電気柵が設けられている。里の水田地帯とはまったく環境が異なることがよくわかる。

 こうした猪や鹿除けの防護施設を猪垣(シシガキ)とこのあたりでは言う。上伊那で最も古くに造られた猪垣は、記録では享保12年(1727)に箕輪町大出村のものという。飯島町では明和6年(1769)の記録が最もふるいものという。こうした猪垣は、日曽利山の田のような天竜川東岸よりも西岸の木曽山脈の麓に造られたものがよく知られている。造り方としては、山側の土を削り取って土手を築くもので、堀と土手ができ上がる。木曽山脈の麓にあるものはこうした形式の垣根で、延々と造られたようだ。そこにいくと、日曽利のものは、堀を造ったもので、そこから猪堀と呼ばれている。

 防護する方法のほかに猪射ちといって鉄砲で打って殺す方法もあったが、今とは異なり、「神仏に頼る」という方法もかつてはあった。今ではあまり行なわれない方法だろう。そんな神仏に頼ったものとして三峯講がある。どれほど効果があったかは解らないが、ちまたにそんな石碑も立っていたりすると、農産物がすべての糧であったかつての暮らしがうかがわれる。
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