Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

悩み多き我が家

2006-11-11 11:33:28 | つぶやき
 子どもたちがどう受け止めているかはわからないが、世の中には矛盾が多い。息子の通う中学は、町全体がそんな雰囲気を作り上げているのかどうかわからないが、運動が盛んな方である。それを否定するものではないが、加えて勉強にも力を注いでいればそれにこしたことはない。しかし、現実的に両者をしっかりするには、周りの体勢も意識も高く保たないと難しいものである。高校受験に向けた時期を迎えて、我が家では息子と母の口論が絶えない。発端は今までにも何度か触れてきた中学駅伝への参加だった。自らの意志で参加することの意味は大きいかもしれないが、現在の長野県の高校入試体制をみれば、前記試験と後期試験があって、前期については明らかに中学時代の成績がものをいう。そして中学時代の活動も評価されるかもしれないが、いずれにしても教科の評価点が高くなくては、どんな活動をしていたとしても、比較の舞台にはあがらない。自らの意志で参加したものの、選手でなければ補欠でもない。そこまでして、今まで前期試験を目指してがんばってきたものを放り出して参加する意味があったものか、というジレンマに陥るのだ。

 ここ数回の実力試験は明らかに成績を落とした。お互いジレンマの中で、すでに終わってしまった事実を悔やむことはできないが、受験の先まで見通すと、もっと大事な時期を逸してしまったのではないか、と悩みは深まるのだ。息子の中学は、運動中心の雰囲気に加えて、近年荒れていなかったということもあって、どちらかというと学校の体制は勉強に励むという雰囲気がない。実力者といわれる教員もいないようだ。うわさによれば郡内でも学力は低い方だともいう。しかし、同じレベルで学力を評価する試験がないのだから、その事実に気がつくことはまずない。そのまま卒業してしまって、高校へ入ってから気がついても遅いのである。現在の枠でどんな位置にあろうと、枠の外へ出るのだから、そのあたりは高校以降の自分の苦労につながる。だからこそ、同一の舞台に登ることができるだけの学力をつけておく必要はあるはずなのだが、どうも息子の中学を見る限りレベルの低さばかりが目立ってしまう。

 高校の未履修問題が大きくなっているが、中学でも未履修があったという話題が報じられている。前述したようなひとつの教育の流れだけを見てゆくと、まさしく同じ舞台で履修して行くには、不要と思われる科目を削っても学力を上げて行く努力が必要になる。つまるところは、世界史や情報というものは、必修とはいえ、中学生にしてみれば5科目以外の美術や音楽と等しいことになる。9科目すべてにオール5を採ろうとしても、努力するだけで空回りしてしまうこともある。となれば何が必要かと選択せざるを得ないだろうし、人にはそれぞれ得手不得手がある。その中で選択されるものは、結局は将来に渡って評価基準となる科目、ということになるだろう。もちろん美術の道や音楽の道に進むんだと既に決めている子どもたちには、また別の選択があって当然だが、将来の方向を見出していない子どもたちにとっては、なるべくいざというときに「それは知りませんでした」ということのないようなレベルの学力を持ち合わせておく必要があるわけだ。裏返せば、では世界史は必要ないのか、という問いにもなるのだろうが、少ない授業時間の中で、どう選択していくべきかという判断はあって当然のことかもしれない。

 ようはどんなに正当なことを言おうと、将来を見据えた教育がされているわけで、受験ありきであることは事実なのだ。高校ですでにほとんど海外に遠征している著名なスポーツ選手が、なぜ高校を卒業できるのか、と考えれば、今回の未履修なんていうものは吹っ飛んでしまうように思うのだが、そういう事実をどう説明するのだろう。結局地道に積み上げている子どもたちは甘えは許さないぞ、というような不公平感を与えていることになる。矛盾を知ることで知恵をつけていくのだろうが、それにしても相反するものが共有しすぎているのも事実である。

コメント    この記事についてブログを書く
« 屋号を調べる | トップ | 通勤時間帯の高速道路 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

つぶやき」カテゴリの最新記事