Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

写真でみる年中行事

2006-11-27 08:20:22 | 民俗学
 須藤功さんの著した『写真ものがたり昭和の暮らし8 年中行事』(農文協)が発行された。昭和30年代から40年代の写真を中心に、戦後日本が大きく変化してゆく時代の姿がそこには繰り広げられている。とくに写真家であり童画家である熊谷元一さんの写真が多く取り上げられていて、それらの写真にはその時代の人々のおおらかな表情が写しだされている。前作『人生儀礼』に次ぐ8巻目であるが、須藤さんとの縁で、昭和も終わりに撮影した写真を前作と今回の作に掲載していただいた。昭和も終わりに撮影されたものと、戦後の過渡期に撮影されたものは、同じ昭和というものの大きな違いがある。最も異なるのは服装である。今回の8巻に採用していただいた山梨県牧丘町(現山梨市)の道祖神祭りの写真には、この一年に夫婦となった二組の若夫婦が、オカリヤに向って参拝している姿がある。そこに写っている若夫婦は、コートあるいはジャケットを着ているのだが、今年の写真といってもなんら疑われないような雰囲気である。しかし、昭和30年代を中心に掲載されている行事に関わっている人たちの姿は、時代が異なることははっきりと感じられるわけだ。そういう意味で、昭和といっても時代の中で大きく変化していることが写真からうかがうことができるわけだ。

 さて、民俗の世界でいう年中行事というものも、体感されない形式的なもの、という印象になってしまい、年中行事そのものも廃れ、加えて「年中行事」という言葉すら人々にはしっくりこないものになってしまっている。明治5年に太陽暦に改暦され、一年の流れは行政主体に変化させられたということになるのだろう。冒頭でも触れられているが、確かに一年13ヶ月の旧暦にくらべれば、12ヶ月の新暦の方が月給は1回少なくて済むわけだから、出す方にはありがたい制度であったはずだ。行政主導の暦の変化は、その後も細かく行なわれてきた。記憶に新しいところでは、祝日の新設や祝日の月曜制である。小正月であった1月15日がどれほど地方の人々に大事なものであったとしても、無視されて変更されたのは、まさに行政主導の安易な変更といっても差し支えなかっただろう。しかし、かつての旧暦から新暦への変更は、まだ農耕が主な生業となっていた時代には大変な混乱であったに違いないわけだ。そのなかで、両者の暦が混在されて使われたというのも、必然だったのだろう。今の時代に変更されたとしたら、旧暦の必要性もなく、新暦は受け入れられたに違いない。不思議なのは、今でも二十四節季といわれるそれぞれの節目を季語のようにニュースで触れられることである。実感できない季語を使って季節を知らしめているのだが、常にそんな季語を聞きながら違和感を覚えている国民が多いはずである。須藤さんも触れているが、「七夕は梅雨の時期で」と気象予報士が言ったりする場合の新暦の七夕は、確かに梅雨の時期ではあるものの、旧暦では8月19日で、天候の安定している時期だった。暦を必要としていた農耕社会に対して、形式的に日を刻むためだけにある今の経済社会とは、暦の考え方がまったく異なるわけだ。

 環境回帰ではないが、自然を考える中の一視点として、混乱している暦のあり方を考える必要性も感じるわけだ。

 表紙カバーを飾る写真も、熊谷元一さんが昭和25年に撮影した現阿智村の節分の豆まきのものである。一升枡に入った豆を子どもたちがまいている姿であるが、ごく普通の家庭での光景であったに違いない。しかし、今や家庭でこうした豆まきがどれほど行なわれているかも疑問である。立春前日の節分にこうした豆まきを行なったわけだが、旧暦でゆけば正月前にその日があたることもあったという。
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