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教育民俗学の再構築

2006-11-26 00:44:03 | 民俗学
 「教育民俗学の再構築―柳田民俗学の教育観を手がかりに」は、今年度の長野県民俗の会総会における記念講演の題名である。筑波大学の宮前耕史氏の講演であるが、要旨には「教育現象あるいは教育をめぐる諸問題に対する民俗研究者の関心は、一般的にきわめて低調である。一方、近年における教育学の柳田研究の成果によれば、柳田国男の「学問」は、「それ自体が教育の問題を中心としていた」〔関口敏美 1995 『柳田國男における「学問」の展開と教育観の形成』〕。すなわち、柳田は「『郷土研究』によって『地方を本位とする学問』を興し、地方住民の主体としての自覚を喚起して、『郷土研究』の過程が同時にまた主体形成の過程でもあるような『学問』」として、民俗学を構想していたのである〔関口 同〕。そこで、柳田の「自己省察の学」「内省の学」としての民俗学に対する規定をてがかりに、いわゆる「教育民俗学」を批判的に検討しつつ、民俗学を「自己形成の学」として最構想してゆくことの可能性、課題や方法について探りたい、というのである。

 この要旨を読んでもなかなか全体像というか意図が見え難いし、民俗学がどういうものなのか知らない人には、摩訶不思議な世界にみえるに違いない。そんな要旨を踏まえて、実際の講演の内容に触れてみるが、ますます不思議な世界に陥ってしまうのである。講演資料にある意図を見てみる。

 ①「内省」とは「文化や社会」を「対象化」すること、およびその仕方と方法であり、
 ②「民俗」とは柳田による内省(「文化や社会」の対象化)の結果として存在する。であるとすれば、「民俗」とは柳田による「内省」の結果として存在するという点で、そもそも認識論的な存在であり、柳田自身が、同時代において「社会や文化」を「対象化」し、「経験を対象化」してゆくに際してのみ意味をもちうる。
 ③ところが民俗学は、そのような柳田による「内省」の結果としてある認識論的存在としての「民俗」を、外在的実在として固定化・形式化してとらえ、外在的実在として固定化・形式化された、研究「対象」、「資料」としての「民俗」から、民俗学の科学性を追求してきた。
 ④そのため研究者の主体性、研究主体の問題意識・課題意識といった事がらは問われることはなかったが、
 ⑤近年、「民俗」とは柳田による「内省」の結果として存在するという、認識論的存在として「民俗」があるということが再認識されるにつれ、研究者の主体性、研究主体の問題意識・課題意識といった事がらが問われるようになってきた。
 ⑥しかし、そもそも、研究者の主体性、研究主体の問題意識、課題意識といった事がらは、「内的生活体験」にもとづく「私的な、主観的なもの」にすぎない。
 ⑦この「内的生活体験」にもとづく「私的な、主観的な」ものにすぎない研究者の主体性、研究主体の問題意識、課題意識といった事がらが「社会性・客観性」とを獲得するがためには、歴史的存在、社会的存在としての「自己」を「対象化」してゆく必要がある。
 ⑧民俗学とは、研究主体に、「自己」を「歴史的存在、社会的存在」として「対象化」してゆくことを厳しく求めるという点で、本質的に「教育論」である。
 ⑨「教育民俗学」を、このような「教育論」としてある「民俗学」という立場から、再構築してゆく必要がある。

 以上のようである。外在的実在として固定化・形式化して捉えてきたため、研究者の主体性、研究主体の問題意識・課題意識が問われなかったというのはわかる。しかし、では社会や文化を対象化したり、経験を対象化してゆくことが「民俗」という名をつけられるものなのかどうかは、しっくりこないのである。質疑の中でもあったが、⑧に示している自己を歴史的存在、社会的存在として対象化してゆくこと=教育論というが、それは民俗学に限ったことではなく、歴史学などほかの分野も同様ではないか、ということになる。そして、さらに宮前氏は、「民俗学でいわれる伝承性とはどうかかわってくるのか」という問いに対して、「なぜ伝承性にこだわらなくてはならないのか」という。「なんでもよいのではないか」ということで、そうして対象とするものを固定化・形式化することを意味のないものだと言っているようだ。いまひとつよく解らなかった内容?、とそこにいた誰もが思う一時であった。
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