Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

ダイコン漬けの季節へ

2006-11-24 12:28:45 | 農村環境
 収穫の季節である。すでに米の収穫は終わったが、山間に行くほどに畑作物の収穫が細々行なわれている姿をみる。先日も軒下にダイコンが吊るされている姿を見た。おそらくたくわん漬けにするものだろう。水分が抜けるまで干されたのち漬けられるわけだが、最近は漬物を自家で漬ける家も少なくなった。どこでも作っているものだと思っていたのが、つい先ごろのことで、気がつけばどこの家も作っていないのである。とくにわが家の周りを見渡して、ダイコンを干している姿など見ない。もちろん漬物ともなれば、年寄がいないと漬けないくらいで、これからの年寄りは「買った方が安い」とか「買った方が美味しい」などとわけのわからないことを言って、中国の漬物を食べるわけだ。

 それこそダイコンは全国どこでも作られたものだろう。須藤功さんの著した『写真ものがたり昭和の暮らし 山村』を開いてみると、山の畑の収穫風景がたくさん映し出されている。その中に阿智村の昭和30年のだいこん干しの写真がある。茅葺屋根の軒下に葉をつけたままダイコンを干しているのだが、今はダイコンの葉はとって干しているのが普通のようだ。かつては干したダイコンの葉を煮物や味噌汁の具にしたり、ウサギなどの餌にもしたという。ダイコンの干した葉っぱなど今では食べてくれないだろう。最近は生ゴミが多くて、そんなゴミが焼却ゴミの重量を増加させている。食べ物を残さないように、なんていうが、食卓に並べる以前に多くのものをゴミとしてしまっていることに気がつくわけだ。

 ダイコンといえば煮物、というほどの印象がある。子どものころはあまり美味しいとも思わずにそんな煮物を食べていた。いや、あまり食べなかったのかもしれない。昔の煮物と今の煮物がどう違うのかわからないが、今食べると美味しいと思うのは、なにがどう変化したのか、昔の煮物を出すことができないから解明できない。子どものころの舌の感覚と今の感覚が違うこともあるだろうし、経験することでどう味わいが変化するかも正直わたしにはわからない。よくいう「昔は美味しかった」などという言葉も、わたしは明快にそう解釈できないから、あまり使わない言葉だ。昔の食卓に並んだものを、この場に出すことができないからいけないのだが、そんな方法があったら知りたいほどだ。

 さて、たくわん漬けや野沢菜漬けの準備をする季節だが、今の子どもたちは漬物などというものは口にしない。それどころか、わたしも漬物に進んで手を出すことはほとんどない。なぜこれほど日本人が漬物を好まなくなったかといえば、やはり汗をかいて働かなくなったからだろう。塩分を控えたほうがよい、なんて言う食生活改善の動きだけではないだろう。自らそんな漬物に手を出しもしないくせに、ダイコンを干す姿を見るにつけ、季節感を覚えるのは経験だけのものだ。これからの世代がわたしと同じように漬物に手を出さなくても、わたしの感覚とは異なるはずた、とそんなことを思ったりする。まさに漬物の衰退は、労働のあり方、価値観の変化と関係している。
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