Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

赤穂のマチを歩いて

2007-08-09 20:03:08 | ひとから学ぶ
 おそらくこの8月に土日以外に休日をとるのはこれが最後、あるいはあと半日くらいかもしれない。8月にこれほど働くのは(正規な就業日に、という意味で)もしかしたら何十年も働いて初めてかもしれない。このごろは「何で?」と問いかけても答えは出ない。自らが年老いて手が遅くなったのか、あるいはそれだけ仕事量が増えたのかなんともいえない。仕事量といったって、昔の方が成果はたくさんあげていた。ところがこのごろはやってもやっても戻っていってなかなか成果にならない。「計画的に」なんていう言葉があるが、計画していたって後戻りするような要因がたくさんあるし、他人の顔色見の仕事だから、世の中がうるさくなれば仕事は進まない。

 といことで今年の盆は休めずにウィークデーを働く予定だ。公務員と同じように、夏季の間に5日間の休日をとることができる。少し前は、それだけでは休日が足らず、有給休暇を利用していたのに、今やその5日間の消化すらできなくなった。当たり前のように消化していたのにどういうこと?、というところだ。春からどこかで休んで地元の郵便局に行かなくてはならない、と思っていた。郵政省が民営化されて、いよいよ郵便局が使いづらくなったようで、そのあたりの変わったところ確認しなくてはならないのと、地元の郵便局でしか利用できない振替口座への手続きもあった。午前中は現場で仕事をこなし、相棒に駒ヶ根駅まで運んでもらった。少し前に電車が発車したばかり、次の電車でまで時間があるため、少し駅前を歩いてみた。

 駒ヶ根駅前のことについては、さきごろ触れた。髪のカットにこの駅前までいつも来ているため、身近なマチだ。しかし、ゆっくりとそんなマチを歩くことはまずないから、久しぶりに時間つぶしのように歩く。実は駒ヶ根のマチ、と言うよりは赤穂のマチと言った方がしっくりくるが、子どものころからよくきたマチだ。〝よく〟といっても今のような頻繁に移動する時代ではなかったから、稀なことではあったが、〝マチ〟という認識ではかなり親しみのある場所であったことに違いない。もちろんそのころから駅前通りの中ほどにあった玉屋書店はお気に入りの場所だった。その店が今もそのままあることは救いだ。しかし、かつて賑やかだった駅前の通りには、シャッターの閉まった店が並び、アーケード通りの人通りもほとんどない。ウィークデーだと思えばそんなものかと思うが、そうはいっても夏休みに入っている。電車に乗ればそこそこの若者達の姿がある。すでに休日に入っている人たちも相当数いるはずだ。にもかかわらず開いている店をのぞいてもほとんど客の姿はない。「よくやっているなー」というのが実感だ。めったに外食などしないのだが、かつて息子が小さかったころ、そして会社が景気の良かったころは外食をした。そんな時代の記憶があるから、「あの店に行ってみよう」という気になる。麺類ならさほど食べるのに時間がかからないだろう、そう思いかつてよく行った蕎麦屋をたずねるちょっと早かったが、営業している。福寿美という蕎麦屋だ。大盛り蕎麦で1300円という金額だから、ちょっと高い。でもよく訪ねた蕎麦屋だった。夏真っ盛りだからこんな時期の蕎麦はそれほど美味いわけがない。その通りで昔ほどの美味しさは堪能できなかったが、白髪頭のおばあさんは、まだ元気で店に出ておられた。蕎麦はともかく、そんなお顔を拝見して店を後にした。すでに正午を過ぎているというのに、駅までの食べ物屋さんに人影は1人か2人。農業再生も大事だが、商家への対策はどえう考えているんだろう、とそんなことを思う。商売できなければ場所を変えろ、とか移転しろということなのだろうか。地域社会がマチには成り立たなくてもよい、ということなのだろうか。農業以上に厳しい世界のようにみえる。

 さて、玉屋書店で久しぶりに店長さんと声を交わした。少し白髪が見え始め、表情は昔どおり元気そうだったが、だいぶ書棚が減った。それも致し方なしというところだが、この店だけはいつまでも続けて欲しい店だ。
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四十九日間の彷徨い

2007-08-09 08:27:10 | ひとから学ぶ


 死後の追善供養に関する説明はたくさんのページが検索できる。そうしたページは例えばお寺のページであったり、葬儀屋さんのページであったりさまざまだ。このごろの葬式は葬儀屋さん任せだから、そうした追善供養の仕方もそれほど地域差がなくなってきたのかもしれないが、それでも葬儀屋さんそのものが地域性を重視しているから、葬儀屋さんの意向で詳細が決まったりするわけではない。結婚式が式場で行われるようになって画一化されていったことにくらべると、葬式を含めた死後の供養までの儀礼は、大きく変わったとはいうものの、まだまだ地域差があるようだ。

 十数年前にわたしが家を建てた際の建前の折、餅拾いにやってきてくれた近所のお婆さんが数ヶ月前に亡くなられた。建前ののちも時あれば家に寄ってくれたり、道で顔を合わせたりと、親近感のなくなった時勢にしては縁のあった方だ。その家の横を通っては通勤をしていているのだが、葬儀のあと、今までは北側の部屋に電気が点かなかったのに、その後ずっと電気が点くようになった。ようはそこに祭壇が設けられ明かりが点されているからだ。葬儀のあとにそのまま後飾りの壇が置かれるが、そこにはだいたい遺影や白木の位牌が置かれ、花や灯明、香炉が並ぶ。壇の脇には、7本の塔婆が置かれていたりする。この塔婆を七本塔婆といい、本来は初七日までの毎日、この塔婆の一枚一枚をお墓におまいりして建てていったものだが、もうずいぶん前から初七日の供養を行うとすべてを墓地に建ててしまうようになった。今はほとんど初七日法要を葬儀に引き続いて行っているため、埋葬の際に墓地に持っていってしまっているのかもしれない。

 かつて生家で祖母や祖父が亡くなったとき、母は毎日この塔婆を持って墓参をしていたことを思いだす。記憶が定かではないが、わたしはこの七本塔婆は、七日ごとに墓に建てていたようにも思う。いずれにしても四十九日までの間、毎日墓参し、祭壇の蝋燭に明かりが点っていた。四十九日間は亡くなった人の霊がその家の屋根棟にいる(『上伊那郡誌民俗篇』)ともいう。亡くなった人はまだ成仏できずに、懐かしくその家に留まっているということになる。家というものが重要視されていた時代の感覚ならそんな気持ちはよく解るのだが、今の時代のように家というものにそれほどこだわらなくなると、そういう意識が生きていることも不思議になる。言い方としては「あの世とこの世の間をさまよっている」というものが一般的だが、わたしにはむしろ前者の上伊那郡誌の事例が本当だと思う。あの世とこの世ではなく、近親者の身のまわりに居残っているという方が亡者の気持ちには合っているだろう。だからこそ、現在のように家族すら支えにならなくなった時代において、亡者はさまようことなく、あの世へすぐに旅立ってしまい、かつてのように火の玉も飛ばなくなったのかもしれない。

 自分の年齢の位置的なものもあるのだろうが、祖父や祖母が亡くなったころは、近親に葬儀が頻繁にあった。そういう年齢的な時期だったのかもしれない。しばらく近親にそうした葬儀がなかったから、これからあるだろう近親の葬儀後の気持ちのありようがなかなか解らないものだ。近所のお婆さんがなくなって、おそらく四十九日までだったのだろうが、盛んにふだんは明かりの点かない部屋に明かりがあって、そこを通るたびに気持ちが和らいだのは、家に留まりたくなる亡者の気持ちがあったからかもしれない。

 7/31の夜、帰宅の夜道を歩いていると、すでに盆提灯が点っている家があった。思わずもう8月1日かと思ってしまったが、亡き人々が偲ばれ、亡き人々が家に戻ってくる季節がやってきて、少し田舎も賑やかになったような雰囲気があってほっとするのだ。そうこうしているうちに、六道の杜の魂迎えがこの8/6に行われたと地方紙に報道されていた。8/7には同じ伊那市でさ「サンヨリコヨリ」という行事も行われていた。いよいよ盆である。
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