Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

道端の駆け引き

2007-08-25 08:36:26 | ひとから学ぶ
 駅への道において、屋敷周りにお年寄がいて挨拶を交わすことはよくある。それは以前にも触れたことだが、いっぼうで、わたしの姿を見ると物陰へ消える人もいる。おおむね年寄りは人が接近していることに気がつくのが遅いのだが、若くなるにつれて気がつくのが早くなるから、接近する間を想定して姿を消すのだ。その気持ちはなんとなく解るもので、わたしも自宅の周辺で草取りをしていて、見知らぬ人が接近してきたら、あまり顔を合わせたくないと思うこともある。そんな意識になりがちなのは女性よりも無愛想な男性の方が多いと思うが、このごろは女性でも気がつくと目を合わせないようにする人も多い。きっとそんな遭遇のあと、気まずく思う人となんとも思わない人がいるたろう。この差が人間性に大きく出る場合もあることは認識しておく必要がある。

 世の中〝めんどうくさい〟という意識がそのままそんなところに表れるようになった。挨拶をしないのは、単に〝めんどうくさい〟からしない、という人は少なくないはずだ。遠めに人の姿が確認できたら姿を消す、そんな行動は自然と身についてしまい、自然と時の流れに任せながら振る舞うことも意識的なものが加わってなかなかできなくなっている。ただ、その場へ進んでいく者としては、目を合わせないように、とか、姿を消すというものが意識的だと解ると、気持ちの良いものではない。「この人はいつも目をそらす人だ」と思えば、こちらも敬遠してしまいがちだ。それでも毎日通る道なのだから、とこちらもかなり近くになれば目をそらしていても、「おはようございます」と挨拶はする。その結果返答がなくとも、あまり強く意識しないことだ。「きっと気がつかなかったのだ」と思えればそれでよいのだ。それを過剰にこちらも意識すると、まず二度と挨拶をすることはない。

 田舎だからそんなことを思うのだが、マチ場に行けば考えは違う。人の波の中ではそんな意識を持つ必要もないし、人通りの少ない路地に入っても、基本的には田舎の雰囲気とは違う。さて、自宅にいるような停止している人に接近していく場合はそんなやり取りとなるが、どちらも移動していて、道端で会う場合には、また違った意識も生まれる。とくにわたしのように目の悪い者にとっては、遠いと誰だかはっきりしないものだ。目の悪い人は、じっと人の顔を見ていたりして、それでいちゃもんを付けられるなんていうことも珍しいことではない。ようは見えないから、人の顔を注視してしまうのだ。それを〝ガンをつけた〟などと言われるのが嫌なら、なるべく注視しないというのがよい。ところが逆に知人となれば話が違う。知人なのに見えない振りをして目を背けていたら嫌われることは必然だ。このあたりが目の悪い人の損な部分だ。適正に良く見える眼鏡なりコンタクトでもしていれば別だが、あまり見えない状態で世の中を歩くと言うことは、さまざまな問題を引き起こすわけだ。ということで、目の悪い人に限って、注視するか目を背けるかの極端な動きになりがちだ。目の良い人にはなかなかわからない駆け引きである。

 このごろは総近視時代であるから、かつてに比較するとそんな気分を誰でも味わっているかもしれない。両極端になりがちだとすれば、世の中に目を背けたくなる人が増えるのも納得できる。
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