Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

通勤途上で思うもの

2007-08-14 08:26:10 | 農村環境
 自宅から駅までを歩いていると、その時間だけでもいろいろ考えさせられる場面に遭遇する。そんななかから、今までに何度も触れていて、これからも何度も触れるであろう農村の実態というものについて考えてみる。

 「四十九日間の彷徨い」で触れたおばあさんの家は、数年前に外で暮らしていた息子家族が入って、一応跡取りが家を継いだ。しかし、サラリーマンでそこそこの年齢にあれば農業をするほどの気力もないだろう。年寄が不自由になり、それまで担っていた農業ができなくなれば自ずと荒地として維持するしかなくなるわけだ。梨の木を伐ったあとの畑は、わが家よりも立派な図太い草が生えている。余裕があれば草刈をするのだろうが、なかなかその余裕もなく、草は秋を待つのみだ。草を刈ろうにも果樹棚の架線が邪魔になるし、柱もある。心配なのはその周辺で農業をしている人たちの迷惑にならないものか、というところだ。

 その家に隣接した土地は、ほとんど草薮状態である。専業農家がまだまだ近隣にはあって、そうした畑はそこそこ手が入れられているが、専業農家ではない家の持分は前述の通りだ。かつての農家ばかりがある空間にわが家も含めて、後に家を建てた非農家という家が点在する。そんな空間にアパートもいくつか建ち、これが今の農村の集落イメージである。よそ者が入りだすと、協調という面でなかなか思うことあっても、旧来の住民もものが言えなくなる。アパートに隣接する道路や、背面の土手を見ると、これもまた見事な草がたち並ぶ。かつてわたしも共同住宅というものを経験したが、夏の間に周辺の草刈を一度は必ずしたものだ。盆前だというのに周辺は草だらけで、帰ってくる仏様も口惜しいかぎりだろう。

 数年前にこの道沿いに小さな新しい家ができて、老夫婦が暮らしていた。駅へ通うようになって家の前を通ると、雨戸が閉まっていることが多い。どこかよそで暮らしていて時おりやってくるのだろうか、などと思っていたら、時おりおばあさんが外で庭の手入れをしている。ほっとしたのだが、どうもかつての様子と違う。以前は車も止まっていたし、窓もよく開いていて、夜の明かりも見えたような記憶がある。8月、盆月に入って気がついたのである。軒先に盆提灯が吊るされている。おじいさんがなくなったのである。実はこうした老人世帯も当たり前のように近隣には多くなりつつある。息子たちが近くにいるのに老人だけの世帯というケースも多いが、娘が嫁に出て、その家の最後がみえているような家も多い。少子化とはそんな現実を生む。いずれ一人になり、誰もいなくなる。どうしようもない雑草空間は増え続けるのだ。

 このところ朝方駅へ向かうと、おばあさんたちが自宅周辺の草取りをしている。何人も見かける。朝の涼しいうちにということなのだろう。たったわずかな空間をみただけでも、そんな農村の姿がよくみえる。実はこんなわずかな空間だけではない。農村は広大である。いくつか建ち並んでいるアパートも、みるみる空家が目立ってきた。何度も言うが人口は減少し続ける。にも関わらず農村部に集合住宅を建ててきたのだから当たり前の現象なのだろう。収入が少なければ、ますます働かざるを得ないのは当たり前だ。農業再生は政治の大きな課題だろうが、止まるところを知らないほど変化を続ける。
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