宮古on Web「宮古伝言板」後のコーケやんブログ

2011.6.1~。大津波、宮古市、鍬ヶ崎復興計画。陸中宮古への硬派のオマージュ。
 藤田幸右 管理人

鍬ヶ崎の今(港町地区)

2016年07月01日 | 写真

 

 鍬ヶ崎防潮堤工事の進捗




工事足場がまだみえる(K.古舘氏撮影 2016.6.23)

 

足場がとれた今の写真=上の写真の反対側から撮影(同上 2016.6.30)

 

 

鍬ヶ崎防潮堤工事の進捗、

港町地区の「造船所」「旧ケーソンヤード」を囲む場所。

宮古港の一番奥まった焦点の場所。

津波の時は波が防潮堤に沿って両側からここをめがけて押し寄せる。

ケーソンヤード(ケーソン製作所)はその理由かどうか撤退したが、

上陸懸架中の中型船は、ここに集まった津波と一緒に防潮堤を撃つ事になる。

防潮堤のために鍬ヶ崎でここが一番(防潮堤が)破断しやすい場所になった。
防潮堤の曲がりの角(かど)の部分は今空いているがどんな仕上がりになるのか? 造りになるのか? 強度の点も観察しておかなければならない。ここは鍬ヶ崎の防潮堤の
アキレスの腱だ 
(ユニットユニットが連結してない事の矛盾、弱さがここに一番分かりやすく現れる) 

 

防潮堤壁の海側で、造船所の作業、日立浜の漁師の作業は見えなくなる。
壁の海側ですべての海の作業が窮屈になり不便になる

壁の海側の付近の海の景色が見えなくなる、

月山、出崎堤防・出崎埠頭、赤色灯台、出船入り船、宮古市場、など人の動きが消される。空を見上げる人もだんだん少なくなるだろう

 

防潮堤を今建てている重機やクレーンは防潮堤撤去のときも活躍する。

簡単に出来たものは撤去も簡単だ。


3.11の大津波でびくともしないで残った田老の第一防潮堤を思う。

(海側の第二防潮堤はほとんど跡形もなく崩壊したが陸側の第一防潮堤は残った)

第一防潮堤はその期間にいろいろ理由があれ

昭和9年から昭和32年まで

24年の歳月をかけて

完成していた。

先きの津波では第一防潮堤はほとんど無傷で残ったのである。
鍬ヶ崎もなにか大事なものを忘れていないか?

鋼管杭の高さの不均衡が分かる(下方)。当然ここは底版が弱くなるだろう

(同上 2016.6.23)

 

 

 

コメント
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