仁和寺って料理長の人に長時間労働させて、うつ状態に追い詰めたんでしょ?。ブラック企業大賞にもノミネートされてるみたいだしさ。
太平洋戦争の後、昭和天皇は出家して仁和寺の住職になる話もあったようだ。京都にある仁和寺は真言宗御室派の総本山のようだけど、仁和寺は皇族の人が出家して住職を務めていた門跡寺院ということになってるらしい。
小松宮彰仁親王が皇族出身の最後の仁和寺の住職ということになってるらしい。本当か知らない。ウィキペディアで調べると、小松宮彰仁親王は還俗した後、明治維新では軍事総裁に就き、戊辰戦争では奥羽征討総督に就いたようだ。佐賀の乱でも征討総督に就き、西南戦争にも出征したらしい。本当か知らない。日清戦争では征清大総督に就いたようだ。国際外交ではヨーロッパ諸国を歴訪したり、明治天皇の代理としてイギリス国王の戴冠式に出席したようだ。社会事業では日本赤十字社などの各種団体の総裁も務めたようだ。小松宮彰仁親王の妻は久留米藩の最後の藩主の有馬頼咸の娘らしい。小松宮家は小松宮彰仁親王で途絶えたらしい。
明治以降の仁和寺の門跡はウィキペディアに載ってる。釈雲照という僧は高野山で密教を学び、戒律の仏教を提唱したようだ。釈雲照は十善会という会を発足したらしい。次の仁和寺の門跡の泉智等という僧も高野山で学び、真言宗の布教のために日本各地を巡り、仁和寺の門跡や江戸時代の天皇の菩提寺の泉涌寺の長老になり、高野山派管長や金剛峰寺の座主にもなり、真言宗連合総裁にも就いたようです。
次の仁和寺の門跡の土宜法龍という僧は釈雲照を補佐し、十善会には久邇宮朝彦親王や小松宮彰仁親王も教えを受けに行ったようだ。土宜法龍は西域やチベットを旅行して密教学研究の基礎を築いたみたいです。土宜法龍は仁和寺の門跡や真言宗御室派の管長や高野山真言宗の管長や真言宗連合総裁を務めたようです。土宜法龍は南方熊楠と往復の書簡をずっと続けていたようだ。
明治時代の密教の僧で一番著名な僧は土宜法龍という真言宗の僧のようだけど、どうなんだろうなあ?。真言宗が今のようになったのも明治時代になってからの気がするし、天台宗にも関わってるんだろうか?。
仁和寺ですか・・・。
火をつけるか
。