東北発 歴史調査隊

明治維新の嘘を暴くブログです。

久我

2022-04-14 21:58:13 | 日記
 總持寺祖院というからには總持寺の祖院なんだろうなあ、たぶん。
 
 曹洞宗の大本山は福井県にある永平寺と神奈川県にある總持寺で、總持寺は明治44年(1911年)に神奈川県横浜市に移ったらしく、その前は石川県輪島市にあったみたいです。石川県輪島市に總持寺祖院があるみたいです。横浜に移った時の總持寺の貫首は石川素童という僧で、曹洞宗の管長だったようだ。
 
 曹洞宗の開祖の道元禅師は村上源氏の久我氏の出身で、源通親という人の息子という説が有力で、源通親は久我通親や土御門通親ともいわれるようです。福井県吉田郡永平寺町に永平寺があって、永平寺には道元禅師の廟所があるようです。
 
 明治維新の頃の久我氏の久我建通という人は一条家から来た人らしい。
 
 ウィキペディアで調べると、久我家の菩提寺は京都にある臨済宗の寺の大徳寺にある清泉寺らしいけど、清泉寺は明治時代に合併して三玄院になってるみたいだけど、詳しく知らない。明治維新の話も嘘の気がするけど、そうやって御家乗っ取りというか、日本人になりすますようなことをしてるの?。
 
 大徳寺ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

生駒

2022-04-14 20:42:46 | 日記
 旧皇族の皇籍復帰とか、テレビや新聞にだまされるほうがバカってかんじ。
 
 山形県飽海郡遊佐町にある大物忌神社では大物忌神を祀っていて、大物忌神は豊受大神と同じということになってるらしく、倉稲魂命と同じだったり、豊岡姫ともいうみたいです。大物忌神社の御本社は鳥海山の山頂にあります。
 
 伊勢神宮の外宮は豊受大神宮というらしく、豊受大神を祀ってるらしい。豊受大神は内宮の祭神の天照大神の食事のために丹波から勧請されたことになってるようだ。
 
 青森県には南北朝の南朝の3代目の天皇の長慶天皇が落ち延びてきた伝説があるらしく、弘前市の旧相馬村の紙漉沢というところに上皇宮があって、長慶天皇の墓所があるらしい。
 
 インターネットで調べると、坂上田村麻呂が蝦夷征伐の時に宝龍権現を祀ったのが始まりということになってるらしい。上皇宮は宝龍権現宮や法龍宮や龍田神社ともいわれてたらしいけど、昭和40年に上皇宮にしたらしい。他人のブログを見て書いてるんですが、いいんでしょうか?、これで。
 
 岩木山の山頂にある3つの山のうちの1つも鳥海山らしいけど、真中が岩木山で、その隣が岩鬼山と鳥海山なの?。岩木山神社には本殿の隣に池があって、龍神が祀られてるんだよなあ。
 
 奈良県生駒郡三郷町にある龍田大社では風神を祀ってるらしいけど、龍田大社では天御柱大神と国御柱大神を祀っていて、天御柱大神は志那都比古で国御柱大神は志那都比売ということになってるみたいです。龍田大社のHPを見ると、龍田大社の摂社には龍田比古と龍田比売が祀られていて、白龍神社も祀られてるみたいです。
 
 奈良県北葛城郡河合町に広瀬大社があって、若宇加能売命を祀っていて、広瀬大社のHPを見ると、若宇加能売命は大物忌神や豊受大神と同じようです。
 
 広瀬大社は龍田大社と関係あるらしく、広瀬大社で水神を祀っていて、龍田大社で風神を祀ってるらしいけど、詳しく知りません。
 
 龍田大社ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

伊勢

2022-04-14 20:29:55 | 日記
 俺は何の話を書いてたんだ?。違う話に次から次と変わってしまいそうだ。
 
 山形県飽海郡遊佐町にある大物忌神社では大物忌神を祀っていて、大物忌神は豊受大神と同じということになってるらしく、倉稲魂命と同じだったり、豊岡姫ともいうみたいです。大物忌神社の御本社は鳥海山の山頂にあります。
 
 大物忌神社は江戸時代は修験道で、遊佐町に大物忌神社が吹浦口ノ宮と蕨岡口ノ宮があって、大物忌神社の蕨岡口ノ宮には江戸時代に三十三の坊があって、安倍頼時の子孫の坊の住泉坊は大物忌神社の蕨岡口ノ宮の別当を務めていたみたいです。本当か知らない。
 
 伊勢神宮の外宮は豊受大神宮というらしく、豊受大神を祀ってるらしい。豊受大神は内宮の祭神の天照大神の食事のために丹波から勧請されたことになってるようだ。
 
 皇族っていうのは、最近、日本社会を騒がせてるので説明しなくてもわかると思うけど、太平洋戦争の後、大正天皇の息子の宮家以外は皇籍から離脱したらしい。この人たちを旧皇族というらしい。
 
 明治維新の後、久邇宮朝彦親王から皇族の人が伊勢神宮の祭主を務めるようになったらしく、太平洋戦争の後は天皇の娘が伊勢神宮の祭主を務めるようになって、今の伊勢神宮の祭主は上皇の娘の黒田清子さんらしい。
 
 久邇宮朝彦親王の息子の梨本宮守正王は太平洋戦争の終戦前の伊勢神宮の祭主らしい。梨本宮守正王は鍋島直大の娘の鍋島伊都子という女性を妻にしたようだ。梨本宮守正王と鍋島伊都子の娘は大韓帝国の最後の皇太子の人の妻になったようだ。
 
 久邇宮朝彦親王の息子の久邇宮邦彦親王は鹿児島県にあった薩摩藩の最後の藩主の島津忠義の娘を妻にしたらしく、久邇宮邦彦親王の娘が昭和天皇の皇后の香淳皇后らしい。
 
 祭主は伊勢神宮でのみ置かれてる役職らしいけど、ウィキペディアで調べると、祭主は伊勢神宮で行われる大祭で奉幣使として行って、祝詞を奏上して、天皇の意思を神に伝える役目の人らしい。
 
 三重県伊勢市にある伊勢神宮の内宮は皇大神宮というらしく、御神体は八咫鏡らしい。天皇の祖先は天照大神ではない気がするけど、久邇宮朝彦親王って人が怪しいんだろうか?、やっぱり。
 
 伊勢神宮ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

岩城

2022-04-14 20:05:53 | 日記
 沿岸に住んでるならともかく、岩手県に住んでても、震災復興なんて、まったく関係無かったんだろうなあ、俺には。
 
 なんだったんだろうね?。震災から10年以上経って、俺も50歳近いおっさんになってしまった。
 
 南部氏は本当に明治時代の前に盛岡にいたのか?って話を進めたかったんだけど、その前に書いとくか。
 
 岩手県奥州市の江刺に豊田館跡があって藤原経清の居館跡だそうです。豊田館跡の近くに藤原経清の墓所の五位塚があります。藤原経清は宮城県の亘理郡の辺りにいた人で、亘理権太夫ともいわれるらしい。奥州藤原氏の初代の藤原清衡は江刺で生まれ育ったことになっていて、藤原清衡は藤原経清と安倍頼時の娘の息子だそうです。
 
 平安時代に岩手県にいた安倍氏の人たちは前九年の役で源頼義と源義家に討たれたことになっていて、藤原経清も安倍氏の人たちと一緒に戦って、首を刎ねられたことになってます。
 
 奥州市は江戸時代は伊達藩で、奥州市の江刺には岩谷堂伊達氏がいて、ウィキペディアで調べると、幕末の頃の岩谷堂伊達氏には亘理伊達氏から来てる。明治維新の後に伊達氏から岩城氏に戻したようだけど、その後がわからない。
 
 亘理伊達氏の伊達邦成という人は明治維新の後に北海道に移住して北海道の伊達市の辺りの開拓に携わったようだ。伊達邦成は日本基督一致教会というところの信者だったようだ。
 
 江戸時代の秋田県由利本荘市には本荘藩と矢島藩と亀田藩があって、本荘藩の藩主は六郷氏で、矢島藩の藩主は生駒氏で、亀田藩の藩主は岩城氏だったみたいです。本当か知りませんけど・・・。
 
 亀田藩の岩城氏と奥州市の江刺にいた岩谷堂伊達氏の岩城氏は同族ということになってるらしい。岩城氏は戦国時代は福島県いわき市にいたことになってるらしい。亀田藩の岩城氏は明治時代の終わり頃に岐阜県にあった郡上藩の青山氏の人が継いだようだ。
 
 奥州市の江刺の街の岩谷堂に光明寺という曹洞宗の寺があって、岩谷堂伊達氏の岩城氏の墓所があります。岩谷堂伊達氏の岩城氏も本当に明治時代の前に江刺にいたんだろうか?。
 
 光明寺ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

南部

2022-04-14 19:46:56 | 日記
 ヘビに首を絞められてるみたいに苦しい。
 
 明治維新の話も嘘の気がするけど、明治時代の前に本当に南部氏は岩手県にいたのか?ってことなんだよなあ。
 
 南部藩の最後の藩主は南部利恭という人のようだ。次の南部氏の南部利祥は南部利恭の息子らしい。南部利祥は陸軍の軍人になり、日露戦争で満州で戦死したみたいです。次の南部氏の南部利淳も南部利恭の息子で、南部利祥の兄弟だそうです。次の南部氏の南部利英は一条家から来た人で、南部利祥の娘を妻にして南部家に養子に入ったみたいです。南部利英の時に太平洋戦争の終戦を迎えたみたいです。
 
 昭和の初めから太平洋戦争の頃に岩手県出身の人が軍や政治の要職に就くことも多かったようだ。明治維新の話も嘘の気がするけど、明治時代の頃に岩手県に来た人たちがいたとしか思えないんだよなあ。
 
 南部杜氏と小野組と古河財閥の話は前に書いてるので、省略。それに浄土真宗のことも前に書いてるので省略。
 
 平安時代に岩手県にいた安倍氏の棟梁は安倍貞任で、盛岡にあった厨川柵にいて、厨川次郎といわれるみたいです。
 
 安倍貞任の息子が津軽に逃げて安藤氏(安東氏)の祖になり、安藤氏(安東氏)は戦国時代は秋田県にいたらしい。安藤氏(安東氏)は江戸時代は秋田氏を名乗っていて、福島県にあった三春藩の藩主だったらしい。本当か知らない。
 
 盛岡にある聖寿寺という臨済宗の寺に南部氏の墓所があるらしい。HPを見ると、昭和5年(1930年)に南部家霊廟が建立されたようだ。岩手県は外国から来た人たちに征服されてるみたいだし、何が震災復興だったんだろう?。あほらし。
 
 聖寿寺ですか・・・。
 
 
 火をつけるか